その男は紅蓮の焔を瞳に宿らせておりました。
両手と両足をそれぞれ手錠で繋がれて満足に歩行も出来ず、毛虫のように地べたを這って、無様に顔をピンヒールで踏みつけられても濁らないその焔に焼き尽くされてしまいそうだったのです。

「聞こえなかったの?靴を舐めなさいと言ったのよ」
 女は男への憎悪を露わにして、身震いするほど冷たい声でそう言いました。そんな声を自身に向けられた日を想像すれば、今すぐ絶命してしまうのではないかと思うほど、わたしは男以上に目の前の妖艶な空気を纏うこの女が恐ろしかったのです。
 濁った音で男が吐き出した唾に塗れたヒールの先で、女はその男の綺麗な顔を心底面白く無さそうに蹴飛ばしました。低い呻き声と、鉄の扉に男が身体を打ち付けた音が薄暗い倉庫内に響いて、街の夜気に溶けていくのを肌で感じておりましたが、それはわたしの中をするりと通り過ぎる一瞬の風のようなものでした。
「しらけたわ。るみか、適当に片付けておきなさい」
「かしこまりました」
 重たい扉が閉まり、女の姿が消えると男はくつくつと喉の奥で愉快そうに笑い、「おい」とさっきまで頑なに言葉を発しなかったくせに、粗野な眼差しでわたしを見上げて声を掛けてきました。
「一服させろ。最期にな」
「あいにく煙草は吸いませんので、ご用意がありません。女にとっては価値を下げるだけの不必要な快楽の産物ですから」
「チ、つまんねぇクソ女だ。じゃあヤラせろ。好みのツラじゃねぇが、我慢して抱いてやる」
「わたしはそれを望んでおりません。それに我慢してまで抱いて貰うほどの価値はわたしにはありません」
「は、女同士がお好みか?あの女に調教されてんだろ、どーせよ」
 男の言っていることは半分本当で、半分嘘でした。
 わたしはあの女に贈られた真っ赤なピンヒールを睨みつけたまま、彼女と同じ色の真っ白なスマートフォンを耳に当てました。白がすぐに汚れてしまうのはこの世の絶望的な定理だと何度も反芻させる輝きのスマートフォンは、わたしにとっての首輪でした。
「汚いドブ鼠が迷い込んでしまいました。手に余るのでそちらで引き取って頂きたいのですが」

 男は到着した警察官に両脇を固められ、パトカーの中へと消えてゆきました。
その結末が女の耳に届くと、わたしの首をギリギリと長い爪で締め付け、「反抗期かしら?」と息を呑むほど美しい笑みで問うたのです。まるで女神のようだと光輪が見えたのは、わたしが女にとって都合の良いペットに成り果てた証拠に他ならなかったのです。
 申し訳ありません、と喉元を圧迫されているせいで声に出すことが出来ずに、わたしは意識を失ってしまいました。
意識を取り戻したとき、わたしは裸のまま自室のベッドに転がされていました。胸や腕にたくさんの赤い跡が付けられており、枕元には男用の避妊具がわざとらしく置いてあるのです。それを見た途端、わたしは訳もわからず子供のようにうわんうわんと声を出して泣きました。
けれど何も変わりはしないのです。一人で泣くことほど愚かなことはないのよ、とあの女の声が頭の中で再生されて、この世を生き抜く狡賢さを謳っておりました。
わたしは誰かの前で泣くことができないのです。ただそれだけのことが自分は失敗作なのだと攻め立てられているように感じられ、ますます惨めになるのでした。
 嗚咽が止まらずに重たい身体を浴室まで引き摺ってゆき、頭から熱いシャワーを浴びました。そうしていると全て洗い流されてしまうかのようで、次第に涙は止まってしまいました。永遠に泣くことも許されず、勝手な期待は断絶されていることも忘れてわたしに降ってきてしまうのです。かなしい、かなしい、かなしい、かなしい。そうやって塞ぎ込んでいると何がかなしいのかさえわからなくなってしまいました。

「よお」
 平日の昼下がり。わたしは女に申しつけられた花束選びに、暗澹たる気持ちで花屋の店先に佇んでおりました。
センスを試されていることは明白で、彼女の御眼鏡に適えば、もっと豪勢で豊かな空気を吸うことのできる幹部への道が拓かれるのだと囁かれたあの甘ったるい声が鼓膜に張り付いたままだったからです。
自分がそれを望んでいるのかどうか、なんてものは関係なく、その道はわたしにとっては一本道なのです。後ろに下がることが出来ないならば前に進むしかないのです。景色も達成感も高揚もすべて薙ぎ払って、あの女の為に尽くすのがわたしの価値になり得るのです。
 そう決意した矢先に掛けられた声にわたしは逃げ出したくなりました。
−−なにから?目の前の男から?それともその下らない決意から?あの女の肌の下から?
 真っ赤な薔薇の花を見つめたまま微動だにしないわたしに痺れを切らしたのか、男は強引にわたしの肩を抱き、路上に駐車していた車の助手席に放り込むように乗せると、ぐいんとアクセルを踏み込みました。
 目の前の景色が勝手に飛んでいって、それはどんどん後ろに下がり、わたしの過去に消えてゆくようでした。高層ビルに囲まれた無機質な街並みが流れ、高速道路の入り口が見えてきたとき、わたしは急に怖くなりました。
「オイオイ、どォしたよ。この間と打って変わってそこらへんのつまんねぇクソ女と同じ怯えたツラじゃねぇか。あの女の側じゃねーと何にも出来ねぇ赤ん坊か?」
 男の見下した眼差しはあからさま過ぎていっそ清々しいくらいでしたが、わたしをちっぽけな存在だと知らせる必要などもう無かったのです。それはとうにわたしの諦めでした。
 男は車中で気怠げにやたらと煙草をふかしていましたが、それを車内の灰皿に押しつけて、ふいに助手席の窓をほんの少しだけ開けました。すると磯の香りが微かに滑り込んできて、海が近いのだと知らされました。
 やがて高速道路を下りる頃には空気がやたらと憂いを帯びてきており、いつのまにか時刻は夕方になっておりました。
 海沿いの道をしばらく走らせ、展望台下の駐車場に車を停めると、「その凶器みてぇな靴を脱げ」とわたしを鋭く睨みつけて命じました。
言われるままに脱ぎ捨てると男はそれを持ち、そのまま展望台へと続く階段を上ってゆきました。
男がいなくなったのを見計らって、わたしはバッグの中からスマートフォンを取り出しました。けれどその白を見た途端、あの日の慟哭が蘇りわたしは動けなくなってしまったのです。
 どうしたことでしょう。呼吸が苦しいのです。今まで男が隣にいた状況のほうがよっぽどわたしを震え上がらせていたはずなのに、わたしはまたあの独房のようなところに戻らなければならないのだと、そう考えるだけで身の毛もよだつほどの恐怖が襲ってきたのです。
 すると乱暴に助手席のドアが開き、男がわたしのスマートフォンを取り上げ、何の躊躇もなく地面に落とすとピカピカに磨かれた革靴で思い切り踏みつけました。画面はパリンと音を立てて割れ、白はあっさり汚れてゆきました。男の長い指がバッグの中から小さな箱を掴み、それをわたしの目の前に掲げると、ひどく愉快そうに下卑た笑いを貼り付けて、「準備がいいな?」と言いました。
「ま、ワリーが俺はコイツが大嫌いだ。だから、適当な女は抱かねえ主義でな。テメェはどうするよ?」
 男はわたしの腕を掴んで車から引き摺り出すと、割れたスマートフォンを拾い上げ、わたしの手に握らせました。そのまま、またわたしの肩を抱いて展望台へと続く階段を上ってゆき、鉄の柵の前まで行くと、真下の海を指差しました。岩肌で飛沫を上げて波が唸っておりました。
「捨てろ。そしたらあの女より善くしてやるよ」
 わたしはまた試されていました。花屋の店先にいたときの暗い気持ちは訪れずに、迷わずわたしはスマートフォンを海に投げ捨てました。男はまたくつくつと低く笑いました。

 男の車は全ての窓ガラスが黒く覆い尽くされていたせいで、外からは中の様子が見えないのです。それなのに、男は助手席側の窓を全開にしてしまいました。レザーシートが汗で太ももにぺたりとくっついてきてしまい、けれど次第にわたしはそれを気に掛ける余裕すら失っておりました。男は思いのほか優しくわたしを十分すぎるほどに濡らしました。はしたない声が窓から漏れて、海の底へと沈んでゆく様子が目蓋の裏にぼやけて見えているようです。
 快楽の波が押し寄せてきて、それはわたしには眩しい獣の匂いでした。男はわたしをまっすぐ見つめていて、その中にふいに情のようなものが湧いてきてしまったのは、わたしが女であることの定めのようでした。けれどそれをかなしいとは思えずに、縋ってしまいたくなったのです。

 男が煙草を燻らせると、その煙は車の低い天井を彷徨っておりました。辺りは暗闇に包まれ、時折船が泣き声を上げております。わたしはこのままこの海に突き落とされ、あの眩しい一瞬を海の底で探すのだと目を瞑っておりました。
 男は後ろの席に手を伸ばし、まるで喪服かと思わせるような黒いワンピースを掴むとわたしの頭に被せました。するりと滑っていくシルクの手触りが膝下まで届くと、わたしは男の銜えていたタバコを奪って恐る恐るそれを吸い込みました。途端に激しく咽こんでしまい、男はひどく楽しそうに唇の端を持ち上げて、わたしの頭を片手で掴みました。
「俺がてめえを飼ってやる」
 展望台の端っこにわたしの真っ赤なピンヒールが揃えて置かれておりました。女よりも地位の低い男に飼われることなんて、わたしにはよほどお似合いなのかもしれません。あのとき枕元に置かれていた箱はそう言いたかったのだと理解を蛇のように丸呑みして、わたしは男の飼い犬に成り下がったのです。過去のわたしは海の底で眠っております。さようなら。



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