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キャラメルモカ


「お客さん、これ!忘れ物!」
「ああ、あかんあかん。助かったわ」
「…間に合って良かったです!」
「ありがとうな」
「いえ!じゃあ、いってらっしゃい!」
「ん、いってくるわ。 バイトがんばりや」
あたしがカウンターを飛び越えてあの人と対峙した初めての瞬間だった。

週6で朝番に入っていると、大体毎日来る人の顔は覚えてしまう。
毎日でなくとも、定期的にくるお客さんはなんとなく記憶できる。そしてその人たちがいつも買うパンの種類も大体は把握している。

そんな話を大学の同期の葵にしたら「えーうっそー。私なんて出勤する度同じ事務所の同じ席にいる社員の顔すらうろ覚えなのにー」なんて言ってたっけ。
それは葵がその人たちの顔を覚えるつもりが毛頭ないからっていうだけだと思う。
葵は良くも悪くも他人に興味を持ちながら無関心を貫くタイプだから、あたしとは全く違うタイプ。
あたしなんかはとにかくどんどん深みに嵌まって抜け出せなくなるタイプ。
だからあの子みたいなドライさが羨ましいと思うのに、自分ではどうにも制御ができない。  

月に1度、来るか来ないかくらいの頻度でしかお店に来ないあの人のことだってしっかり記憶している。
いつも通り「行ってらっしゃい」と声をかけると必ず「行ってくるわ」と応えてくれる彼。
大抵の人は私が「行ってらっしゃい」と言うと、少しはにかみながら会釈を返してくれたりするだけだけれども、あの人は必ず声に出して言葉を返してくれる。
名前も何も知らない人なのに、「行ってくる」と応えるその声や、財布をポケットから出すときの仕草、お釣りを仕舞う時に財布の中を長い指でなぞる小さな仕草の何もかもが魅力的に映って、もっと、ちゃんと話してみたいとすら思う。
レジスターを乗せているだけのたった1枚の低いカウンターがとてつもなく高い壁に感じる。
他のお客さんにはいくら顔や声を覚えたとしても、そんなこと考えすらしないのに。

「つまりさー、あんたはその人の事好きになっちゃったんじゃない?」
「えぇ、さすがにそれはちょっと安直すぎる、っていうか、短絡的過ぎじゃない?そんな簡単に人の事好きになるものかなー」
「何言っちゃってんの?あんたはそういうタイプでしょうが」
ケラケラ笑いながらフラペチーノの入ったカップから残り少ない液体を啜ろうとしている葵のあっけらかんとした態度には毎度ながら頭が上がらない。
あたしもこの子くらい割り切った考えの出来る人間になれたらよかったのに。
ズズズとストローを啜る音が聞こえる。
「うーん、好きっていうか、なんていうんだろう。もう少しでいいから話してみたいというかさ。だっていらっしゃいませーとかそういう会話しかないんだよ?」
「だからさー、そういうのが!好きになっちゃった、って言ってんの」
「そうなのかなー」
ああ、でもやっぱり。
葵は何もわかっていない。
本気で好きになった時にあたしがどんなに必死になるのか何もわかっていないよ。


「椿さんは何がお気に入りなん?」
扉が開いた音に続いて聞こえる人の声にそちらに視線を動かせば、そこには1組の男女がいた。
スーツを着た背の高い男の人と、ジーンズにTシャツというラフな格好でいる女の人。
その2人のうちの男性の姿を見て、使用済みのトレイを整理していた手が止まる。

あの人だ。
今回は1ヶ月半ぶりくらいかな。ちょっといつもより間が空いている。
忙しかったのかな。

あ、髪の毛。少しだけ切ってる。

あんなに楽しそうにしているところ、初めて見た。

まあいつも一人で来てるんだからそれもそうか。

それでもやっぱ。

「椿さん、1個しか食べへんの?」
「え?だってこれ結構ボリュームあるよ?」

彼らの間には独特の空気感が漂っている気がする。

気のせいかな。

考えすぎかもしれない。

「おねがいします」
女性が差し出したトレイを受け取る。
この女性は最近週に1回くらいのペースでやってきては、ベーグルサンドを1つ買っていく。
トレイの上に乗せられたサンドを袋に詰めながら、財布を取り出す彼女の指先に目が止まった。

へえ、既婚者ね。

続いてやってきた彼の指にはその鈍い輝きはない。
そもそもさん付けで相手を呼ぶような関係で夫婦なわけないんだから、それもそうか。

頭の中ではごちゃごちゃと余計なことを考えながらも、
「いってらっしゃい、今日も頑張って!」
そういつものように声をかければ、彼もまたいつものように「おん、ありがと」って。

ねえ、あの人はもう結婚してるんだってさ。
あなたにだってあの人の指先のシルバーくらい見えてるだろうに。

彼が押さえる扉をくぐる彼女が去り際にこちらを振り向き、目が合った。
腰の高さほどのカウンターが何よりも高い壁に感じる。

この壁さえなければな。あたしだって。


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