蒼のような碧のような、洞窟の奥や極寒の地の空、そういった特別な場所でしか見ることの出来ない極限まで澄み切って、きれいな部分だけを掬い取り集めたような色。利央くんの瞳の色を初めて見たとき、雲が晴れて日の光が差したような清々しさが胸に落ちてきて、すうっと楽になった気分だった。ずっと曇り空を抱えていたことに、わたしはそのとき初めて気づいた。

「るみかさん、るみかさん」
 そう言って何度も呼ばれる名前、表情豊かに話す彼の声は心地良くてわたしはそれを聞いていると和やかな気持ちになる。
笑うと、呼応するように利央くんの表情が明るくなるので、自然と笑顔が増えた。明るい店内の外で夜の闇はますます深くなっていたけれど、ガラス一枚を隔ててここは守られている場所だと安心する。
 わたしはたぶん、悲観的になりすぎていた。

「ついてくんな」
 風が強くて、わたしのマフラーは何度も肩からずり落ちてしまった。
呂佳さんの背中はすごく怖くて近寄りがたくて、寂しそうだった。知らなかった。強い人だとずっと思っていた。とても脆い張りぼての鎧が、ただ剥がれていく様子を傍で見ているしかなかった。泣くこともできずに。
冬は苦手で、上手く笑えなくて、2歳の年の差は永遠のように遠かった。
「お前じゃわかんねえよ」
 言われてわたしは追いかけるのをやめた。それでも野球部はわたしの居場所だった。呂佳さんの背中が当たり前のようにあったあの場所は、色を変えてしまっていたけれど。
 傷つくのを恐れて、これではだめだと心の奥でずっと引っかかっていたのに知らない振りをして、春が来たら呂佳さんは卒業していった。わたしはそれで2年生になった。ずっと知らない振りをしたまま、野球部に落ちていた影はいつの間にか晴れていた。循環していく流れは、ひどく正しかった。臆病な自分が許せなかったけれど、体当たりでぶつかっていけば呂佳さんを繋ぎとめておけるだなんて信じることは到底できなかった。

 呂佳さんの瞳の色が何色だったのか知らない。思い出すことができないのではなくて、知らないのだと気づいたのは利央くんが入学してきてからだった。真正面からあの人の目をじっと見ることは難しく、それは威嚇だったのかもしれないとあの日の負けを思い出す。
去年知った、甲子園の土のにおいと太陽のじりじりとした痛いほどの熱と歓声と金属バットの音と白い雲と手の中のぬるい汗。呂佳さんがどうしようもなく焦がれていた夏がそこにあって、もう二度と選手の彼はそこに立てないのだと考えるとそれだけで心臓が痛いような感覚に襲われる。

 頭の上のほうで楽しそうに声が響く。まだすこし頼りない背中は、それでもわたしの心を救っていた。
「利央くんの笑顔って天使みたい」
「なに言ってんの、るみかさん」
 振り返ってにぃっと笑う彼はやっぱり外国の古い映画で見た天使が成長した姿に違いなかった。呼吸が詰まって、吐き出す言葉にいちいち思案していたあの日、野球部に行くのが憂鬱だった。途中で投げ出してしまいたいのに、それでも逃げるのは嫌だった。夏の予選であっさり負けてあんなにも悲しかったのは、先輩たちがどれだけの努力をして、夏に賭けていたのか痛いほど知っていたからだ。気持ちだけはいつの間にか野球部の一員になっていた。
 
 今年は夏が来るのがどうしようもなく怖い。
頼りになって何でも知っていて強くて厳しくて怖くてでも本当は下級生ひとりひとりをちゃんと見ていて困っていたら助けてくれるどんなヒーローよりもかっこいい三年生という学年に、いざ自分がなってみたら夏に怯えていた。これで最後なのだと思うと、もう次はないのだと思うと。2年前の夏、あの日あの時同じ場所にいたとしても気持ちの重さはどれだけ違っただろうと今頃になって知る。

 夜の風が生ぬるい。ぬるま湯のようで、安心できる場所のようで、目を閉じて夏を想う。ベランダからすこし顔を出してみると、真ん丸の月がくっきりと姿を現していた。
「ねえ、月がホットケーキみたいだよ」
「ほんとだ、きれいな丸だね」
「あーあ、るみかさん目ぇ悪いよ、上のところがちょっと欠けてるじゃん」
「え?うそ」
 目を凝らしてよく見てみても欠けているように見えない。彼の目に映る世界はとても鮮明でわたしはぼやけてしまった。ケータイを耳に当てたまましばらく黙っていたら、利央くんの呼吸のリズムがすとんと重なってくる。
「兄ちゃんがさ……」
 すこし低くなった声、呂佳さんには似ていない。わたしはあの人の面影を利央くんに見ることは不思議と一度もなかった。
「るみかはちゃんとマネージャー続いてんのか、って」
「疑われてるのね」
「辞めたがってるみたいだったからって」
 あの頃、怖くてろくに話しかけられなかったわたしを、それでもちゃんと見てくれていたのだと、遠い背中は振り返ってくれていたのだと、夏の気配を夜の中に感じて泣いてしまいたくなった。
 そうすると決まって利央くんが楽しい話をたくさんしてくれる。野球部のことや、クラスのことや、家族のこと。わたしは彼の瞳の色を思い出してそっと心を静める。涙はいつの間にか引っ込んで、勝手に笑ってしまっていた。



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