鬱蒼と茂る森のように重厚な気配を漂わせた雲の隙間から光が差し込んでいる。
まるでそこから神様か天使が光臨してくるような神々しい光の筋だった。橙と薄い青、その間に桃色が重なり合って、夕方の濃密な空気を可視化しているようだった。
 人混みの中から、わたしの目は簡単にその姿を捉える。あの光の筋を辿って地上に降り立った光の膜は、彼の傍でその輝きの鳴りを潜めて小さく息をしている。

「るみか。ごめん、お待たせ」

 駅前の騒がしい雑音がスッと一歩後ろに引いて、彼の声だけがその先頭にぷかりと浮かんだ。穏やかで静謐な彼の声は、いつもわたしの鼓膜を甘やかな響きをもって揺らす。それはわたしの心情から起因している現象だと理解しているから、それを特別だと捉えている。
「あ、うん」とテンポの悪い返事をすると、郁弥くんは首を傾げた。その拍子に揺れる髪はまだ水気を含んでいるように見えた。粒子が散りばめられていて、わたしの心を絡めとってしまうことなど容易い輝きだった。

「どうかした?」

 長く重たそうな睫毛の下で、夕陽のように温かい色をした瞳が揺れている。その中に映るわたしは、夢の中を彷徨っているような浮遊感を伴っていた。

「ううん、なんでもない」
「またおかしなこと考えてたでしょ?」

 一瞬言葉に詰まると、郁弥くんは不満そうな顔をしてぷいとわたしから視線を逸らした。
拗ねているその仕草は、多くの人間を魅了するだけなのだという自覚のない無防備さ。それが最近はまたあっさりと顔を出すようになった。

 人通りの多い商店街のアーケードを抜けて、木々が均等に立っている散歩道に出ると、気持ちの良い風が髪を揺らした。
小さな橋を渡る途中で、ふと西の空を見上げるとテナントビルの四角い角から夕陽が顔を覗かせている。温かくてどこか懐かしい橙。
 夕方の太陽は何度もわたしの目を奪う。昼間と違って、ほんの数分でいくつもの色を纏って違った顔を見せてくれるから、目が離せない。気付くとわたしは勝手に記憶の欠片を集め始めてしまう。

 中学1年の秋。茹だるような夏の熱さが和らぎ、冴え冴えしい秋の気配は心地よく過ごしやすい、けれど水泳部にとっては学校のプールで泳ぐことができなくなるシーズンの始まりだった。
 空は高く、夕焼けを迎える時間は夏よりも近かったけれど、プール掃除のみで終わったその日はまだ白い光が辺りを明るく照らしていた。部内の鍵当番だったわたしは、たまたま忘れ物を取りに戻ってきた郁弥くんと鉢合わせた。
 郁弥くんは儚げでどこか浮世離れした雰囲気を纏っていて、女子たちは誰も気軽に話しかけることが出来なかった。
わたしも連絡事項や必要に迫られる以外では、その日までまともに話したことなんてなかったし、話しかける勇気すらなかった。
彼は事も無げに世界を遮断してしまうような、誰かへの諦めをお腹の底に飼っているような男の子で、話しかけても反応などもらえるはずはない、とちっぽけな勇気は彼の前で呆気なく霧散してしまったからだ。

「忘れ物?」
「ごめん、帰るところなのに」
「大丈夫だよ」

 緊張で少し声が上擦る。自分の声じゃないみたい。わたしの声を郁弥くんが拾って、飲み込み、返事を寄越す。
そんな当たり前の小さな接触に、ちゃんとした手応えが残る。ノックした扉をきちんと開いて迎え入れてくれた安心感。それは今日の一日をほのかに色づけてしまう。
 かけたばかりの鍵を再び開けると、以前は湿気を含んだむっとする熱気が返ってきたのに、そこは寂しげにさらりと乾いている。夏が終わり、置いてけぼりにされたような虚無感が足元からじわじわ広がってきて、暗い影が身体の真ん中に落ちてきてしまった。
 部室の中に入っていく郁弥くんの横顔は、何の熱も持っていない。冷淡、という言葉にも似ている静けさをその端正なパーツひとつひとつが後押ししている。
ぼんやり見送っていたら、迫り上がってきた焦燥が不思議と静かに引いていく。また来年になったらこの部室は蒸発してしまうような熱気を発している、その様子が易々とこの手に収まってくれた。
 やっぱり綺麗な顔してる。
 目立つ言動や行動をしているわけでもないのに、大勢の人の中に埋もれてしまうことのない孤独を孕んだ特別な光。
彼が他の人の前では決して見せないような何か、それが呆れでも驚きでも、とにかく何でもいいから熱を乗せた知らない表情を見つけてしまいたい。そう願ってしまう。

 職員室に鍵を返して廊下を歩いていると、靴箱の前に郁弥くんが立っていた。生徒玄関の四角い入口から、闇の中に少しずつ侵食していく途中のわずかな光が零れている。

「どうしたの?」
「暗くなってきたから一緒に帰ろ」

 それは送ってくれる、という意味で捉えてもいいのだろうか。
真新しく傷のないランドセルを背負っていた頃、男の子と女の子の境界線は曖昧だった。学年が上がるにつれて恋愛の話が出てくるようになって、それでも自分が男の子に守ってもらえるような存在になり得ている自覚などまだなかった。
それなのに突然訪れた男女の線引きに大きな戸惑いを感じる。でもそれはどこかくすぐったくて、むず痒く、口元が勝手に緩んでしまうような力を持っている戸惑いだった。

 ガードレールが設置されている広い歩道のある橋は、通学路として必ず通らなければならない道だった。潮風が爽やかに吹き抜けるその橋の真ん中あたりまでくると、その先の欄干にカラスがとまっているのを見つける。
 どうしよう、怖いな……。
隣を歩く郁弥くんの横顔を盗み見ると、さっき見た冷えた無関心さは見つけられず、代わりに動揺した様子で視線はカラスに注がれていた。
いつも何かを諦めたかのように期待などしていないとわかる無は、わたしの横を通り過ぎていくだけだった。
 何も知らない。知らないままであったなら、きっと楽だ。けれど、どうしようもなく視線が追ってしまう。
これはわたしの視界に映るもののなかでいっとう心に訴えかけてくる、まるで絵画のようにかけがえなく切り取られた一瞬だと思った。瞬きをしたらシャッターを切ることができないだろうか、とカラスのことがその瞬間だけ頭から抜けてしまった。
 カア、と高らかにカラスが鳴き声をあげたのは、わたしを戒めているような絶妙なタイミングだった。距離は縮まっていて、その黒くつぶらな瞳はわたしの目をじっと見つめている気がする。
 あの頃、わたしより背が低くてまるで女の子のように可愛らしい顔立ちと華奢な身体つきをしていた郁弥くんを、つい守らなければと前に立って歩こうとすると、郁弥くんはわたしの手を後ろから優しく握った。寒いと感じるほどの気温でもなかったのに彼の手は冷たくて、細い指は折れてしまいそうなほどの繊細さを伝えている。この手を守らないと、と強く感じる感触に胸の真ん中がぽっと熱くなった。
 けれど、「大丈夫だよ」と郁弥くんの声が背中に掛けられたかと思うと、わたしの前を彼は歩き始めてしまった。
 小さくて細い背中。でも掛けられた声が、さっきまでの不安な気持ちを丸く包み込んで見えなくさせている。先を行く郁弥くんの背中は、ずっと見ているとだんだんと頼りがいのあるものに思えてくる。
 カラスがすれ違う直前に突然羽を広げたことに驚いて、つい彼の手をぎゅっと握り締めると、向こうからも力が柔らかく返ってきて、途端わたしは怖いという気持ちを捨ててしまった。動く心臓が血を指先まで巡らせて、身体が勝手に温められていく。知ってしまったのだと理解したときはもう、彼を捉える瞳が中てられた熱を注がれていた。
 カラスはわたしたちを気に留める様子もなく、あっさり川のほうへと飛び去って行った。
 わたしの手の体温が伝わってしまったのか、いつの間にか郁弥くんの手はわたしと同じくらい温かくなっている。同じ熱を今、共有しているその事実は輝く宝物のように思えた。

「ね?大丈夫だったでしょ?」

 西の空、深く暗い色をした遠い海に夕陽が飲み込まれていく。郁弥くんの手も本当は少し震えていた。それでも無理して笑顔を見せる彼は、わたしの想像の中に曖昧に住んでいる天使の姿を明確にしてしまった。


 あの光が消えている。郁弥くんが降り立ってわたしの横を歩いているせいだ、と心のうちを覗かれるとまた不満げな様子を見せる考えは静かに打ち消すことにした。

「るみか、今日泊まってもいい?」

 幼いあの日の顔立ちで輪郭をなぞって、目の前の彼を中学1年生の不器用さで映してしまう。
すぐに消えてしまいそうだった淡い熱は、郁弥くんが渡米した後もじりじりと胸を焦がしていた。
 それなのに大学の構内ですれ違ったとき、わたしは彼に気づくことが出来なかった。思い出の中でばかり息をしていたせいで、成長した彼が目の前に現れる僥倖は、実際には起こりえないという諦観が拭えず、現実味を帯びていなかったからだ。

「るみかでしょ?花守るみか」
「は、い……そうです、けど」
「覚えてない?」

 覚えてる。記憶の中でわたしよりも低い目線にあった彼の横顔が、わたしにとっての灯火であったことを。
すぐに吹き消してしまえるはずだったのに、どうしても大切で失うことのできなかったわたしの特別。

「郁弥くん」

 しっかりとした肩幅とふっくり膨らんでいる喉仏。見上げたときの顔立ちは相変わらず綺麗だったのに、美少女だと見紛うことのない男の人に成長した彼は知っているのに知らない人のようだった。
それなのに心臓の裏側がくすぐったいような、どうしようもなく走り出してしまいたくなるような、持て余してしまう温かさが蘇ってくるのを感じる。

「よかった、忘れられてるのかと思った」

 ふいうちで目の前で柔らかく開いた笑顔に、天使、と心の中で呟いた言葉は気付かぬうちに声となって発せられていて、郁弥くんに「寝ぼけてるの?」と怪訝な顔を向けられてしまった。


「うん、いいよ」

 彼を前にすると断る言葉は素気無く消え去ってしまい、郁弥くんの優しく緩められる目元がはっきりした角度でわたしに向かっている。
いつの間にか身長は越されてしまっていたけれど、それでも儚い雰囲気は纏ったままだったせいで、アパートの部屋に入るなり首筋に唇を寄せて求められたことにひどく困惑してしまった。
記憶の波を漂っていた頭が、大学生になったわたしたちをまるで傍観者のように眺めている。
 郁弥くんが顔を上げてまっすぐわたしを見つめたとき、艶っぽく性的な欲望を潜ませた眼差しがそこにあって、腰から砕けてしまいそうだった。

「るみか」

 耳元に唇が触れるか触れないかほどの距離で名前を囁くように紡がれることに弱いわたしは、もう前にも後ろにも逃げ場を失っていた。
シングルベッドの上に2人分の体重が乗って、いつもより深く沈み込む。
圧し掛かってくる身体は硬くて、重たい。でも郁弥くんの唇はうっとりするほど柔らかく、わたしの身体に確信犯の企みを乗せて触れていく。
 着ていたTシャツを郁弥くんが脱ぎ捨ててしまうと、引き締まった身体が目の前に惜しげもなく晒されて、途端に雄の気配を強くした彼はもう天使ではなかった。

「郁弥くん、ちょっ……と、待って」
「えー、やだ」

 拗ねた様子でそんな風に言われてしまうと、反論する言葉は喉元へあっさり滑り落ちてしまった。そうやって甘やかしてしまうとまた夏也先輩にお叱りを受けそうだ、と考えているうちに服は手際よく剥がされていく。
時折、郁弥くんにも性欲というものが存在しているということを、ことんと忘れてしまう。こんなに綺麗な顔をして、穢れの知らない笑顔を見せるのは本当にずるいことだった。

 目を覚まして、シーツにつま先で触れると自分のものではない温みをほのかに感じて嬉しくなる。カーテンの隙間から朝の清らかな日差しが光の筋のように差し込んでいる。あんなに高いところから差していた光は、こんなに小さな部屋にもその片鱗を気まぐれに落としてみせる。
意識がはっきり覚醒すると、郁弥くんがわたしに背中を向けている様子がはっきりとした輪郭で映った。
 肩甲骨がぽっかりと浮き上がっている。
天使の羽だ、と両方の手の平で触れるとびくりと身体を揺らして郁弥くんが振り返ったので、ぱっと手を引いた。

「あれ、起きてたの?」
「さっき目が覚めたところ。急に触るのやめて。びっくりするから」
「ごめん、天使の羽があると思って」

 触れた肌はさらりと乾いていた。昨日暗闇の中で触れたとき、そこはじっとりと水分を含んでいたはずなのにそれはもう過ぎ去ってしまった。
けれど、その肌に焦がされてしまうような熱気が注がれることを、来年の夏まで待つようなことはきっと出来ない。中学生のわたしの方がよっぽど聞き分けが良かったかもしれない。
 ごろん、とこちら側に向きを変えると郁弥くんはわたしの前髪を指先でゆっくりと撫でて、「ここにもあるよ」と言った。

「天使の羽?」
「天使の輪。るみかの髪のここらへんにいつもある」

 まだ眠気の抜けきらない気だるげな表情で柔らかく笑う彼は、背中に穢れのない翼を持っている。



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