るみかが目を覚ましたとき、自分のすぐ左隣のシーツに足を伸ばしてみたらヒヤリとした冷たさが返ってきた。
火神はもうとっくに目を覚まして、ここを抜けていったのだとまだ眠りの中に半分在るぼんやりした頭で考える。
自分の足が置いてあった場所はもう馴染んだ熱を持っていて、隣のスペースに移動してみるとじわじわ自分の体温が新しい場所を染めていくみたいで気持ちよかった。火神が眠っていたスペースだと思うと余計に。
 手を斜め上に上げてつま先もぴんと立てて、ひとつ伸びをするとむっくり起き上がる。周りを見回すと枕元にるみかの服が綺麗に畳んで置いてあった。ちゃんと下着をいちばん下の見えないところに隠してあるのが彼らしい。
行為が終わったあと、瞼がすぐに重たくなって熱い身体を眠気がじんわり包み込みるみかはすぐに寝てしまう。眠る直前に、火神が傍にあった自分のロングTシャツをあわてて頭からすっぽり被せて、それ一枚で眠りこけてしまうのだ。いつもそうだった。

 ぺたぺた床を裸足で踏みしめ、寝室から出ると浴室のほうでシャワーの流れる音が小さく響く。その生活の音に安心する。
目が覚めて部屋に一人だけだといつも襲ってくる不安は誰かの熱でしか解消されない。
 釣られるままに足が進み、浴室と脱衣所を隔てる曇りガラスの向こうで大きな身体が揺れているのを見つけてどうしようもなく愛しさが込み上げてくる。そうしたらドアを開けることに躊躇がなくなってしまった。
「大我くん、おはよう」
「うお!?……なんだよ、メシか?ちょっと待ってろって」
 びくりと逞しい身体が揺れる。力では敵うはずがないから、たまに彼をこうやって怯えさせることに小さな快感を覚えてしまう。手を伸ばして彼の腹筋に触れると、固くて引き締まっていて何度触れてもときめいてしまう。飽きることがないなあ、とぼんやり思う。
「こら、濡れるだろ!」
「わたしも一緒に入っていい?」
「もう終わるって。そのあと入ればいいだろ、な?」
 そう嗜めても聞く耳も持たずにるみかは着ていたTシャツを脱いでしまい、ぴったりと寄り添うように火神の背中に抱きついた。
「……すぐ帰ってくるよ」
「うん」
「ただの遠征なんだぞ」
「うん」
 返事は素直だが頑なに火神の背中から離れようとしない。シャワーから落ちてくるお湯でるみかの身体もしっとり濡れてくる。顔にかかった髪の毛を払いながら頬に手を当ててみたらるみかが安心したように、嬉しそうに、ほっこり笑う。
喉の奥に待機していた文句もすとんと流れて、「しょうがねえなあ」と観念したように呟くと、珍しくるみかがはしゃいで唇を合わせてくる。いつもより高い体温が返ってきた。

 るみかが持ち込んだピンクのドライヤーは風力が強くて、重たい音がする。並んでドライヤーをかけていたら、それでも髪の長さが圧倒的にちがうせいで安物のドライヤーを使った火神のほうが乾かし終えるのが早い。なんだってそうだった。
朝起きるのも、ご飯を食べ終えるのも、歩く速さも火神のほうがはやい。眠りに就くとき以外は。

 しっかり化粧を終えて髪の毛を巻いたるみかが洗面所から出てくると、ちょうどいいタイミングで作り終えた朝ごはんをテーブルに並べる。かりかりに焼いたベーコンとオムレツとトーストしたパンにバターを転がしただけの簡単なメニューだったが、それでもるみかはおいしそうに頬張って綺麗に食べ終えた。
 以前だったら、なにを食べてもおいしそうにしてくれず、食事の合間にぼんやり考え込んだり、半分以上残したり、とにかく食に関しては手が掛かった。
その頃から考えれば今の彼女はずいぶんと変わったと火神は改めて思う。
るみかと出会ったのは高校のときで、まだ知り合ってから10年と経たないが、彼女には自分がそばにいてやらないとだめになってしまうような気がしてならない。そんな危うさに縛られているような、それでいて心地よく自分の居場所を示してくれているような、そんな矛盾した思いを抱えている。この頃は特にそうだった。

***
 飛行機の機内で目を瞑ると、るみかが不安そうにじっと黙りこんで駅まで見送ってくれたときの顔を思い出す。
真っ白な喉元と折れてしまいそうなほど細く頼りない手首も。唇だけは健康的に血色の良い色をいつも保っていて、別れ際唇を合わせて触れると確かな血の流れを感じて妙に安心したことも。
 目を開けて窓から外を見ると、雲が下に広がっている。乗っかることができそうなほどの厚みを思わせる真っ白い雲と突き抜けていく偽物みたいな薄いブルーの空。今日は風も強くなくて、揺れもそれほど感じないほど快適だ。目の前の画面には東京の天気が晴れであることを知らせている。雨だと頭痛がするとよくるみかが青白い顔をして寝込んでいるせいで、晴れのマークを見ると安心するようになった。しばらく晴れてくれることを祈りながら、また目を瞑った。


 一週間ぶりに帰った東京の空はあいにくの雨だった。まだ夜の8時。るみかに電話を掛けると、元気そうな声で出た。頭痛は大丈夫なようだ。
「おかえり、大我くん」
「おう、ただいま。今アパートか?」
「うん」
「今から行っても平気か?」
「大丈夫?疲れてない?」
「まあ慣れてるからな」
「じゃあ待ってる」
 日本に帰ってきたときに感じた欝屈とした雰囲気は雨のせいだけじゃない。明るく派手で何かと騒がしいアメリカからこっちに帰るといつも感じるものだ。
黒いスーツに地味な色のコート、俯きがちで足早に過ぎて行く人混みは殺風景に見える。どことなく在った居心地の悪さがるみかの声を聞くと、不思議と晴れる。
自然と早足になって、水溜まりの汚れた水がときおり跳ねた。

「大我くん!」
 インターホンを押すと中でばたばたと騒がしい音がしてエプロンをつけたるみかが顔を出したかと思うと、首に勢いよく抱きついてきた。
「あ、ばか!服濡れるぞ」
「おかえりなさい」
 深く息を吐くようなリズムで、気を落ち着かせているみたいにしみじみとその言葉を口にする。
「ああ、ただいま」
 るみかの腰に腕を回して抱きかかえたまま家に上がろうとして、靴をまだ脱いでいないことに気付いた。四苦八苦しながら片手で靴を脱ごうとしている間もるみかは一向に離れようとはしなかった。
飛行機から降りて日本の地に足を着けたときよりずっと、帰ってきたのだと感じる。
 
 中に入ると、暖かくていいにおいがしてそこにある生活の温度がじんわり冷えた身体に染み込んでいく。
「ね、大我くん。ビーフシチュー作ったの。食べる?」
「あ?自炊してんのお前?うち来て料理したことなんかなかっただろ」
「だって大我くんの作ったご飯のほうがおいしいもん」
 目の前に出されたビーフシチュー、バケットの上には鶏肉ととろとろに溶けたチーズがのっていて、イカとブロッコリーとコーンのサラダは見た目にもおいしそうだ。部屋の中は綺麗に片づけられていてキッチン用品も調味料も十分に揃っている。
きっちり生活しているのが見てとれる。

 晴れていた気持ちがひっそりと影を被ってしまったのがわかる。るみかの生活力の無さに覚えていた隙間は火神にとっては居場所であり、存在価値というには大袈裟だが、それに似た希望でもあった。
自分がいなくても充分すぎるほどに毎日を不都合なく過ごせるという事実。
依存という言葉が似合うのはるみかではなく、火神だったのだと思い知らされた気がして身体の力が抜ける。

 言葉少なに食事を終えてシャワーですっかり洗い落した重たく圧し掛かる今日に知らないふりをして、るみかのベッドを借りる。壁際にるみかを無理やり押し込めると、背中を向けて目を瞑る。
長時間の移動で疲れているはずの身体は違う重みを携えて、ベッドに縛り付ける。
朝、目が覚めてるみかが隣で寝ているはずの夜にこんなに不安を抱えていたことは初めてで戸惑った。
「大我くん」
 身体の向こう側でるみかが控えめに声を掛けてくる。反応せずにじっと目を閉じたまま押し黙っていたら、寝てると思って諦めたのか静かになった。
うまく眠りに落ちることができずに、冴えてしまった目は瞼を重くはしてくれない。暗闇の中、時間の流れも掴めずにふと振り返ってるみかの方を見たら、同じように背中を向けて眠っていた。
 自分からそうしておいてひどく自分勝手に傷ついて、捨てられたような感情が降ってきた。
るみかの名前を小さく呼んだら、暗さに慣れてきた目にるみかの泣きそうな表情が映っていた。そのまま腕の中に身体を滑り込ませてほんの少しの隙間もなくぴったり身体をくっつけてくる彼女は確かに自分よりずっと傷ついていた。
「……ごめん、悪かった」

 るみかは自分の心臓が痛がっていたのを知る。詰まりそうになる声で「大我くん」と呼ぶと彼の大きな左手が髪を優しく撫でて、大きな身体にすっぽり包まれて安心して目を瞑った。
きっと同じ熱を今夜今までのどの夜よりも共有できる気がした。



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