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出会い


綺麗な人、そう思った。
その人はいつもバスの一番前に立つ。運転席のすぐ斜め後ろ。
そして私はいつもその人が立っている前の座席に座っている。
毎日同じ時間のバスに乗る人たちは毎日同じ場所に立つ。
まるでそこが自分の居場所かのように。

「今日は遅くなるから飯はいらない」
「そう?気をつけて」
「ああ、ありがとう」
結婚して6年が経った。
私は幸せだと思う。
私には夫がいて、その夫は私を大切にしてくれている。
私たちの間に子供はいないけれども、それでも「いいよ、二人きりでのんびりすればいいじゃないか」と笑ってくれたある日の夫の言葉は私の心を軽くした。

いつものように夫の朝食を用意してから自分用のお弁当を詰める。
夫はいつも食堂でお昼を食べるからお弁当はいらないと言う。
ダイニングで私の焼いたトーストを片手に朝の情報番組を見る夫の姿をキッチンから見つめる。
突然トーストを食べるのをやめた夫が「あ、」とこちらを見遣る。
視線だけで、どうしたの?と応えれば、
「今日は遅くなるから飯はいらない」
珍しい。いつも会社の付き合いも程々に直ぐに帰ってくるのに。

朝食を終えた夫がプレートをシンクに置いて水で軽く流す。
結婚したばかりの頃、食器は下げる時に必ず水で流すこと、というルールを決めた。
6年経っても変わらず守られ続けている私たち夫婦のルールの1つだ。
「じゃ、そろそろ行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
ミニトマトのヘタを取りながら答えた。
プチっという感触の後にもぎ取られたヘタは、真っ赤な実の瑞々しさとは裏腹に力なく萎れている。
よれたヘタを三角コーナーへ捨てて、小さなトマトをさらに小さくすべく、赤い果実へ包丁を入れた。
ハリのある実にほんの少しだけ力を込めて刃を差し込めば、小さな抵抗の後にスッと包丁が入り込み、真っ二つにされた隙間からジュルジュルした果実の汁がまな板に流れ出る。
遠くで玄関の閉まる音に続いて、鍵が閉められる音が聞こえた。

その朝、いつものお決まりが破られた。
お決まりと言っても、私が勝手にそう思っているだけでこの世にそんなルールは存在しないのだけれど。
朝のバス、私がいつも座っている席には先客があった。
私はその座席の前に立つ。ここはあの人の定位置なのに。
少しだけ居心地の悪さを感じつつ、そんな違和感は感じるだけ無駄だと思い直し、吊り革に掴まる。

私の住むマンションから4つ先の停留所でその人は乗ってくる。
いつもの定位置を私が占有しているのを見つけたその人は、私の隣に立った。
右隣に感じるその人の存在に、拭い去った居心地の悪さが再び襲いかかる。
気を紛らわそうと、いつもお弁当バッグに忍ばせているお気に入りの短編小説を読もうとした時にもう一つの違和感に襲われた。

ない。
いつも持っているはずのお弁当バッグがない。
確かにお弁当と水筒をバッグに入れて、ダイニングテーブルの上に置いたはずなのに。
周りをキョロキョロと忙しなく見回している私を不審に思ったのか、隣に立つ彼がこちらを一瞬だけ見たのを感じた。
急に気まずさを感じて、まっすぐ立って正面に流れていく景色を見つめる。
通り過ぎていく民家や電柱を眺めながら、頭の中で今朝の自分の動きを振り返る。
二つに切ったトマトを詰めてからお弁当箱の蓋を閉め、ランチマットで包んだ後、結び目にお箸を差し込んで、確かにバッグへ入れた。麦茶を注いだ水筒もバッグへ入れて、そのバッグを手にダイニングへ移動したのだ。
問題はそのあと。
どうしたんだっけ。
全然思い出せないや。

バスが急停車する。
立っている人たちが一斉に揺り動かされ、バタバタと足踏みをする音が車内に響き渡る。
「あ」
乗客たちの靴の音と、今朝の自分の足音が重なった。
ダイニングにお弁当を運んだ後、不意に思い出して寝室に置いたままだったピアスを取りにバタバタと走っていったんだった。
そしてそのままドレッサーに腰掛けて鏡に向かいながらピアスホールにそれを差したんだ。
その証拠に私の耳たぶには先週の誕生日、夫から貰ったばかりのダイヤのピアスが付いている。

思いの外大きな声を出してしまった私に周囲の数人が視線を向ける。
恥ずかしくなって俯いた私に、右上から声がかかってギョッとした。
「大丈夫ですか?」
隣を見れば、いつも私がいる座席の前に立っているあの人がこちらを真っ直ぐに見つめている。
初めて正面から見た彼は美しかった。
「あ、あの、すいません…」
「何か探しはるみたいやったから」
何もかも見られている。先程までの自分の不審っぷりに恥ずかしさが込み上げる一方で、初めて聞くその人の声に全身がそば立つような興奮を覚えた。
バス車内で小さく呟かれた声はともすれば聞き逃してしまいそうなほど柔らかかった。スッと空気に馴染んで、すかさず全身に入り込んでくるような低い声に自然と言葉を返していた。
「あ、いや、家にお弁当を置いてきちゃったみたいで…」
「そんな日もありますよ」
そう言って軽く笑った彼に「そうですね」と返し、微笑んでみる。
口元が引き攣って上手く笑えなかった。

私たちは再び正面を見据えて、流れいく景色をぼんやりと眺めた。

確かに、そんな日もある。
今日は何もかもいつもとほんの少しだけ違う。
そんな日だ。


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