少女は伸びる影を踏んで、金木犀の香りのする細い小道を小さな足をぴょこぴょこ動かして進んだ。
この先に何かわくわくするような大冒険が待っている、と期待して弾む胸を掻き抱いて。おととい擦り剥いた膝小僧は大きな瘡蓋になって、乾いた血の生気のない様子をうつしていた。剥がしてしまいたい欲をぐっと堪えて、紛らわすようにひたすらに突き進む。

「ひよちゃーん、ひとりで大丈夫?」
「偉いわねえ、しっかりしてるものね」

 高い声がふたつ膨らんで飛んできて、るみかは目線を前から斜め左に向けた。力強い幹でどっしりとした存在感を放つ大きな木。公園の真ん中あたりに主のように立っている。鉄棒と滑り台とブランコとその近くに砂場が広がっている。森のように深い緑色の子供用のバケツ。大人しそうな男の子がひとりでおもちゃのクマデを黙々と動かしていた。
 るみかは宝探しを諦めて、じゃりじゃり砂を乱暴に踏み荒らしてその男の子に近付くと、その動きとは相反するような間延びした声で、「ひよちゃんって言うの?」としゃがみ込んで丸まっている背中に声を掛けた。
 日和はその少女の足音に気付いていたが、関わっては面倒だとひっそり知らん振りを決めていた。にも関わらず話しかけられてしまい、渋々といった表情で振り返って「ちがう、ひよりだよ」と返事をした。

「わたし、るみか。ねえ、知ってる。あそこのおうちに咲いてるお花からいいにおいするんだよ」
「知らない」
「オレンジ色の小さいお花だよ」
「それって金木犀じゃない?」

 初めて聞く言葉の響きがやけに大人びていて、同じ年ぐらいに思っている目の前の男の子が急に年上のように見えてきた。
 きんもくせい、と言葉を二度三度繰り返して、るみかは「教えてくれてありがとう。お礼にこれあげる」とスカートのポケットから水を掴んで固めたようなおはじきをふたつ出して、日和の前に差し出した。散っている橙色は金木犀と同じように秋の背景を背負った色をしている。

「おばあちゃんにもらったの。わたしのたからもの」

 砂に塗れた自分の手の平を眺めて、日和はそのたからものに触れることを憚り、じっと少女の瞳を覗き込んだ。吸い込まれてしまいそうなまっすぐな眼差しが返ってきて、その両目の穴の中に少女の世界のすべてが詰まっているかのように燦々と煌いている。
日和は思わず膝を伸ばして立ち上がっていた。繋がれる目線はだいたい同じぐらいの高さだった。
 るみかは少し考え込んだのちに日和の半ズボンのポケットに勝手に手を突っ込むと、その手の平からおはじきをふたつ内緒話をするような繊細さで忍ばせた。
 知らない場所へ迷い込んでしまう特別な温みを潜ませた風がゆるりと吹いて、日和のスムーズな瞬きの動きの邪魔をすると、プールと同じにおいが少女のふたつ括られた髪から零れてきて、日和は口を開き、けれどそこから何も紡ぐことはせずにそっと閉じた。
  
 日和が公園からほんの30秒ほどで辿り着く自宅の屋根を見つめながら、砂場に両足を沈ませスコップで砂を掘りおこしていると、決まってどこからともなくるみかがやってくる。一緒に遊ぶでもなく、ブランコを勢いよく揺らしたり、滑り台を滑ったりして一通り満足すると、じゃあねえと一言残して帰っていく。
 会社勤めの母を待つ間の、寄る辺なく揺れたり暗い穴に引っ込んだりする気持ちを彼女がいる間だけことりと忘れている。
今日もひとりでブランコをきいきい鳴らしているるみかの気配を背中に感じて、日和はぎゅっと拳に力をこめて立ち上がった。

「……い、一緒に遊ばない?」

 口にした途端、気恥ずかしさで逃げ出したくなり、けれどるみかがまた乱暴に砂利を踏んで突進する勢いでこちら側に駆けてきたために、数歩後ずさっただけで足は止まってしまった。

「いいよ、何してあそぶ?」

 困ったように歪んでいた日和の眉が、眉尻のほうへゆるくカーブをつけて安心したように緩められると、るみかは嬉しくなって釣られて笑った。
目に映る世界がすべてで、金木犀の香りが時折鼻を掠める公園は居心地がよくて、頼りない背中の男の子は優しく笑う子だった。胸の真ん中にふわりふわり積もってくる温かさが、甘いと感じることができる頃には、日和は公園に顔を出さなくなっていた。


******

 そっけない白で壁を塗りたくられた大学の図書館は、きっちりとしたシンプルな佇まいで大学の入口から50メートル先にぽつんと建っている。高校に比べておしゃべりをする輩は少なく、静かに過ごせて実に快適だが、授業が休講になって暇を持て余しているのか、机に突っ伏したり長椅子に横になっていたりと睡眠を貪っている人たちが多く、せっかくこんなにたくさんの本を無料で読むことが出来るというのに本当にもったいないと思ってしまう。
 カウンターを通り抜けて検索機に真っ直ぐに向かい、在庫確認の画面を開くと目当ての本がまだ貸し出し中の表示のままだった。返却予定日は今日。だが、まだ昼前だ。これから返しにくるかもしれない。
午後の授業が終わったらまた確認しに来よう、と画面を閉じると、カウンターでなにやら話し込んでいる女子学生の姿を見つける。何気なく横目で見ると、カウンターの上に一冊の本が置かれている。その表紙は検索機の画面で何度も目にして、焼きついてしまったジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」。返却を待っている本だった。

「返却日の延長ですね。延長できるのは一週間までですがよろしいですか?」
「はい。よろしくお願いします」

 すれ違いざまにそんな会話が聞こえてきて、か細く息を吐いて少し項垂れる。そんな様子に気付く風もなく、速い足取りで僕を追い抜いて歩いて行く彼女の足は軽やかだ。人の気も知らずに、と勝手に悔しい気分になる。
 彼女は図書館を出たあたりでふと足を止めて、視線を四方へ彷徨わせ、その先は壁しかない図書館の裏手に向かって行くからそこに何があるのだろう、と気になってつい立ち止まり、目で追っていた。
 大きな森林公園が隣接されているこの大学は、図書館のすぐ裏の塀の向こうにどっしりとした大木が鬱蒼と生い茂っていて、空気も東京の息苦しさからすこし解放されているようなゆったりとした穏やかさが流れている。その一角でオレンジ色の花が緑を覆うように咲き誇っていて、風に乗り仄かに金木犀の香りが飛んできていることに気付いた。
 香りは記憶の中で確かに息をしている。砂をクマデで掻いたときの呆気なく崩れていく感触が手の中に蘇ってきたようだった。零れてくる木漏れ日がふつりふつりと目蓋に懐かしい光を与える。
 彼女は持っていた本を大事そうに背中に背負っていた黒いリュックに仕舞い、上を見上げると、その塀を突然よじ登りだした。膝よりも上の短いスカートの裾がひらひら揺れて、ぎょっとする。何か働きかけたわけでもないのに妙な罪悪感に駆られて、慌てて彼女に近付き「危ないよ」と声を掛けた。
 きょとんとした様子で振り返ったその瞳に何か頭の奥で引っ掛かるものを感じたけれど、彼女は「木登り得意なの」と自慢げに笑い、また再開させようとしたために、その違和感の正体を掴んで紐解く余裕などなかった。

「木登りじゃないし、スカートも気にしたほうがいいと思うけど」
「あ、これショートパンツ。ひらひらしててわかりづらいけど、スカートじゃないよ」

 そう反論の言葉を口にしたが大人しく諦めることにしたのか塀に着いていた手の力を緩め、すとんと足を下ろし、彼女はぱっぱっとその両方の手を軽く擦り合わせて汚れを払い落とした。

「あそこに金木犀の花が咲いてるの。どんな花なのか間近で見てみたいと思ったんだけど」
「図鑑でも借りて見てみたらいいんじゃない?」
「ああ、それもそうだねえ」
「日和。こんなところで何してるの?もうお昼に行きたいんだけど」

 背中に馴染みのある声が掛けられて振り返ると、郁弥はお腹が空いているのかすこし不機嫌そうな顔をして立っていた。
郁弥に返事をしようとして、眠気に包まれているようなぼんやりとした様子で「ひよりくんっていうの?」と小さな呟きみたいな質問が背中に投げかけられ、眉が意図せず跳ねる。

「そうだけど……。女の子みたいな名前だ、とでも言いたいの?」

 勝手に含まれていた棘を、彼女は女の子特有の柔らかさでくるんで、瞬きであっさり遙か彼方に飛ばしてしまった。

「ううん。初恋の男の子と同じ名前だなあと思って」

 砂の山が決して崩れてしまわぬように慎重に力の強さを推し量りながら指を動かして、心許ない砂の粒を崩しトンネルを開通すべく前へと進めていく。少女が反対側から同じように手を差し入れて進めていくと、砂とは違う意思のある動きに唐突に指先を掴まれて、顔を上げれば彼女がいたずらが成功したかのように無邪気な笑顔を見せていた。
 連綿と続いていくようなあの頃の毎日は、砂山のようにあっさり崩れ落ちて、その記憶を今では断片的にしか思い出すことができない。それでもあの日、彼女に指を掴まれたあの驚きは未だに心臓をぎゅっと掴んで痛くさせていた。

 検索機の在庫確認画面を開くと、在庫有、に表示が変わっていた。海外文学の棚は他の場所よりもいくらか埃っぽさが増しているように思う。白い蛍光灯の光の下では輝けないと言いたげに閉口して目立たぬよう静かに本棚に収まっている中の、目当ての一冊をやっとの思いで手に取った。
 同じ本棚にあった数冊も抜き取り、空いている席を探していると、塀の上を目指して活動的に動いていた髪が眠っているような密やかさで、静止しているのを見つけた。
間に仕切りが付けられた一人用の席の、左隣は眠っている男子学生、右隣は空席だった。その空いている席の椅子を引いて腰を落ち着かせても、まったくこちらに気付く様子もなく、静謐な横顔で本の世界にすっかり入り込んでいるようだ。
 椅子の背もたれを使わずに、伸びた背筋は妙な品格を醸し出していて、本当にあのときの彼女だろうか、と自信がなくなってきた。図書館の灰色のカーペットは砂場を連想させ、そこを椅子が滑る音すら響くほど館内は静寂に包まれていた。
 タイトルと後ろのあらすじに惹かれて取った本の一冊をぱらぱらと捲っていると、好みの文体であることを知り、それをきっかけに活字が頭の中で風景や人影を作り出し、周りの雑音が消え去ってしまったかのようにそれらの意味を持つ言葉たちを夢中で追いかける。
 ふと、本の中の物悲しさが現実のものとして立ち現れたような気配に顔を上げると、蕭々たる雨音が窓の外を灰色に覆い尽くしながら外気をしっとりと包んでいた。
 彼女も同じように窓の外を見つめていたために、湿気ですこしうねり始めた髪色の明るい様子と小さな背中が視界に映った。彼女が首を捻って顔の向きを正面に戻すと僕にようやく気付いたようで、気の抜けたような笑顔を見せて「あれ、ひよちゃんだ」と控えめに、けれど楽しそうに紡いだ。

「その呼び方やめてくれる?」
「ひよちゃんって呼ばれてなかった?」

 もしかしたら彼女も覚えているのだろうか。一緒に過ごしたのは半年にも満たない短い期間だった。

「……呼ばれてない」

 化粧でうっすらボルドーに色づいた目蓋を上に持ち上げて、う、そ、つ、き、と口を大袈裟に広げては、声に出さずに本の山を抱えて気軽に立ち上がると、颯爽と本棚の影に潜っていってしまった。彼女の座っていた机にはバッグもノートもペンケースもケータイも残されていない。そのまま帰るつもりなのだと気付いたら、彼女が消えて行った本棚へと足が勝手に動いていた。

「るみか」

 静寂を壊さぬように喉の奥で一歩後ろに下げた声をあげると、そこに彼女の姿はもうなかった。スニーカーの足の裏に感じるカーペットの感触は、砂場のあの柔らかく不安定な感じとは似ても似つかない熱のないものだ。
 鼓膜を静かに揺らすように、「ひよちゃん」と本棚を挟んだ向こう側の隙間から顔を覗かせたるみかは、僕の目の前にあった植物図鑑を抜き取って出来上がったスペースに腕を突っ込み、こちら側にその指先を伸ばした。
そっと握り締めた指先は、ゆったりとした力で僕の指を握り返してきた。胸が柔らかくきしきしと音を立てている。



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