spiral | ナノ



合鍵


[はい、忍足です]

[…ええ。…承知しました。すぐにそちらに向かいます]

[ええ、はい。そうですか。ああ、それは良かった。そうですね。はい、ありがとうございます、では失礼します]

電話を切った彼は、ふぅと大きな溜息を一つ吐いて目を閉じたまま天井を見上げている。
「忍足くん」
先程彼が名乗っていた名前を呟いてみる。
「ん?」
そっと目を開いてこちらを見る彼はきっと今すぐにでも仕事に行かなければいけないはずなのに、その焦りを感じさせないように努めて穏やかな空気を保ってくれる。
「ううん、名前。忍足くんって言うんだね」
今の今まで知らなかったんだというから変な話だ。
初めて彼に出会ってから半年、彼と関係を持つようになってから3か月。
私の名前は彼が前に聞いてきた時に教えたことがあったけれども、私から彼に名前を訊ねるようなことはしなかった。
つまり私は名前すらろくに知らないような男にこの3か月間抱かれていたということになる。
そんな火遊びみたいなこと、これまでの人生一度だってしたこともなかったのに。
順当に知り合って、デートの回数を重ねて、告白して、何回かデートしてから繋がり合う。
そんなテンプレートのような関係しか私は知らなかった。

散々知り尽くしているようで、実は私たちは互いに知らないこと尽くし。
知っているような気になっているだけで、私は彼の名前も知らなければ職業も知らない。
それに対し、彼は案外私のことを知っているような気がする。
ただ私が勝手にそんな気がしているだけかもしれないが、彼は相手にそう思わせるのが上手い。


「椿さん、幸せ?」
彼は終わった後には頻繁にこの質問をしてくる。
剥き出しの彼の素肌に自分の身体を預けて、その肩に頭をもたげている時にその言葉が頭上から降ってくるのだ。
私はこの質問にどう答えればいいのか、いつも悩んでしまう。
だからいつも私は、
「さあ、どうだろう?」
そう言って、自分の本心を誤魔化すための笑いを浮かべる。
その度に彼は「椿さんが幸せなんやったら俺は文句ないで」なんて言う。
そう言いながら私の左手に嵌められた指輪をくるくる回している彼が何を考えてるのかなんて私には分からない。
それに。
私が幸せかどうかなんて、私にも分からない。
決して不満はないけど。じゃあ幸せなのかと言われれば素直に頷けないのはどうしてだろう。
ないものねだりなのか。自分と同い年の人たちが経験したような色んなことを見てみたかったと思う。


「名前っていうか、苗字やけどな。そっちは」
ソファの上でぴったりと密着して寄り添っている彼は、クツクツと喉を鳴らして指の腹でそっと私の頬を絶え間なく撫でている。
今日は午前中に彼の家に来てから、寝室にも行かずずっとソファの上で過ごしていた。
最後にこうして二人きりで会ったのは3週間前だったから、つい二人とも盛り上がってしまった。
それはもうまるで遠距離恋愛の恋人同士が久しぶりに再会したみたいに。
でも私たちは遠距離でもなければ、恋人同士ですらない。
ただ毎日、朝にバスの車内で顔を合わせるだけの関係。少なくとも表面上は。

実際は私の夫が土曜出勤の日や、彼が平日休みの時に合わせてここに来ている。
気付いた時には、パートのシフトはもっぱら彼の休みに合わせるようになってしまった。
それでも一緒にいる時間は午前から遅くても14時かそれくらいまで。
そのあとは自分の家に帰り、買い出しをして、掃除をして、夕飯の支度をして夫の帰りを待つ。従順な妻に、非の打ち所がない夫。
理想的な夫婦。

2,30分前の自分たちの様子を思い出して妙に冷静な気持ちになる。
この場所でこの人に抱き潰されて朝から散々声を上げていたのは自分なのに。

「それくらいは分かるよ」
忍足くんの指の感触がくすぐったくて目を閉じながら体を少し捩れば、逃げられないようにきつく抱きしめられて、目元や頬に唇が落とされる。
こんなに広いソファなのに、人一人分と少しあるかないかくらいのスペースに大人二人で収まっているのは、忍足くんが私の身動きを封じるようにまとわりついているから。

「ねえ、急ぎの仕事。入ったんじゃないの?」
私のその言葉を聞いてわざとらしいくらい大きな溜息を吐いている。
仕事のことを思い出させて悪いとは思うけれど、でもきっと早く向かわないともっと面倒なことになるんじゃなかろうか。
彼がどんな仕事をしているかは分からないけれども、先程の電話対応をしている時の彼は今まで見たことないくらい真剣な表情でほんの少し恐怖を感じる程だった。
やっぱり私は忍足くんのこと、なんにも知らない。

「せっかく平日の休みやったのになあ」
ソファに座ったまま身体を大きく伸ばした彼はもう一度だけきつく私を抱きしめた。
「ほんまはもっと椿さんと居りたいねんけどなあ。あんな電話かけられちゃ敵わんわ」
スッと勢いをつけて立ち上がった彼は、テキパキと動いてあっという間に外に出る準備を済ませてしまった。
こういう人はきっと仕事も手際よくこなすタイプなんだろうな。
「椿さん。鍵、ここに置いておくから、帰る時ポストにでも入れといて?まあ、そのまま持って帰ってもらっても俺としてはかまへんけど」
キーホルダーも何もついていない鍵をこちらにチラチラと見せながら、それをキッチンのカウンターのところに置く彼に声をかけて引き留める。
「持って帰ったらさ」
「おん?」
「鍵、持って帰ったら、その鍵使ってまたここに来てもいいの?」
なに聞いてるんだろ、私。そんなの良いわけないのに。
「当たり前やろ。椿さんならいつでも歓迎するで」
こっちまで溶かしてしまいそうな笑顔を浮かべながらネクタイを締めている彼をソファの上からぼーっと眺める。
ああ、やっぱり。
いつ見てもかっこいいなあ。

「玄関までお見送りしてや?」
「もー。仕方ないな」
仕方ないなんて言いながら、声が弾んでいるのが自分でもよく分かる。
こんな少女みたいな声、どっから出てるんだろう。
後になって、この声をもう一度出せと言われても自分ではきっと出せない類のもの。
こうして誰かに構ってもらえるのがきっと嬉しくてたまらないのかもしれない。
その証拠にすんなりソファを降りて玄関へ向かう彼の後を追う私の足取りはいつになく軽い。

玄関で革靴に足を差し込んでいる彼は背広姿。
一方、私は彼の部屋着を借りて着ているだけのゆるい格好をしているのが実に対照的で面白いくらい。
今朝着てきた服は、この部屋に到着した瞬間に取り去られてしまった。
「椿さん?」
靴を履き終えた彼が私の方を振り返って、両手で私の頬を包み込んでくる。
「なあに?」
甘えるような声で呼ばれれば、私の中にある母性が擽られてどうにも甘やかしてあげたくなってしまう。
「俺な、今めっちゃ幸せ」
額を合わせるようにして呟いた彼の声が、低く私の身体中を駆け巡る。
初めて彼の声を聞いた時から全身で感じている興奮が、容易く呼び戻される。
「そう?それはよかった」
余裕ぶった笑みを浮かべて彼を見送る。
余裕なんて微塵もないのに、そこは年上としての妙なプライド。
抱かれている時は彼に主導権を握られるのなら、それ以外の時くらいせめて年上らしくしていたい。
「行ってくるわ」
「うん、気を付けて」
目の前でパタンと閉じた扉。

先程まで筋肉が張っていた顔が途端に楽になる。
顔じゅうの筋肉が張り詰めることをやめて、自分の顔に浮かんでいた表情がスッと消えていく。
扉の鍵を閉め、リビングに向かえば、そこは家主のいない他人の部屋という異様な空間が広がる。
本当に異様なのは私の存在なんだろうけど。

この部屋は今まで通りここにあるだけで、そこに突然入り込んできた私の存在こそが異物であるに違いない。
彼が出て行ったあとの部屋に一人残されると、自分がどうしてこんなところにいるのか分からなくなる。
部屋中の物全てが私に向かって「ここはお前の居場所じゃない」と語り掛けてきているみたいで、居心地の悪さを加速させる。

着ていた彼の部屋着を徐に脱ぎ捨てて、今朝着てきたばかりの自分のTシャツに袖を通す。
昨日洗ったばかりのそれを被れば、そこからはうちの柔軟剤の香りがする。
この部屋にいるのに自分の家の香りがするのに耐えられず闇雲に支度を進める。

部屋着を畳んでソファの端にそっと置いて、なるべく来た時と同じ状態に部屋を復元しようとするも、今日はほとんどソファの上で過ごしていただけなので直すものも特にない。
何かに追われて、そそくさと逃げるように彼の部屋を後にしようとするとき、ふとカウンターの上に置かれたこの部屋の鍵が視界に映った。
2,3秒だけ黙ってそれを見つめて、何かを考えることもせずとりあえずそれを手に取って早急に玄関へ向かい靴を履く。

右手に握られた鍵の凹凸がやけに手のひらに食い込んでいる。

しゃがんでスニーカーの紐を結び終えた私は、先程自分で閉めたばかりの鍵を再び回して全身を使って扉を押す。
何ともない平日真昼の日差しが強くマンションの廊下を照らしている中、鍵穴にそれを差し込み、回転させる。
ガチャという音が聞こえた後、ドアノブを傾けて鍵がかけられているか確かめた。

確かにこの部屋の鍵はかけられた。この中にはもう誰もいない、いつもの空間がこの扉の先に広がっているだけ。
再び彼の部屋の鍵を右手の中に握りしめて廊下を足早に進んだ。

エレベーターに乗り込み1階へ降りれば、マンションの玄関を出た私を照らすのは丁度南に位置する太陽で。
自分の中に渦巻く暗さと真昼の太陽の明るさがまるで正反対のように感じられて、なぜか非現実的な空間に放り出されたようにただエントランスの外に立ち尽くした。

握りしめていた右の拳を開くと、たった今私が後にしたばかりの部屋の鍵と、その鍵の凹凸が手の肉に刻まれている。
その手でバッグからスマホを取り出せば、新着メッセージが2件。
送り主は夫。

[今日はいつもより早く帰れそう。夕方、駅で待ち合わせて飯でも行く?]

もう1件はレストランのWebページのURLだった。



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