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気障男と大人の女


「あの…昨日はありがとうございました。」
私の座る座席の真ん前に立っている女の人が突然そう言いだしてギョッとした。
驚いて彼女の方を反射的に見上げると、その人はそのまた隣にいる男の人に向かって声をかけている。
なんだただの美男美女カップルか。
彼等は私の方なんか見向きもしていない。
さっきの一言は私に対してじゃなかったのか。
ホッとして再びスマホを弄り出してみたものの、今度はその二人の会話が気になって画面の内容は全く頭に入ってこない。

あぁ、もう。何がありがとうございましたなの。気になる。
昨日あんたたちに一体何があったのよ。
そんなことわざわざこんなバスの中で言わなくたって、メールでも何でも済むもんでしょ。
手元の端末をこっそり操作して耳に挿しているイヤホンの音量をぎりぎりまで下げる。
バスの車内で声をひそめて静かに会話する二人の声を聞き取るのは至難の業だ。
ほとんど音が流れていないとはいえイヤホンを挿したままならば尚の事難易度は上昇する。

盗み聞きみたいなことして厭らしいとは思うけど、でもそんなのバレなきゃ関係ない。
耳に挿したままのイヤホンは言わばカモフラージュのための小道具のようなものだ。
私は何も聞いていませんよ、聞こえていませんよ、と暗に世間にアピールするための小道具。
こうして私みたいコソコソと人の話を盗み聞きしている人はこの世にごまんといるに違いない。

「いえ、俺は何も。あれ、買うてみました?」
男の方は関西の出身らしい。わざとらしいくらい甘ったるい声で話すその声に眩暈がしそうになる。
普通に話しなよ。一々気障ったらしいその男に少しだけイラつく。
「はい、せっかく教えて頂いたので…」
一方の女の人は関東の人か。特に訛りは感じない。
恐る恐る言葉を選んで慎重に話しているらしいその調子は、男の人の社交性に若干押され気味のようにも感じる。
「どうでした?」
「ええ、すごく美味しかったですよ」
やけに他人行儀な二人のやり取りに余計意識が引っ張られる。
あんたたちそもそもどういう関係なのよ。
最初はただの美男美女の勝ち組カップルかと思ったのに、この短いやりとりでもこの人たちがそういう関係じゃないことは歴然としている。

「気に入ってもらえたんなら良かった。あの後、俺余計な事してしもたんやないかってちょっと後悔しとったんです」
なんだそれ。余計な事ってあんた一体何をしたって言うんだ。
気障男は(たった今私が勝手にそうあだ名をつけた)、そう言って軽く笑っている。
「余計だなんてとんでもない。あそこ時々行くんですけどいつもは違うものしか買わないので、新たな発見が出来て良かったです」

少しだけ堅い調子が崩れて、女の人の声には明るい弾みがある。
はじめは恐る恐る話していて、もどかしい感じがしていたその女の人の喋りも、少しリラックスし始めたのか声色に余裕が出てきて男の人の発する言葉にフォローを入れている。
うまいな、と思った。
でもなんとなく、これ以上は踏み込むなという壁をその言葉の節々に感じてしまう。
なんでかは分からないけど。
チラッと盗み見た時に一瞬だけ見えた彼女は私より少なくとも5,6歳は年上に見えた。
なるほど、大人の女ってことね。

一方の気障男も25かそこらだろうか。もしかしたらもう少し若いかもしれない。
私と同じくらいってことはないはずだけど。
一々鼻につく甘ったるい喋り方をして人懐っこそうな会話をする割に、見た目からは近寄りがたい雰囲気を醸し出している。へえ、なんか似た者同士じゃん、この二人。

で、時々行くって、あんたたちはどこに行くっていうの。
決定的な情報が何もないまま、二人だけが通じ合っている状態で会話はどんどん進んで行く。
「そうでしたか。逆に俺、あそこで他のモン買うたことないんですよ」
「あら、そうですか?じゃあ次回は是非」
「そうしてみます」
「…」
「…」

急に途切れた会話の無言が痛々しくて、何故か関係ないはずの私すらも居心地の悪さを覚える。
どっちでもいいから、さっさとなんか言いなさいよ。
「「あの」」
あーもう。
早く言わないからじゃん。
こんなベタな感じになって、二人して声をひそめてくすくす笑いながら「先に言ってください」「いえ、大したことじゃないんで」なんてやりとりして。
そんなことあるかよ。
はあ、朝っぱらから私は一体何に神経使ってるんだか。
あーあ、あほくさ。
途端にこの美男美女勝ち組カップル(私の中でこの二人はそう呼ぶことにした)がどうでも良くなった私はそっと手元を操作して耳に流れてくる音楽の音量を上げた。


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