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帰る場所



扉が閉まる音が聞こえてから、急いで私はリビングに行ってカバンに仕舞ったままだったスマホを取り出した。
そこには新着メッセージの通知。
差出人までは分からないけれどそんなの確認しなくても誰か分かる。

[木曜夜勤終わったら俺次の日休みやねん。]

たったそれだけだけど、それが何を意味しているのか、何を期待しているのか手に取るように伝わってくる。

そのメッセージには返信せず、私は通話ボタンの上に指を置いた。
しばらく続くコール音に私の心臓の鼓動はどんどん速くなっていく。
ようやく通話が通じた時には喉がカラカラで必死の思いでなんとか絞り出した声は、ぎりぎり彼の名前を呼ぶことしかできず、そのあとには何も続けることができなかった。

「…忍足くん」
[ん?なに?椿さん]

いつものようにとびきり優しい声で私を呼ぶ彼の声。
初めて聞いた瞬間から私の身も心も興奮させて、私を一瞬で彼の虜にしたその声で名前を呼ばれる。
[どないしてん?]
中々次の言葉を紡がない私を決して責めようとしない彼は、むしろ赤子をあやす様な調子で問いかけてくる。
私の様子がいつもと違うことに彼は既に気が付いているに違いない。
彼の声が耳に届くたびに、心臓がぎゅうぎゅうに締め付けられる。

「ううん、なんでもないの」
切れ切れになったその言葉を聞いた忍足くんがしばらく無言になっている。
こんな電話突然して怒らせちゃったかもしれない。

彼がはっと息を吸い込んだのが電話口に伝わる。
その音にすら私はびくびくと怯えて、彼が一体何を言うのか怖くてたまらない。
そうしてまた、いつものように、
[出たで、椿さんのなんでもなくないなんでもない]という言葉。

彼の声は笑っているのに、何故だかこちらからは見えないその表情は笑っていない気がした。

気のせいかもしれない。

これが電話で良かったと思う。

彼の顔が見えなくて良かった。

私の顔が彼に見えなくて良かった。

「…じゃあさ。次会った時、聞いても良い?」

もし今の私の顔が見られていたら、忍足くんは間違いなく私の言いたいことをすべて悟ってしまうんだろうな。

顔を顰めて、緊張を堪えてびくびくしている私はもう二度とやってくるはずのない”次”を提案していた。

[ん?なに?]

「忍足くんの名前」

一度も聞いたことのない忍足くんの下の名前。

[ええよ]

何でもないことのようにあっさり了承してくれる彼。

私が一生知ることの出来ない彼の名前。

「じゃあ金曜、楽しみにしてるね」

破られることが初めから決まっている金曜の約束。

[俺も。また連絡するわ]

そこで終了した通話。

通話時間が表示されているその画面のまま、忍足くんの連絡先をブロックして、リストから削除した。

どれくらいの時間が経ったのかは分からないけれど、再び鍵が開けられる音が遠くに聞こえた。

「おかえりなさい」

リビングで立ち尽くしたまま、夫を迎える私の顔は涙で濡れていた。


終.


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