「オーストラリア?」
「ああ。もう決めた」
 まっすぐ前を見て。わたしの顔なんて一度も見てくれない。告げられる季節はいつも寒くて冷たい風が吹いていた。そうやって凛ちゃんがいなくなったあと、ゆっくり暖かな春が来て抜け殻になる。生温い風が頬に当たるとわたしは、水平線の向こう、ずっとずっと向こうが見える気がして海を見る。まだ静かな海。なにも見えてはくれない。
 オーストラリアは遠いよ。

 靄がかかったように重たくのしかかる頭を持ち上げて、そっと庭へ出ると聞き覚えのある足音が階段をとんとんと駆けあがってくる。
ときおり郵便屋さんのバイクが通る、猫の鳴き声、おばちゃんたちの楽しそうなおしゃべり、朝と夕方の小学生たちがいちばん騒がしい、それ以外は穏やかに流れる住宅地の真ん中にいたら、誰かの足音がいつのまにか耳に残って記憶する。

「凛ちゃん」
 玄関のほうへ向かおうとする彼に庭先から声を掛けると色のなかった表情がほんのちょっと和らいで、わたしを見た途端に呆れたような表情になると「おまえ寒くねぇのかよ」と白い息を吐きながら言った。わたしは凛ちゃんのこの表情が面倒見の良さを彼の中に見つけるのでけっこう好きだった。しょうがないやつ、と聞こえてきそうなこの表情。
買ったばかりのモスグリーンのフレアスカートが冷たい風に揺られて、肌の透けるストッキングだけに包まれた足元を冷やした。白いニットの上に羽織っていたチェックのストールは生地が薄くて家の中に戻ってコートを着込む。お気に入りの黒のショートブーツを履いて、玄関から外に出た。

「寒いねえ」
「おまえいつも薄着なんだよ」
「オーストラリアはいま夏かな」
「そうだな」
 平気な顔して前をずんずん歩いていく。赤道はなんだかとてつもなく大きな壁のように思えて、北半球にしか足を付けたことのないわたしはもう凛ちゃんには二度と会えないような今生の別れであるような手の届かない世界に行ってしまうような、そんな気がして泣きそうになる。冬のせい、だ。

 いつの間にかシャッターが閉まっている日が多くなった駄菓子屋さん、小学生のときはここでよくカキ氷を食べていた。いちご味ばかり食べていたら、凛ちゃんにブルーハワイを無理やり口に突っ込まれた。
大きな白い犬がいるおうち。家の中から脱走して門のほうまで顔を見せにきてくれていた。吠えられたことは一度もなかったけど、宗介くんが一緒のときに初めて吠えられてすこしびっくりしたこと。
甘いにおいのする消しゴムや可愛いノートが売っている文房具屋さん。中学、高校に上がるにつれて、いつのまにか実用性に優れたものばかりが増え机の上はおとなしくなった。
見慣れた道。6年間毎日のように通った。
冬休みの佐野小は静かだ。変わらない遊具。佇む校舎。正門からよく見える大きな時計。帰りの時間に流れる「夕焼け小焼け」がまたあのオルゴールのような音で今にも流れてきそうだった。
「門閉まってるね」
「そりゃそうだろ」

 通り過ぎて駅へ向う。制服を着た女の子2人組とすれ違う。凛ちゃんをちらちらと見ていることに気付く。洗練された美しさはいつだって誰かの心を震わせてしまう。そんなことを気にも留めずに長い足でずんずん歩いていく。わたしのことも気にも留めない。そのスピードでどんどんどんどんおいてけぼりにされる。距離は遠い。もっと遠くなる。あとすこしで。もっともっと。

 駅は閑散としていて、電車はついさっき出てしまった。カンカンと踏み切りの音が響いても急ぐ様子もなくあっさり見送ってしまう。小さい駅のかろうじて建物の中にある唯一のベンチに座ると手に持っていた紙袋をこっちに差し出した。
「荷物持ち?」
「ばーか。おまえのに決まってんだろ」
 中を見たらクリーム色の包装紙にピンクのリボンをかけられた包みが見える。けっこう大きい。
「なんだろう?」
「開けてみな。すぐ使えるようにタグも全部取ってもらってある」
 凛ちゃんの隣に座って柔らかい感触の包みを、端のテープから丁寧に剥がすとふわふわと肌触りの良い真っ白なマフラーが出てきた。突き放すように誰も受け入れないかのようなすべてを拒絶する白なのに、指先をつるつる滑っていきいつまでも触れていたいその手触りはひどいくらいに優しい、送り主にとてもよく似ている。
「おまえいつも薄着だからな」
 泣いてしまいそうだ。声が詰まって、ありがとう、と言いたいのにいつも笑っていたいのに、凛ちゃんといたらなんにもうまくできない。冬のせい。冬のせい。呪文みたいに頭の中で繰り返す口癖は、わたしをいつも冬嫌いにさせていた。冬らしいものがあまり好きになれなくて、マフラーなんてほとんど巻かない。冬に棲むのはいつだって哀しくて冷たくて重たい記憶。海沿いの道がこんなにも寂しく静かすぎて、足早に通りすぎてしまいたくなる。

 風は冷たい。身を震わせると凛ちゃんがわたしの手からマフラーを掬い上げると、ぐるり首を一周させてそっと巻いてくれた。首回りを暖めるだけで感動するぐらい体感温度は上がって、風はもうこわくなくて、冬を嫌いになる理由をひとつ減らされてしまったみたいで戸惑う。
「お、似合うな」
 得意気にそう言って笑う凛ちゃんが滲んで見えて。だけど輪郭はやっぱり整っていて、頬がやたら冷たかった。
凛ちゃんの両手も冷たくて、わたしの頬に触れられたときに水分が彼の手の熱を更に奪ってしまいそうで、わたしはほんとうに足手まといでしかないように思えてさらに泣いてしまった。
それでも離してはくれない。彼の掌の中にわたしの涙がぼろぼろ落ちていく。
 困ったような表情でわたしを覗きこむ凛ちゃんは相変わらずぼやけて見えて、海の中にいるみたい。呼吸しようとしたら泡を吐く。そんな気がして、ちいさく控えめに息をする。

 苦しいのは、かなしいのは、彼の隣だから。泣いてしまうのは、胸の奥にぽっかり穴が空いてしまうのは。嬉しくて、切なくて、遣る瀬無いのは、凛ちゃんだから。
こんなにも心を乱される。距離を取れば平穏なこと、わかっていても、盲目だ、とっくに。きっと小学生のときから。名前の美しさに見惚れてしまったときから。顔も知らないのに、疾うに惹かれていた。引力みたいに。強くて、しなやかで、なのに脆い。尖っているようで内側が柔い。「凛ちゃん」声に出してみたら、やっぱり綺麗に響く。この名前。この呼び方をするとこどもの頃よく怒っていたのに、いつの間にかこんなにも優しい顔をするようになった。引力はどんどんどんどん強くなる。立っていられないくらい。マフラーが首元を包む。ひどいくらいに優しい手触りだった。



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