mature | ナノ



大人になった君


あの日、地下鉄の車内で彼の姿を見てから、私は遠山金太郎というテニスプレイヤーについて調べていた。
私が東京で陰鬱な日々を繰り返しているうちに、彼はアマチュアからプロへ昇格し、そして世界でプレイする選手へと成長していた。

彼の功績が私には眩しかった。
燦然たる成績のもたらす輝きではない。自らの陰々滅々とした時の流れがもたらした成長とも言えない変化と対比した眩しさだった。
私がつまらない日常を過ごしている間に、彼は着実に成長し夢を叶えていた。


彼が出演するラジオ番組が公開収録をすると知って丁度いいと思った。
相手に気づかれることなく、一方的にその姿を一目見れたら良い。

幼い頃、それこそが恋だと勘違いしていた優しい気持ちを思い出して、懐かしくなってしまった。
それだけだった。
だから彼と話がしたいとかそういう気持ちとは違う。ただ、胸に湧き上がってきたノスタルジーを消化するためにそうしたいと思っただけだ。遠くから彼を見て、現実に存在することを確かめたくなったに過ぎない。

ラジオ番組でパーソナリティの質問に対して真面目に受け答えする彼をガラス越しに見て、なんだちゃんと大人になって仕事してるんだ、そう思って落胆した。
私はなんて失礼なんだろう。
無邪気で良くも悪くも空気を読めない彼が、忖度のできる大人になってしまっていたことに勝手に落ち込んでいる。歓迎すべき成長を喜ぶことの出来ない自分の卑屈さを自覚して胸に一つ影が落とされた。

ラジオ番組で彼が何を話していたのかはほとんど聞いていなかった。
ただ、真剣な表情で質問に答えたり、時々身体を大きく揺さぶって笑ったり、進行表を確認する仕草だったり。そういうのをぼーっと見つめていただけだ。

なんとなく浮かない気持ちのまま私は放送局を後にする。
本当はこんな気分を味わいたかったわけではない。
かつて彼が見せたような無邪気な様子を一目見て、「金ちゃんはやっぱり金ちゃんのままなんだ」と確かめたかった。そして、昔、もう少しで完全に花開こうとしていた恋の芽を摘んであげたかった。

プロの選手が出場する大会でいくつも優勝を重ねたり、世界で戦って勝ち抜いていく遠山選手じゃなくて、隣の席でおにぎりを頬張っていた金ちゃんに会いたかった。あの時から成長できていないのは私だ。


 「そこのねーちゃん!ちょおー待ちや!!!」
後ろから聞こえてきた声に脚を止めて振り返る。先程までガラスの向こう側に捉えていた赤がこちらに向かってくる。
「椿ちゃんやねんな?」
「金ちゃん、」
そう声に出して彼を呼ぶ響きに懐かしさが溢れ出す。

「せっかく観に来てくれたのに、なんですぐ帰ってまうん?!」
おかげでごっつ走らされたで、そう言いながらも息一つ切らしていない彼はわざとらしく一つ息を吐いて額を拭う仕草をする。
「たまたま、ここでやってるって聞いて。近くにいたから寄ってみただけなの」

そんなの嘘だ。自分で調べて見つけて、わざわざ観に来た。

「せやったん?ナイスタイミングやな!」

高校生の頃よりもさらに伸びた身長に、逞しくなった身体を見ればまるで別人なのに、屈託なく笑う顔は紛れもなく私のクラスメイトの金ちゃんだった。
笑っていたと思ったら急に真剣な顔になる。コロコロ変わる表情も昔と変わっていない。
一つ一つ昔の金ちゃんと今の金ちゃんを照らし合わせて、共通点を掬いあげようとしている自分がいた。

「…ってことは、この後も忙しいねんな」
「え?」
「用事の途中やったんやろ?呼び止めてもーてごめんな」
「…いや、もう用は済んだの」
大人になった私は嘘に嘘を重ねる狡さを身に着けていた。ここで目の前にいる金ちゃんに「この後は何もないよ」そう言えば、「この後」が生まれると瞬時に理解したから。
「ほんま?」
うん、そう頷けばパッと咲くその笑顔を見て、摘もうとしていた恋の芽が自分の胸の中で静かに花開くのを感じた。

あれから連絡先を交換して、金ちゃんは一旦放送局の中へ戻っていった。
あと1時間くらい待たせてまうけどええ?そう遠慮がちに聞いてきた彼に私は一回家に帰って待ってるからいつでも連絡頂戴、と答えた。

一度帰宅して、改めて身支度を整えなおしている自分に呆れた。
気合が入ってることを感じさせ過ぎない程度に、綺麗にしようと化粧台に向かって、軽く粉を叩いている自分の行動に自嘲した。こんなにも自分の身なりに気を遣って、スマホの連絡を待つのはいつぶりか思い出すこともできない。一体、何を期待してるっていうんだろう。

 [おわったで!]

そのメッセージに待ってましたと言わんばかりに食いついた。
[どこいけばいい?]
[六本木のミッドタウンでええ?]

金ちゃんに六本木なんて似合わないな、と一瞬思った。でも考えてもみれば彼は一流スポーツ選手なんだから、当たり前と言えば当たり前の提案だ。
いつもは職場に行くだけのその場所へ向かう足取りがいつになく軽かった。
平常、私が入れ違いとなって通り過ぎていく着飾った人々の波の中に今日は私も紛れ込んだ。


「白石がな、教えてくれてん。」
「ん?何を?」
「女の子とお酒を飲むときはな、飲み過ぎたらあかんねんて」
そういう彼は既に顔を赤らめて目をとろんとさせている。彼が以前教えてもらったというお店で食事を済ませ、テーブルに向かい合いながら二人でお酒を飲んでいた。
ビルの中に入っているそのお店は初めてじゃ中々入りにくい雰囲気を漂わせていたが、中は案外カジュアルな和食居酒屋だ。
「でもなー、ワイ緊張するとむっちゃ飲んでまうねん」
言いながら更にジョッキを煽ろうとする。
「緊張…?金ちゃんが?」
あまりにも遠山金太郎とかけ離れた言葉が聞こえて思わず聞き返す。
「せやで、ワイ緊張してんねん。だってひっさしぶりに会う椿ちゃんと二人っきりやろ?椿ちゃんえらい綺麗になってもーたし。もうずっとドキドキしてぎゅーって。ここが締め付けられる感じ。」

言いながら自分の胸元をぎゅっと握りしめた。その手はかつてよりも肉感が薄れ、硬い質感を帯びていた。あの手でラケットを握りしめ、数々の戦いを潜り抜けてきたのかと思うとその手が特別な存在に見えてきた。
彼の言葉に自分の胸も締め付けられるような感覚を覚えつつ、アルコールで誤魔化そうと冷たい液体を流し込んで何も聞いていないフリを続けた。
「白石先輩らとは今も?」
「んー。あんま会うてへんな。むっちゃ会いたいねんけど、会われへんねん。」
「なんで?」
「トレーニングとか練習とかしてたらつい夢中なってもうて…」
「え、つまり気付いたら約束忘れてるってこと…?」
「ちゃうで!!ちゃうちゃう!!!白石との約束は破られへんから絶対忘れたりせえへんで!何されるか分かれへんもん。でもなー、なんか、そもそも連絡忘れてまうねん。家にスマホ置いたままのことも多いし、不在着信折り返してそれで話して終わりになるってのが多いねんな」
「金ちゃん、忙しいねんな」
「忙しいってより、ほんまテニスばっかやねん、ワイ」
ま、楽しいからええけど!

最初は互いにぎこちなさを表していた私たちも、美味しい食事を頂いてお酒が進めばあっという間に10年前に戻ったように打ち解けた。
懐かしさが込み上げてきて、私が求めていた金ちゃんとの再会はまさしくこれだ、と実感した。
「金ちゃん、変わってなくてよかった」
「変わって…へんかなぁ…」
お造りの刺身を一枚頬張った彼が呟いた。
「まあ、テニスはえらい強くなったみたいやけど、でも金ちゃんが金ちゃんでよかった。」
そう言ってはみたものの、その言葉に困ったような笑顔を向ける金ちゃんは私の知っている彼とはかけ離れているように見えた。そんな複雑な表情する子じゃなかったじゃない。大人になった金ちゃんは私の知らない男の人のようだから、1つ1つ昔の金ちゃんと同じところを見つけ出しては確認して安心しようとしているだけだ。
 
気が付けば2時間ほど経っていたので一旦お店を出て、二件目を探しながら並んで六本木の街を歩く。

「あそこのビルに入ってる黒い看板のお店みえる?あそこ、結構有名な作家さんがやってはるお店なんやて」

ビルの3階を指さしながら、隣にいる彼にその場所を示し歩を進める。二人で並んで歩く六本木の街はいつもと全く違う様相をしている。
「椿ちゃん、昔っからなんでも知ってんなあ!ほんま」
「職場六本木やねん。だから色々情報だけはあって。というか、金ちゃんが周りのこと気にしなさすぎだけなんちゃう?」
「あー!昔、白石にもそんなこと言われたわ」
直ぐ隣にいる彼が肩を揺らして笑う。

「ここのお店、私のお気に入りやねん」
週3回ほど仕事終わりに通っているショットバーだった。狭い路地の奥にあるお店で、路面店のわりに一見のお客さんはあまり多くなく、こじんまりとした雰囲気が気に入っていた。マスターの趣味で流されている80年代のブリティッシュロックが気取らないお店の空気を作っている。
「金ちゃん何飲む?」
「椿ちゃんはどないするん?」
「私はボトルあるから、もしよかったら金ちゃんもそれで飲んでええよ」

カウンターの後ろ側に置かれた小さなソファ席にボトルセットが用意され、二人で好きにしていいとマスターが身振りを示した。 

カウンターにいる客や少し離れたところにあるもう一つのソファ席の中には顔なじみの常連はいない。それぞれ会話が盛り上がっていて、新しく店に入ってきた私たちには興味を持っていないようだった。ある意味それでよかった、と思った。常連だったらば次回来た時にこのことをなんて説明すればいいか面倒だ。彼氏ではない、ただの同級生。そう言えばいいだけかもしれないが、なぜか妙な言い訳をしなくてはいけないような気がしてしまっていた。
 
上着を脱いでハンガーにかけようと壁に手を伸ばせば、頭上から伸びてきた腕がハンガーを奪っていく。
「上着、かけんねやろ?貸してーや」
言われるがまま上着を脱いで金ちゃんに手渡せばそれをハンガーにかけて元の位置に戻してくれる。
最後に会った時よりもずっと高い位置にある肩に時の流れを感じ、ふと昔のことを思い出した。

「金ちゃん覚えてへんかな。昔、学校で初めて話した時。移動教室の時やったと思うけど、金ちゃん私の名前知っててんで。それまで一回も話したことなかったのに。ほんまびっくりしたわ。」
言いながらソファに腰かければ金ちゃんも私の隣に腰を下ろす。隣にいる金ちゃんとの距離が思いのほか近い。膝と膝が触れ合いそうになる。
ソファに座ると身長の差が埋まったように感じるが、持て余している長い脚を見るとやはり金ちゃんがかなり大きくなったことを実感する。

「ちゃーんと覚えてんで!あの時な、ワイ椿ちゃんと話せてごっつ嬉しかったんやで。」
目を細めて見つめられると芽吹いたばかりの恋心が揺さぶられる。グラスに氷を移す手が動揺を隠しきれているか不安になる。

「ネタばらし、してもええ?」
 
おもむろに悪戯っ子のような表情になった金ちゃんが笑っている。ボトルから琥珀色の液体を2つのグラスに注ぎ入れて、片方を金ちゃんに渡した。
 
「「乾杯」」

二人で同時に一口目を味わう。いつものお店で飲むいつものお酒なのに、なぜか全然違う味に感じる。

「ネタばらしってなに?」
「中学生の時の話や」
「ええよ?気になる」

いつもと違うお酒の味におかしいな、と思い二口目を口に含んだ。

「ワイな、あん時、ほんまは教室の場所知っててん」
驚いて手に持ったグラスをテーブルに置くことすら忘れた私を見た金ちゃんが嬉しそうにしている。それはまるで「どっきり成功」とでも言いたげな顔。

「椿ちゃんとどうにかして話したいと思うてな?椿ちゃんに教室まで案内してもろてん」
したり顔で話す金ちゃんは私の知らない男の人のようだった。流し込まれたウイスキーは今度は何の味もしない。
「ワイ、ちゃんと言うたやろ?椿ちゃんのこと好きやでって」
「いやでも、あれって…」
「椿ちゃんが、そういうんは好きな女の子にしか言うたらあかんねんでって教えてくれたんやで。なんや忘れてもーたん??」
「いや、忘れてへんけど…」

私の手に握られたままのグラスが金ちゃんによって取り上げられて、目の前のテーブルに置かれた。

「椿ちゃんも、ワイのこと好きなんやろ?」

もうこれ以上近寄れないくらい近くにいるはずなのに、一層近づいてくる彼に言葉が上手く出てこない。

「そういうんはな、ほんとーに好きな人にしか言うたらあかんねんて」

白石が言うてたで。低く呟く彼に言葉を失ってしまった。
あの先輩はいつでも彼に完璧な助言をしてくれる。

忘れもしない。金ちゃんがあっけからんと「私のことが好き」と言ってのけるのが悔しかったから、私も言い返した時だ。
私ばっかりが金ちゃんのことを意識しているような気がして、それが面白くなかった。あれは子供なりの意地だった。
結局あの後私たちの間に特別なものは芽生えなかったし、そもそもめっきり会う機会が減っていっていた。あれ以来一緒にどこかへ出かけることもなかったから、あれは青春の青い1ページとして私の中に埋もれていた。

「今日もな、やーっと見つけたから、もう絶対逃がさへんでーと思って追いかけてん」

先程までグラスを握っていたはずの手に温かい金ちゃんの手が重ねられて、指が絡められていく。それこそまるで「逃がさない」といわんばかりに強く握りしめられる。

「なあ、椿ちゃん」

「…なに?」

「ワイな、むっちゃテニス頑張ってん」
 
「うん。きっとそうだと思う」
 
「強うなったで」
 
「うん」
 
繋がれた指先に一層の力が籠められる。
 
「…だからな、そろそろワイの試合観に来てくれへん?」



「──来てくれるんは嬉しいけど、椿ちゃんにはワイがいっっちばんカッコええとこ見てほしいねん。」

今の今まで忘れきっていた中学時代の一コマが脳裏にフラッシュバックする。

「──せやから!ごっつ強うなったら椿ちゃんのことワイの試合に招待したる!!」


昔の思い出が急に蘇ってきて、あまりにも優しすぎる思い出に思わず涙が零れた。

「あかんあかん、泣かんといて。白石に怒られてまう!」
女の子泣かしたってバレたら、何されるか分かれへん!!
突然涙を流した私を見て狼狽えている金ちゃんは、やっぱり昔のまま変わっていない。

何年経っても金ちゃんの弱みは白石部長のままで、そして彼は自分の気持ちには正直なままだ。大人になって、難しい表情をするようになって、ちょっと狡い計算もするようになったみたいだけど、それは私も一緒。

今日、何も予定がないって言ってここに来たのだって、精一杯頑張りすぎないお洒落をしてきたのだって、大人になった金ちゃんにドキドキしてるクセに必死に隠して余裕ぶってるのだって、全部金ちゃんに意識してもらおうって、期待してたから。

 「金ちゃん」

繋がれていない方の手で流れ落ちた涙を拭って彼の名前を呼んだ。
すぐ隣にいる彼の大きな瞳には、まるであの時のように私の姿が映し出されている。
 
「絶対、勝ってね」
 
私の言葉に目を見開いた彼は、自信ありげで挑戦的な笑みを浮かべた。

「任せときや!」

一瞬だけ触れるようなキスを落としてくれた彼は、今日何度目になるか分からない悪戯っ子の顔をしていた。




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