熱に浮かされてしまった。

 二度、深く呼吸する。意識をもって。あまくゆるやかな痺れを予感させられても、気付かないふりを決め込む。考えるのは夜のあいだ。密やかに冷たく流れる夜。朝は勝手に清らかな光が落ちてくる。髪の間を縫ってわたしの中心に向かって。燻ぶっているどろりとした重たい好意はいずれ朽ち果てる。ひどく緩慢な動きで。醜く。腐敗する。

 朝が来る。
すべての夜は嘘みたいにきれいに流れ去って、胸の中に疼く鈍色の痛みは薄れてまた繰り返す。

 氷室くんの蠱惑的な眼差しに射抜かれてしまったみたいに動けない。このひとに魅力を感じているからそうなってしまうのか、万人そうであるのか、判断はつかない。わたしは前者であった。
廊下は静まり返っていて、校庭や体育館から届いてくる騒がしい声はどこか非現実のものに思えた。それとも非現実なのはこっちなのかもしれない。
そう錯覚させるぐらいに、氷室くんの黒髪は艶やかでスッと通った鼻筋や切れ長の瞳や陶器のようなつるりと白い肌は非日常のありふれていない美しさだった。
細く長い指が伸びてきたときに、窓の外でぐわわと野球部からの大きな掛け声があがって、その拍子に現実に足を突っ込めたわたしはやっと自由が利いた。咄嗟に後ずさってみたものの、窓に頭をぶつけて足はすぐに止まってしまった。

「……痛い」
「大丈夫?」
「あ、の」
「俺が、怖い?花守さん」

 首を横に振ると、目元を柔らかく細めて前髪をそっと撫でてくれる。その手がそのまま後ろにまわって、窓ガラスにぶつけたところを優しく擦る。
「よしよし 痛かったね」
 声が鼓膜を緩やかに揺らす。心地の良い音で。
氷室くんは唄うようにわたしの名前を呼ぶ。「花守さんは可愛いね」そう言って頭の後ろに顔を寄せると髪に唇を一瞬だけ押し当てた。
頭の中がほんとうに真っ白になって言葉がなにも降ってこないせいで、氷室くんをじっと見上げていたらにっこり品良く笑って「痛くなくなるおまじない」と言った。

 わたしは考えずに溺れることができるほど素直ではいられなくて、あの透明で淀みのない白い肌に釣り合う身体のかたちをしていないのもわかっている。
お風呂の中でふくらはぎに掌を当てて膝に顎を乗せると、柚子の香りが若草色の湯船から立ちのぼってきて、鼻孔を突き抜けていく。
触れられた頭のうしろのところがむず痒い気がして、目を閉じる。
あの眼差しが過ってしまいそうで、捕われてしまいそうで、怖い。わたしは嘘をついた。怖くないなんて、そんなのは。

 繰り返し、繰り返し、夢を見る。
夜の気配を滲ませた彼の色に染められた夢。
いちばん深い夜の隙間で目を覚ましたとしたら、きっとわたしは戸惑って怯えるだけに決まっているはずなのに。そんなことすら忘れて、溺れてしまいたいだけなのはとっくに知っていた。

「おはよう、花守さん」
 朝は新しい。夜の縁で冷たく突き放されていたとしても、朝になるとそんなことは忘れてしまえるほどに清々しい。 
まだ弱い朝の光が氷室くんの黒髪と肌に清らかな粒を落として、どうか彼に穏やかな幸せがたくさん降り注ぎますようにと願わずにいられない。暗く重たい感情なんてひとつも知らないんだって顔して笑ってほしい。たった一度でいいから。
「おはよう」
「いつも早いね。オレは朝練があるから早く来てるけど」
 夜が苦手だと伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。考えて口を噤んで、曖昧に笑う。氷室くんの前だと上手に笑えない。顔の筋肉がまるで自分の思い描く通りに動かない。手も足もそうだった。
「ぶつけたところはもう大丈夫?」
 生徒玄関の入口からいたずらに吹きこんでくる澄んだ空気の間を、氷室くんの手がわたしの頭の後ろに向かって伸びてきて、それをごく自然に受け入れていた。
距離が縮まる。夜の気配がした。妖艶に眩むほどの魅力。

 息を呑む。
身体の奥で、毎日毎日見つけてもらいたくて隠してある、日毎に大きくなって夜はわたしを苦しめる、名前をつけることにすら臆病になる「それ」に触れられてしまったように感じて、息を呑む。
 途端に下手になった呼吸で、酸素の行き届いていない瞳で、朝の光の中にある彼を見つめていると、彼がとても穏やかに白い頬をほんのすこし上気させて、笑った。
夢で逢ったあの愛しさが、夜の底でわたしを引きあげるように唯一輝いている瞬きが、静かに美しくそこにあった。
朽ち果てて行くはずだと、諦念が棲みついて前へと動き出せなかったはずの足が今とても軽い。
そうやって忘れないように何度も触れてほしい。
「氷室くん」
 気がつけば声に出していた。
驚いて見開いた彼の瞳に朝のわたしが映っていた。



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -