ワイパーが規則正しいリズムで左から右に動き、フロントガラスの雨粒を振り払う。
信号が赤から青に変わると入間くんはあからさまな溜め息を、わたしに対する呆れを意味するものとして小さく吐き出し、アクセルをゆっくり踏み込んだ。
整った横顔の向こう側で、煌びやかな光が滲んでいるのが見える。ライトアップされた観覧車の放つものだとすぐにわかるほど見慣れた景色。座り心地の良いレザーシートの上はこのうえなく快適だ。それなのに流れる空気はこんなにも張り詰めている。
「まったく。お前がこんなに馬鹿だとは思わなかったよ」
今日何度目になるかわからない「馬鹿」を、彼の薄い唇が紡いだ。わたしは項垂れて小さく縮こまると、これも何度目かわからない「ごめん」という言葉を力なく返す。
「ふたりきりのときに酒を飲ますのは大抵下心がある。そんなこともわからない年齢でもないだろう。そのうえ最初のデートで酒を入れる男はろくでもないに決まってる」
勧められるままにグラスを空にしていると楽しくなってしまい、気付くと足取りも危うくなるほど酔いが回っていて、引き摺られるように連れて行かれた建物を見て、頭は一気に冷えた。
女が優勢となった世の中とはいえ、力で敵うようになったわけでもなく、抵抗にほぼ意味はない。担ぎ込まれるようにして建物の中に入ってしまう直前、鋭く切り裂くような声が更にわたしの頭を冷えさせた。
眼鏡の奥でどれほど冷たい瞳をしているだろうことは容易に想像がつくことと、幼稚な己の醜態に顔を上げることすら出来なかったわたしの背に、彼は安心させるように手の平を添えて車へと誘導し、くどくどと説教を説いた。
道路の上を滑るように進むのは車の性能が良いのと、入間くんの運転が口調の厳しさとは反してとても穏やかであるからだ。
車が右折する際のぽっかりあいた空白の時間に、ウインカーの乾いた音が車内の沈黙を責め立てるように響き渡った。
さっきまで延々と続くのではないかと思っていた説教がふいに止んでしまい、横たわる気まずさに頭の中では勝手に話題を探しているけれど、ここで下手に口を開けば、また彼の眉間に皺を刻ませてしまうだけだということはわかっている。
彼の口撃が止んで伸ばしていた背筋を背もたれに預けようとすると、尾てい骨あたりに硬い感触があり、後ろに何気なく手を伸ばす。瞬間、どきりと心臓を捉まれる。それが入間くんの持ち物ではないとすぐに判断できたからだ。
小さな一粒のパールで飾られているイヤリングが、手の平の上でそっぽを向いて横たわっている。華奢な線が描くカーブは、女の丸みに似ていた。
「入間くん、イヤリング落ちてたよ」
「……ああ」
彼は前方に視線を向けたままわたしの手からそれを受け取り、スーツの胸ポケットにしまいこんだ。
わたしは途端、部外者になった。それは疎外感を与えるには十分過ぎていた。
雨足は次第に強くなり、車内の沈黙も雨音が紛らわせてしまった。ワイパーのリズムが一段階早まって、忙しなくフロントガラスを行ったり来たりしている。
見慣れたアパートの外観。ハザードの音。入間くんはわたしより先に車を降りて、傘を助手席の横で差してからドアをスマートに開けた。
慣れた動作だった。女に飼われるつもりなど毛頭ないと日頃から毒づいているのに、無意識のうちに女性を優先させてしまうのは、彼の育ちの良さによる必然だった。
酔いなどとっくに醒めている。シートから腰を浮かせて雨の中に降り立つわたしの意識ははっきりしていた。
けれど足元が覚束無いふりをして、傘を持つ彼の腕の中に体を滑り込ませてしまった。足元では雨粒が激しく跳ねている。
入間くんのいつも綺麗に磨かれている革靴も濡れて、わたしのヒールの傍に寄り沿うように置かれていた。彼の左手がわたしの腰を支えるように添えられる。
煙草を挟むときの仕草は、彼の指をこのうえなく美しく見せてしまう。
繊細な指先で、彼があのイヤリングの持ち主に触れていたのだと考えると胸が苦しい。胸が再び痛むことをわかっていても、頭の中を勝手に想像が巡ってしまうのを止めることができなかった。
目線と同じ高さで入間くんの喉仏が動いて、わたしの名前を呼んだ、気がした。けれど雨の音で掻き消されて、それが本当にわたしの名だったのか確信が持てない。
その喉元に噛み付いてしまいたい。衝動的に湧いてきた毒は、支配欲に由るものだった。女は獰猛な獣なのだと、彼は本当の意味で理解しておらず、無防備に白い喉をわたしの前にさらけ出していた。
見上げていると、腰にあった手が胸ポケットに入っていたイヤリングをつまみ上げて、すぐ傍のゴミ捨て場に投げてしまった。
背中を押されてまた車のシートに腰を落ち着かせると、運転席に戻った入間くんは雨で少し濡れてしまった眼鏡を外し、レンズに付いた水滴を柔らかい布で拭き取った。
「……イヤリング、よかったの?」
「上司の忘れ物だ。代わりを買う金は腐るほど持っているだろうな」
「お気に入りのものだったのかもしれな、……っ」
伸びた指先はわたしにシートベルトを着用させることに使われ、唇はわたしを黙らせることに使われ、瞳はわたしの心臓を甘く鳴かすことに使われた。
シートベルトの位置を直していた右手が、首筋に触れて襟から胸元に滑り込んでくると吐息が漏れる。するとその親指と中指は額に向けられ、ぱちんと軽い音を立てて弾かれた。
「いたッ……」
「おい、お前はどこまで馬鹿なんだ。このまま流されて最後まで許すつもりじゃないだろうな?好きだとも付き合おうとも言われていない男に?」
「……馬鹿、じゃない」
「ほう?じゃあ、何なんだよ」
挑戦的な眼差しがわたしの言葉を飲み込むと、ふっと面食らったように見開かれ、それを誤魔化すかのようにスーツの胸ポケットに掛けていた眼鏡で境界線を作った。透明なレンズ一枚では何も隠してはくれないことがわからない彼ではないくせに。
ーー入間くんが好きなの。
入間くんはタバコを人差し指と中指の間に挟んでしばらく空で遊ばせた後に、先端に火を灯らせることなく、また箱の中に滑らせた。
「煙草、吸いたいんでしょ?」
「いや……」
「わたし……入間くんを困らせてる?」
「るみか、」
「一度、だけでもいいよ」
入間くんはいつも特定の相手を作らず、適度の距離感を保つ恋愛ばかりを繰り返していることを知っている。わたしはそうなれない。一度きりでいいなどという戯言は、自己暗示の役割すら果たしはしないだろう。
でも何もないまま終わってしまうなら、何か残してほしかった。跡を残されてしまうほうがよっぽど辛いのだとしても。
「煙草吸ってくる」
静かにそう言って、彼は車のキーをわたしに預けると外に出てしまった。
シャッターの閉まった煙草屋の軒下で、火が灯ったことすら確認できぬような距離で、滲んだ視界で、わたしは置き去りにされてしまう。言葉と一緒に。
湿度の増した空気に、堪えきれない羞恥だけを残して。
ハザードの音を断ち切って、傘を持たないわたしは車のキーを握り締め、雨に打たれてしまった。頬を伝った水分は暗く淀んだ空から落ちてくる雨と混ざり合い、流れ落ちていく。
「るみか」
駆け寄ってきた入間くんの顔に珍しく焦りが見えて、わたしはそれで満足した気分に浸ればよかった。右手から差し出したキーを彼が受け取ったのを確認すると、アパートの階段を足早に駆け上がる。けれどそれは彼の通常歩くスピードと大差ない速さに過ぎなかった。
アパートのドアはわたし一人分の体を滑り込ませるだけ開いたつもりだったのに、彼が後ろから更に広く開けてしまった。
ヒールが上手く脱げずに入口から一段高いフローリングに体が投げ出されると、その上に入間くんの体が重なって、その重さで身動きが取れなくなっていた。
体は雨に濡れて冷たく震え、ただただ惨めだった。
「どいて」
「……誤解させたのは悪かったよ」
唇を合わせただけで舞い上がってしまった。恋愛の中に身を置いていなければ、冷静でいられる自分を信じることができるのに。
入間くんの体温が、濡れたブラウスの隙間からじんわり沁み込んでくる。線が細く見えても重たい体は、わたしの自由をあっさり奪い、顔を逸らすことすらままならない。
「いいの。入間くんの気持ちはもうわかったから。……勝手に期待したわたしが悪かったの」
浅くなる呼吸が、まるでさっきまで視界に映していた雨の中のフロントガラスみたいに滲んだ不明瞭な世界を連れてきてしまう。
入間くんが顔を背け、その横顔、顎のシャープなラインから水滴がつうと一筋伝い、ぽたりとわたしの胸元に落ちてきた。冷たいはずのそれは、肌に馴染んだ途端この身を焼き焦がしてしまうほどの熱さを帯びてしまった。
「……お前を置いて外に出たのは、動揺したのを隠すためだ。格好がつかないから、言いたくなかったが」
「どういう、……意味?」
耳朶に唇が触れる。喉を低く震わせ心臓に蠱惑的な蔦を張り巡らせ巻き付いてしまう声が、わたしを甘く溺れさせる。
「お前は期待していいって意味だ」
スーツの上着を脱ぎ捨ててしまうと、シックなグレーのYシャツの上から彼の程よく筋肉の付いた胸板があらわれる。ネクタイを緩める際の漂う色気に、純粋な獣の欲だけが夜と雨の気配を縫うようにせり上がってきてしまう。
彼は涼しい顔の下に猛々しい雄の気配を狡猾に隠し持っている。それがわたしの前で披露される機会など、現実味のないものだと考えていた。圧倒され、呑みこまれてしまう。
強引に唇を割って捻じ込まれた舌から、苦い煙草の味が触れ、彼の指先はわたしのブラウスのボタンをすべてあっさりと外してしまった。