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ベーグルサンド


JR駅がこのバスの終着点。
パンパンに詰まった人たちが続々と降りては駅の改札へ吸い込まれていく。
みんなここからさらに満員電車に揺られ、職場へ向かうのだろう。朝から大変だ。
夫も毎朝この波に乗って出勤しているのだろうか。
私はその流れには乗らず人波から逸れて駅前の商店街へ向う。バスを降りた人の列からそっと抜けるとほんの少しだけ空気が軽くなったように感じる。
「そこのベーカリー」
背中から聞こえた声に振り返れば、あの人がこちらを向いて立っている。
少しだけ大きな声は車内で聞いた声よりは心なしか高い。
それでも身体の芯に刺さるような深みのある音だと思う。
この人の声を聞くたびに、言いようもない感覚がゾクゾクと全身を駆け巡る。

「はい?」
「そこの駅前のベーカリー、おすすめですよ。特にベーグルサンド」
その人が指してるのはちょうど信号を渡ったところにあるパン屋で、それは私の働く花屋の隣だった。
「お弁当家に忘れた、言うてはったから」
「わたし、」
そこの隣で働いてるんですよ、そう言いそうになって止めた。
見ず知らずの人に自分の職場を打ち明けてどうすると言うんだ。
「え?」
「あ、いえ。何でもありません。買ってみようと思います。ありがとうございます」
「ぜひ」
お礼を言いながら軽く頭を下げた私に対し、一際美しい微笑みを投げかけてきたその人はくるりと踵を返して人混みに紛れていった。
ぜひ、ねえ。
彼の残した言葉がずっと耳に残っているような気がした。
西の方の人なんだろう。一度も関東から出たことのない私に詳しい事は分からないが、そういう話し方だった。


今日のおすすめと書かれたスモークサーモンとアボカドのベーグルサンドを1つ手に取ってレジへ向かう。
このお店には何度かきたことがあるけれど、いつもはクロワッサンとデニッシュしか買わない。
「ポイントカードお持ちでしょうか」
というレジの人の言葉に財布から一枚カードを差し出せば手際良くベーグルの形をしたスタンプが2つ押される。
「あっ!1個多く押しちゃったっ!」
こちらを見ながら照れたように笑うその女性は大学生くらいだろうか。
制服の白いシャツがよく似合う可愛い女の子だった。
「あ、大丈夫ですよ。消しておいて下さい」
「いいんです、いいんです。これはオマケっていうことで」
特にそうする事に意味もないだろうが、少しだけ声をひそめて私たちだけの秘密であるかのように話す彼女は憎めないタイプだ。
「すいません、ありがとうございます」
彼女からベーグルサンドの入った袋を受け取ってその場を後にする。
「いってらっしゃい!」
そう背中にかけられた言葉に少しだけ振り返りながら会釈をした。


パン屋さんを出た後、私はそのまま隣の花屋に入っていく。
丁度業者さんの搬入も終わってひと段落したところのようだ。
これからお店を開ける支度を進めている店長に挨拶をして、バックヤードに荷物を置きに行った。
ロッカーにバッグとお昼ご飯の入った袋を仕舞って、代わりに麻のエプロンを身に着けると自然と仕事モードに切り替わる。
いつもと違う朝に少しだけ乱された調子を整えるように、キュッとエプロンの紐を結んで表で準備を進めている店長を手伝う。
駅前の小さな花屋は店長がほとんど1人で切り盛りしていると言っても過言ではない。
50代半ばには見えないほど若々しい彼女は、ずっと花屋をオープンすることを夢見ていたという。
夢を叶えて約15年。
自分のやりたいことを続ける彼女は毎日幸せそうに見える。
このお店が続いているのには店長の人柄も関係しているに違いない。
前に一度そう店長に伝えたら「そんなことないわよ、みんなここにあるお花に癒しを貰いに来てるの」と言って笑っていた。
私はパートとして働いてはいるものの、その実ちょっとしたお手伝いにきているに過ぎない。

「松枝さん、お弁当じゃないなんて珍しいわね」
お昼休憩の時、一瞬だけ裏に戻ってきた店長が私の昼食を見てそう言った。
「ええ、お弁当は詰めたんですけど家に置いてきちゃって」
「あら、それは残念ね。でもそこのパン、美味しいでしょう」
店長は机の上に置かれたパン屋さんの袋を指している。
「はい。知人に勧められて」
自分で自分の言葉に苦笑いする。あの人は別に”知人”ですらないのに。
「そう。中々センスのある人ね」
足りなくなった備品を持った店長は茶目っ気の溢れる笑顔を浮かべながらそれだけ言い残して、再び表へ出ていってしまった。
センス、ねえ。
今しがた店長が言った言葉を心の中で繰り返し、大きな口を開けてベーグルサンドに噛り付いた。

確かに、美味しい。
おすすめと言っていたということは、あの人も時々会社でこれを食べるんだろうか。
そもそも仕事は何をしているんだろう。
あの人は毎朝同じバスに乗ってスーツを着て出勤している。
今日はスモークサーモンとアボカドのサンドにしたけれど、彼のお気に入りはどれだろうか。
次に会ったら聞いてみたいような気もする。
でもその前に教えてくれたお礼を言うべきなんだろうか。
どうせその時には声をかける勇気なんてないくせに私は一体何を考えてるんだろう、そう思って自嘲した。
そうして、お昼ご飯がなくなるころには私の頭の中は見ず知らずのあの人のことでいっぱいになっていたことに自分でも気が付かないまま、再びエプロンの紐をきつく締め直して表へ向かった。


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