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忘れ物


意外にも、あたしがその壁を越える時はすぐにやってきた。

「お客さん、これ!忘れ物!」
たったそれだけのやり取りだけど。
「いえ!じゃあ、いってらっしゃい!」
いつもの常套句だけど。
「ん、いってくるわ。 バイトがんばりや」
今日はちょっと違う。

「あっと…あのっ…!!」
「ん?どないしてん?」
「あの、もしよかったらなんですけど」
歯切れの良いような悪いようなあたしに対して、まるで子どもを見守るみたいにして「なんや?」と言葉を待つ彼。

「良ければでいいんですけど、連絡先を、教えてくれませんか?」
なんとか導き出したあたしの言葉を聞いた彼は特別驚くような素振りも見せない。

「なんや、それだけでええの?」
と言って笑いながらスマホを取り出しているその人は、この一連の流れにとても慣れているようだった。
普段あたしが関わっているような、大学にいる子供染みた同期たちとはかけ離れた大人の男の人。

「高嶋ちゃん」
「え?」
突然呼ばれた名前に戸惑っていると、笑みを浮かべた大人の男性は自分の胸元を指してあたしに目配せをする。
言葉で伝える訳ではないその仕草に、すぐに自分が身につけているエプロンにネームプレートがつけられていることを思い出した。

「ああ…!ネームプレート!」
「可愛ええな。ほら、これ。俺の連絡先やで」
「え!あの、えっと…」

“可愛い”なんてこれまでよく言われてきて、言われ慣れてるとばっかり思ってたのに。

「ほーら、はよう。そろそろ中戻らんとあかんのちゃう?」

終始クスクス笑ってあたしの様子を楽しんでいるような彼が、手元のスマホに表示されたコードをトントンと示して待っている。

「それともやっぱいらんくなった?」
スマホを握る手を引こうとするその人の手首をとっさに掴んで、「だめっ、いる!」と引き留めるあたしがあまりにも必死過ぎたのか、その人は声を漏らして笑っている。

「ほら」
と再び差し出されたコードを読み込んで連絡先を追加する。
画面の表示された彼のアイコンはまるでその人らしい、どこかヨーロッパの街並みで。
「侑士、さん?」
「よろしくな。桃ちゃん」

連絡先に登録されたままのあたしの名前を読み上げたその人はそのまま踵を返して駅へと向かっていった。


「はあ?どういうこと?」
「だからね、その人がカウンターの上に定期置いて行っちゃってね」
「で?忘れ物届けついでに連絡先交換したの?」
「うん」
「はあ、あんたもよくやるよ。ほんっと信じらんない行動力」
「だってさー」

いきなり連絡がきて今日の夜会って話したいなんて言うもんだから来てみれば、私はただただ桃の武勇伝を一方的に聞かされている。

次いつ会えるかも分からないし、このまま一生会えないんだったらちょっとくらい恥ずかしくても声かけた方がいいと思わない??
なんて得意げに話す桃は早速連絡を取り合っているらしく、その人とのチャットに夢中で私の方なんて碌に見もしない。

「ねえ、そのあんたの言うユーシさんってどんななのよ」
「余裕たっぷりオトナの男って感じ、かなあ?」
「なにそれ、」
私はその人に会ったこともないくせに、ほんの少し早く生まれたってだけで、若い女の子にチヤホヤされて連絡先まで交換するようなユーシさんが嫌な男に思えてならなかった。

「あんたさあ、気をつけなよ?」
「んー?なにに?」
「そ、い、つ、に」
桃のスマホの画面を爪でカチカチ叩いてみせる。
「もー、葵は色々警戒しすぎ。もう少しくらい楽に生きた方がいいんじゃない?」
「そいつがロクデナシかもしれない、とは思わないわけ?」
「んー、」
少しだけ考えた後に、これ以上ないほど爽やかな笑顔で「思わないな」と断言できる桃が羨ましく思うと同時にバカだなあとも思う。
「それでいっつも男に騙されてぴーぴー泣いてるくせに」
「んー、その時はよろしく?」

顔を傾げて笑っている桃はどうしても憎めないタイプ。
もしこの子がその人に泣かされた時は私がまた話を聞くことになるんだろうな。




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