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ハムたまごサンド


あの日勇気を出して彼に話しかけてから、私たちは朝の数十分だけ互いの気に入っているレストランやカフェ、本や音楽、旅先などについて話すようになっていた。
たった数十分とはいえ毎日毎日話しているとそろそろネタ切れかもしれないと思うのに、その人に会って話し始めると自然と会話が弾みだす。
段々と朝の通勤バスに乗り込むことが一日の楽しみになってきているのを自分でも感じる。
それに一番の変化と言えば。私はこれまで欠かさず毎日作っていたお弁当を時々お休みすることにした。
そして駅前のベーカリーでパンを買う。メニューはその日のおすすめサンド。
私がお弁当バッグを下げていない日は必ずその人は「今日は何にしはるんです?」と聞いてくる。
そして私は毎回「さあ、どれでしょう」と答える。
もったいぶってるわけでも何でもなく、お店につくまで本当に分からないからそう言っているだけなのだけれども。
「今日は俺もあそこのサンドにしよかな」
「そうだ、ずっと聞きたかったんですけど」
「ん?」
「あそこ色々種類あるじゃないですか。どれが一番お好きなんですか?」
「んーそれは簡単には教えてあげらんなあ」
考えるそぶりをしながら私なんかよりもずっと勿体付けてそういう彼の言葉が面白かった。
どうせ最終的には教えてくれるくせに。
こちらを試す様なこの子の行動が可愛くて、少しだけ彼の小芝居に付き合ってみる。
「え、なんでですか?」
「本当に好きなモンってあんま人に教えたくないって、そう思わん?」
「独り占め、したいタイプだ?」
「正解」
すっと片眉を上げて目を細めたその表情がやけに色っぽく私の目に映って、小さく低く呟いた声も合わされば私の全身を言い得ぬ興奮がゾクゾクと急激に駆け巡る。
もっとこの人を知りたい、もっとずっと見ていたい、そう思った。
「名前」
「ん?」
「お姉さんの名前、教えてくれたら俺も教えたるよ」
「なにそれ」
そう言って彼の言葉を笑い飛ばしながら私は彼に自分の名前を打ち明けた。
自分の口から自分の名前が出てくることほど妙な感覚を誘うものはない。
くすぐったいような、恥ずかしいような。
「椿さん」
私を興奮させて止まないその声で名前を呼ばれれば応えないなんてできるわけがない。
「はい、なんでしょう?」
「俺のイチオシはハムたまご」
そういえば、私の名前と交換条件だったんだっけ。
ついでに私も彼の名前を教えて貰えば良かったかもしれない、そう思いかけて頭を振った。
名前なんて知ってどうするの。
彼の名前を知ったところで、何の役にも立たないのに。
自分の中でグルグルと渦巻く思考があまりにも稚拙に感じて思わず笑いが漏れてしまった。
「ハムたまごかー、王道だね」
「なんやかんやシンプルなんが一番ってことや」
「でもなんか。ちょっと意外かも。もう少し凝ったやつが好きなのかと」
「そういうんも悪かないけどな。それってたまにだからええんちゃう?やっぱりオーソドックスな方が落ち着くっていうんかな」
「まあ、言わんとすることは分かるかも」

終点でバスを降りた私たちは二人で一緒に人波から外れ、信号を渡る。
すっと伸びる長い脚が規則正しく動いて横断歩道の白線を踏む様や、ベーカリーに入る時にさり気なく扉を開けて私を中に招き入れてくれるそんな小さな仕草にも一々私の中にある女が否応なく反応した。
まさかこの人と一緒にこのお店に入る日が来るなんて思いもしなかった。
あの日、お弁当を家に置き忘れたあの朝、ほんの少しだけいつもと違う行動をとっただけなのに、時が経てば経つほど小さなズレが大きくなっていく。

「椿さんは何がお気に入りなん?」
「私はいつも今日のおすすめって書かれたやつにしてるの」
今日のおすすめは照り焼きチキンらしい。
それを1つ手に取って勝手に彼の持つトレイの上に乗せ、代わりに私は彼が教えてくれたおすすめを手に取ってレジへ向かおうとする。
「椿さん、1個しか食べへんの?」
「え?だってこれ結構ボリュームあるよ?」
「小食やねんな、椿さん」
そう言いつつ彼は自分がお気に入りだと言っていたハムたまごを自分のトレイに並べる。
私は別に標準だと思うけど・・・。
先に会計を済ませた私は彼がレジで支払いをしているところを少し離れたところから眺める。
いつものアルバイトの女の子がベーグルを袋に詰めながらレジを操作する。
お店の店員さんにも真摯に対応しているその人の姿を見て、まだ付き合いたての頃に旦那と出かけたことをふと思い出した。

ネームプレートの横に新人であることを示すマークを付けている店員さんがオーダーミスをした時に、彼は大らかに笑って「いいよいいよ、初めのうちは覚えることいっぱいあって大変だよね」と言っていた。
きっとその新人の子はその一言でかなり精神的に救われたはずだろうし、そんな風に人にフォローを入れることの出来る彼が酷く大人に見えて、この人と一緒にいたら大丈夫かもしれない、と感じた瞬間だった。
簡単に言ってしまえば、私はその時に惚れたんだと思う。
自分自身に向けられる優しさよりも、自分以外の人に向けられる優しさを見て安心した。
そしてその時の旦那と、今レジで支払いをしているあの人の後ろ姿が重なって見えてしまった。

「いってらっしゃい、今日も頑張って!」
女の子のいつもの声が聞こえて思考が現実に戻される。
「おん、ありがと」
ひらひらと片手を上げながら彼女に笑いかけている彼は傍目で見てもやはり綺麗だと思う。
その証拠に、ほら。あの子だって。
少しだけ頬を赤らめて、嬉しさを隠し切れないっていう顔をしているじゃないの。

パン屋さんを出る時もまた、来た時と同じように彼は扉を開けて私を導いてくれるらしい。
チラッと振り返った時に見えたアルバイトの子が黙ってこちらを見つめている。
彼女が何を思ってこの光景を見つめているのか、こちらには読み取れない。
「ねえ、椿さん」
「ん?なに?」
「明日の朝、いつもより1本早いバス乗られへん?」
信号待ち。
彼は駅へ向かうためにそこに立ち、私はその彼を見送るために立ち止まる。
「え?なんで?」
「なんでもや」
「まあ、いいけど?頑張ってみるよ」
「おん、ありがと」
先程も聞いたばかりの台詞。
嬉しそうに笑う彼は、「じゃ、また明日」と言って、とっくに青に変わっていて既に点滅が始まっている信号を渡っていった。

また一つ。
いつもと違う朝が訪れて小さなズレが大きく広がっていく音が、彼の革靴の足音に重なって聞こえた。



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