女の唇の内側で搾り取られる欲の先に、視界が真っ白に弾けるような快感が待っている。
その瞬間が己に訪れるのは、もっとずっと先だと思っていた。
 妖しく光る月から降り注ぐ淫靡な魔物に取り憑かれてしまったかのように、背中を駆け上る快感に抗えずに荒い息を吸っては吐く。エアコンから送られてくる風は乾いていて喉の奥を味気なく刺激した。女は口元を忙しなく動かしながら確かにそこに笑みを浮かべていた。
 伸びてきた細い両腕が膝裏を掴んでバランスを崩しかけとっさに机の角を掴むと、あっさり射精してしまった。女は唇をそのほんの一瞬前に素早く引き抜き、濁った体液は床にどろりと溢れた。
 溢れた箇所を確かめもせずに床に座り込むと、女に唇を吸われた。さっきまで咥えていたものを想像するだけで思考は躊躇していたが、その口付けには女の意思のみが融通された。
 自分は一人ではなにも出来ない乳呑児なのかもしれない。そんな夢に捉われてしまうほどの無力。それなのに高まる興奮と期待は頭から切り離されているようだった。
 部活を引退して必然と持て余すエネルギーが、勉強という学生としての正しい本分へと向かう理想などそれこそ夢物語であった。
 ――セックスがしたい。
 高校を卒業する前までには童貞を捨て去ってしまいたい。
処女は女のうぶと理解されいじらしくありがたがってもらえるというのに、童貞は守るようなものではない。女を満足させることが男の使命だとでもいいたげに、それを蔑む女たちの傲慢さに辟易しているはずなのに、拭いきれない劣等感は何だというのだ。
 制服の上から触れた腰は掴むことを躊躇してしまうほど頼りなく細かった。
壊してしまうのではないか、と及び腰になると、女は伸ばした右手で強引に導いて局部を繋げてしまった。
何を頼りに事を進めるべきなのかと迷っていた心を読まれてしまったようで羞恥に赤らむ顔は、覆い被さった女の位置からは確認ができないのだった。
 教室の蛍光灯は電気を通されず、グラウンドから零れてくる光が薄暗く女の白い太ももを照らしていた。その白は清らかな尊い光のように見えた。
 明滅する視界は下半身を通る痺れるような快感に溺れていて、女の馥郁とした香りを余計に意識させてしまった。
その記憶が残ってしまう予感を振り払うように乱暴に身体を揺すると、女は意に反して嬌声を上げた。
 いかにも遊び人という風貌の男は、女の隣にあってひどく霞んでいた。明るい髪色といくつものピアスとだらしなく乱れた制服が教師たちの目に止まるのと同じように、生徒たちにも目立って捉えやすいはずなのに、主張しない凛とした静けさが乱雑な空気をなぎ払って、まっすぐ存在感を放つ女ばかりが視線を捉えて放さなかった。
動かない唇と向けられない視線の中にあって、女の後ろ姿や横顔は曲線のしなやかさが際立った。
 意外にも男と女は半年ほど一緒にいた。交際期間の一般的な長さにあってそれはけっして長いとは言えないが、ふたり並んだ際の異質さを考えればそれは圧倒的に長い、のだった。
 乱暴に虐げられることによって身体が反応をしてしまう癖をつけるのに、それは足りた時間かもしれなかった。

 オフホワイトのマフラーを首に巻きつけて、女は歩いてきた。靴箱に預けていた背中を浮かせると、柔らかそうな髪を揺らして目の前で立ち止まる。
遠くのほうから喧しい女子数人の声とひとりの男の耳に馴染んだ声が聞こえてきて、女の腕を急かすように掴んだ。
 女は何も聞かず文句も言わずにおとなしくついてきた。元来そういうタイプのように見えていた。厭味のように経験人数の多い阿呆な幼馴染にかかればその違和感にも気付けたのかもしれないが、あるいは。
 空が少しずつ白んでいく。透明の膜が張られたように澄んだ青空は、もう夜気に触れ始めていた。
 童貞を捨てれば何かが変わるのだと思っていたはずなのに、がっかりするほどこれといった変化が訪れない。
それは自分で抱いたわけではなかったからか。女を組み敷いて、濡らして与えて快感に溺れさせて初めてセックスをしたといえるのか。
 あまりに受身すぎた記憶が女の前で引け目に繋がり、ファストフード店で向かい合ってみても交わされる言葉は少なくお互い黙り込んだままの重苦しい空気が流れた。
それは周りの色めきだった12月の空気の中でひどく浮いているようだった。

「おい」
 言葉にせずに顎で廊下をさすと、女はまた何も言わずについてきた。質問も応答も何も発しない。
 足元から冷気が上ってくるようにひんやりとする廊下を進み、鍵の掛かった屋上の扉の前まで来ると提げていたコンビニの白いビニール袋を差し出した。「やる」と言うと、女は戸惑ったようにそれを受け取った。あまり嬉しそうではなかった。
「今日クリスマスだろ」
 余計なことを何も言わない安心感が、彼女に狙いを定めた本心だったのかと自分の意思ながら今更気付いて愕然とした。その償いの少しでも足しになれば、とまるで貢物のように差し出した袋の中身はただのコンビニの菓子だった。
なんて気が利かない男だろうと、だから童貞だったのだと、そう非難されているような女たちの甲高い声が勝手に頭の奥で響き出す。
 気恥ずかしさから斜め下に向けたままだった視線を上げると、女は目元を紅潮させて唇を開いていた。その奥でしごかれていた異物がまさか自分のものだとは、昼間の校舎の真っ白い正しさの前ではにわかに信じられないほどだった。
冷たい空気のせいか濡れた瞳がじっと見上げている。その顔に確かに温かな熱を感じた。
 あ、とぎこちない一音の後に、ありがとう、と鼓膜を柔らかく揺らす声がやけにいじらしく可愛らしいものに思えた。
その数秒後にあの日の白い太ももを思って、頭が一気に冷えていく。
「ああ」
 と短く返事をして、階段を駆け下り廊下の騒がしさの中に包まれると、やっと深く息を吐くことができた。酸素が急激に薄くなってしまったような息苦しさは冬の中では透明だった。

「るみかー」
 間延びした声に反応する女の瞳は窓の外で木々を揺らす風よりもずっと強固な冷たさを灯らせていた。硬い床と壁が出口を塞いでいるような閉塞感を覚えて、廊下をすれ違って行く女の腕を男が掴んだとき、湧いてきた身勝手な独占欲はきっと女を勘違いさせてしまっただろう。
優しさでも憐れみでも正義感でもない。その女は自分のものだと何の疑いもなく信じた一瞬が、空いている女の腕を掴んでいた。
男はほんの一瞬怪訝そうな顔で睨み返そうとしてきたが、目が合うと何事もなかったようにとぼけて廊下を引き返していった。
 女の瞳は春の眼差しのようだった。
気持ちがなくてもセックスできるのは男の哀しい性だよ、と及川の腑抜けた声が再生される。掛けるべき言葉を失って、手を離すと女は期待を含む眼差しをするりとしまって、唇を引き結んだ。

 数回目の交わりの後、汚れてしまったスカートをハンカチで拭いながら女は、いわいずみくん、と初めて名前を呼んだ。思っていたよりもずっといい響きだった。
「忘れないでね」
 目の前にベッドがあったらすぐさま眠ってしまえそうなまどろみの中では、女の声はやけに遠かった。
「岩泉くんとわたしの間では何の特別も残せなかったけど」
 いつの間にかコートもマフラーも身に着けて女は花のように笑った。冷たく凍った冬にあって、それは眩しい春の気配だった。おぼろげだった輪郭が薄明かりの中で花開くように覚醒してしまう。
 女は最初の男を忘れない。でも男は、一番相性のいい相手を忘れることができないだけだ。
「それでもわたしのこと忘れないでね」
 空から降ってきた静寂は外の景色を真っ白く塗りつぶしてしまった。もう数えるぐらいしかこの教室で過ごす日々は残っていない。女の進路は知らなかった。
 手を伸ばして髪に触れると後頭部の丸みに沿って頭の形を覚える。形の良い唇の温度を確かめるように唇を押し付けると、女は机に背中を預けてそれを受け止めた。窓の外、白んでいく空の端はまるで燃えているように熱を持つ色をしていた。



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -