「あは、さっすがだね〜。やっぱり**お姉さんがいっちばん頼りになるう」

 無邪気な笑い声を立てて、彼はテーブルの脚を蹴飛ばし、煙草の火を濡れ濡れとした赤い舌で掻き消した。
 小さく華奢な体からは想像もつかないほど強い力で、ぺたりと床に座り込んだままのわたしの手首を掴んで立たせると、べっと舌を出す。
その舌はいつも銜えている桃色の甘いキャンディのせいで人工的な色を染み込ませていたはずなのに、踏まれて汚れた雪道のように灰色に汚れていた。

「あ〜あ、今日はるみかのこといーっぱい可愛がってあげるつもりだったのに、つまらない仕事が増えちゃったあ。僕が戻るまで、イイ子で待ってるんだよ?」

 くりくりとした大きな瞳に映るわたしの唇の色が青ざめていようと、熟れた果実のようなルージュを纏っていようと、彼の瞳の色にしか染まらず判断ができないのだった。
 アンクルストラップが付いているポインテッドトゥは、日毎わたしの足の形に寄り添ってきてしまう。
今しがた噴出したばかりの血のように毒々しいほど赤い、彼が用意したそれを彼の前では常に履いていなければならない。
 そうしないと癇癪を起こした幼児さながら家の中の物を激しく投げ倒した挙句、何事もなかったかのようにけらけらと計算された幼さで笑うのだ。
 チ、と不機嫌に歪んだ唇の向こう側から舌を打ちつけた音がくぐもって聞こえる。
踵からバランスを失い身体の軸はぶれていた。ただ手首を掴まれたままだったために、殴られたサンドバッグのようにゆらゆらと揺れるのみだった。
 
「……返事がねぇな」
「…………」
「もしかしてぇ、舌引っこ抜かれちゃったの?」
「……る、して」
「返事は、はい、だよ?そんなこともわからないの?」
「許してッ……!」

 手放した意識がわたしの元に戻ってきたとき、彼はベッドの端に腰掛けて、裸の背中を曝したまま煙草を燻らせていた。
 開けっ放しのカーテン。窓に月も星もない。代わりに飲み込まれた夜の隙間から漏れ出す暁光が仰々しく朝を開いた。気だるい朝だった。

「ああ、もう目が覚めちゃったの?ざーんねーん。まだイケたのになあ」

 不自然なほど明るい声音とは裏腹に、ふー、と細く長く煙を吐き出した横顔はすこし疲れているようだった。

「女って便利な生き物だよねえ。寝てても濡れちゃうんだから。それとも〜、るみかが特別淫乱なのかな?」

 伸びてきた指先に反射的に身体が身構えてしまったけれど、彼はわたしの足首からストラップを外しただけだった。窮屈だった爪先が解放されて、ポコンとふたつ間抜けな音をさせてそれはベッドの下に落ちた。
 わたしの意識には重たい眠気が巻きついていて、朝は冷たく清らか過ぎた。
 鼻腔を通って意識を奪った代物は、一過性の効果しか及ぼさないものであることを、わたしは知っていた。嗅いだことのある香りだったからだ。
そして、夜の闇に溶けていた黒いフレアワンピースを身につけたままのわたしの身体は蹂躙されてなどいないことも。口からべらべらと語られるのは、最近彼と親しくしている作家の虚言癖がうつったせいであることも。

「もう飽きちゃったぁ。帰っていいよ」

 ごとり。重厚な扉に風穴を開ける一音は、蝶のように鮮やかで美しいラインを持つ洋服たちを身に付け、虫籠の中で虚しく羽根をバタつかせる日々をこじ開ける鍵の音だった。
 足元に転がった「あれ」を見て、飴村乱数は眉ひとつ動かさずに笑みを貼り付けたまま、わたしを見下ろしていた。
彼が事情を知悉しているようだということは、彼の顔と名前を知っていれば腑に落ちる事実だった。
 追っ手の姿は見当たらず、目的の建物は目と鼻の先。どう撒いてそこまで辿り着くかに意識を奪われていると、「僕から逃げようなんて考えちゃだーめっ、だよ?るみかお姉さん」と黄色い声で愉しげに言うのだった。 
 今日の日のためにろくな睡眠も与えられず、たとえ与えられたところで平常心を保ったまま目蓋を重たくできるほど心臓に毛が生えていないわたしは、みっともなく怯えていた。己の怯懦な性格が恨めしく、煩わしかった。
 この場に不釣合いなパステルカラーの視界は、夢と現実の境界線を曖昧にしてしまい、突如湧いてきた睡眠欲に抗うこともできずに、こうべを垂れて許しを請うかのように背中からぽきりと力が抜けてしまう。すべて終わってしまった。最悪の形を辿って。逃亡する気力も湧いてなどこない。もうどうでも良いのだった。

「じゃあねぇーん、るみかお姉さん。また遊んでねっ」

 玄関先にわたしが元々履いていた靴は見当たらなかった。代わりに黒のピンヒールが置かれている。
爪先を差し入れるか否か迷った末に、他にあるのは彼の靴だけだったために恐る恐るそれを選んだ。サイズはぴったりだった。
今まで用意された服も靴も下着もすべて、特別に誂えたかのようにわたしを拒絶することは一度もなかった。

「って言いたいところだけどぉ。……二度とそのツラ見せんじゃねーぞ、るみか」

 眩しく目蓋の裏側まで射抜くような光は、景色を白く飛ばしてしまった。わたしが身に纏ったままの夜すら呑み込んでしまう光だ。
 怯えていた外は、呆気ないほど平和で穏やかだった。「あれ」はどこにいってしまったのか。
 飴村乱数の部屋にいた数日の間に、わたしを取り巻く世界は安穏とした日常を取り戻している。
 淫佚で暴力的で背徳に塗れた毎日は、「わたし」をこの世から抹殺し、洗浄し、再生へと促した。わたしを映す鏡は翡翠。
 ヒールで目線が数センチ高くなり、空が近付いた。
羽根は生まれてこのかた背中に生えてはこないが、スカートの揺れる裾が一歩一歩踏み出すごとに羽根を広げ、くるりと回すとわたしは蝶だった。
首元から裾まで、開いた花が散りばめられた総レースのワンピース。それを太陽の下でよく見てみれば、心臓のところに蝶が縫い付けられていることに気付いた。
 わたしは毒々しい色を闇に紛らせ、鱗粉を撒き散らし、握り潰せばその手を汚す、朝の似合わない哀れな虫けらだった。



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