青春譜 | ナノ



二話

「ママ昔テニスやってたんでしょ?」

画面は今シーズンの試合のハイライト映像に切り替わって、各国の選手との試合が流れている。
アナウンサーと解説の人が試合を振り返りながら「素晴らしかったですねー」「この時の反応が良かった」「踏み出すのが早い」などと口々に言っている。

「んー、中学生のときね」

「この人のこと知らなかったの?」

「だってこの人ママと同じくらいでしょう?さすがに知らないよー。ママの時代はママの時代でスター選手がいたの」

「へえーそんなもんなんだ。いいなー、テニス!」

そう言いながらラケットを振る素振りを見せている娘は、すっかり選手に夢中になっている。
彼女のその姿を見る私はやけに落ち着いているのに、心臓の鼓動は直接耳に響き渡るほど大きく聞こえた。

彼と最後に話したのはいつだったろう。

あの時、彼は空港にいたんだと思う。

まだ朝早い時間に公衆電話から着信があって寝ぼけ半分に電話に応答すると、電話口から聞こえてきたのは手塚の声だった。

「もしもし?」

「もしもし。朝早くにすまない」

電話先の手塚はもうすっかり目が覚めているようで、いつもと同じ調子で淡々と喋っている。
こんな早朝に電話をかけるなんて、余程の事じゃない限りしなさそうだから。きっとこれは手塚にとって余程の事なんだろう。

「ん。どうしたの」

「特に理由はないが」

「理由もなく電話かけてきたの?」

「すまない」

「いや、別に謝らなくてもいいけど。珍しいね」

寝起きでぼーっとする頭をなんとか回転させ、自分が置かれている状況を整理しようとしてみた時。
手塚が随分とざわざわしているところにいることに気が付いた。
沢山の人がいて、遠くに聞こえる機械的な音声は英語で何やら数字を読み上げている。

手塚は空港にいるんだ。
その理由なんて一つしかないじゃない。

ドイツに行くということは噂に聞いていたけれど、自分から直接いつ旅立つのか手塚に聞いたりはしなかった。
見送りに行きたいと思っていたけれど、敢えてそれを言い出すこともしなかった。
私たちの間では、手塚が日本から離れることは触れてはいけないというのが暗黙の了解のようだった。
だから私は手塚が今日旅立つことを今の今まで知らずにいたし、今だって手塚は自分が旅立つことを私に言ったりしない。

「そういえばさ。手塚、今度ドイツ行くんだって?」

きっと手塚は出発前の挨拶代わりに電話をかけてきたのかもしれない。

「すごいね」

私たちが手塚のドイツ行きについて話題にしたのはこれが初めてだった。
こんなギリギリになって。

「ああ」

「じゃあ、手塚はドイツの高校に通うの?」

「ああ、きっとそうなる」

「さっきから、ああ、ばっかり」

「…ああ」

淡々と語る手塚はいつも以上に口数が少なくて、きっと本人も色々と思うことがあるのかもしれない。
だったら言葉にして直接打ち明けてくれればいいのに、なんてことを一瞬考えてから、それは自分にも当てはまることだと反省した。
私だって手塚に何も打ち明けてないんだから、人のこと言える立場じゃない。

「日本語、もう忘れちゃったの?」

やけに感傷に浸るのは嫌だったから、手塚もいつもの調子で話してくれればいい思った。
まるで出発はまだまだ先みたいにして話していれば、この気持ちも少しは落ち着くかもしれないと期待してのこと。
でも中々上手くはいかなくて、どうしてもセンチメンタルな空気になってしまう。
それは夜明け直前のこの時間も相まって、まるで現実味を伴わない夢を見ているみたいだ。

「いや、」

「行ってみたいなー、外国」

「そうか?」

「うん。興味ある。石畳の道に細く伸びた路地、メイン通りのオープンカフェとかね。きっと美しいんだろうな。」

「そうかもな。」

「手塚。いつか私がドイツに行ったらさ、その時は案内してよ」

「ああ、もちろん」

いつかっていつなのか具体的には分からないけど。
自分でこんな事を口にしながら、きっと私は生涯ドイツになんか行かないんだろう、確信にも似た思いだった。
行きたいという気持ちは本物だけれど、実際に「行く」というのは私にとっては想像もつかないことだった。
だから夢物語を語るように、綺麗な空想だけが浮かんでは形もなくどこかへ消えていく。

「ケーキの美味しいカフェ、探しておいてね」

「分かった」

「あとね、アップルパイ」

「パイ?」

「そう、パイ。有名なんだって。前にテレビで見た」

「そうか」

「ねえ?」

「なんだ」

「ときたまでいいからさ、電話くらいしてよね」

「ああ」

「約束できる?」

「ああ、約束しよう」

「ありがとう」

「ああ」

「元気でね、手塚」

「ああ、お前もな」

「うん」

最後に交わした彼との会話を思い出すのも何年振りか分からない。

「約束」なんて、それまで一度もしたことなかったのに、あの時わざわざ念を入れてそう言ったのはきっと自分自身どこかでもうそれが最後だと気が付いていたからかもしれない。
無理だと分かっているからこそ、担保のためにあの時の私は急に約束なんて言い出したんだと思う。
あれは一体何のための担保だったんだろう。傷つかないためなのか、傷ついた後に手塚を真正面から責めるためなのか。ただ約束を交わしたという安心感のためなのか。

手塚が約束を破るとは到底思えないけれど、きっともう会えないんだろうって私たちはどこかで理解していたし、いつかああして話をすることもなくなって、私たちの脆い繋がりはいとも容易く途切れてしまうんだろうって分かってた。

それはきっと手塚もそうで。
だから私たちが交わした約束はどこか白々しさを伴って、重みのないただの戯言のような響きを帯びていた。

その時私は初めて、そうしたいと願うことと、それが叶うということは必ずしも一致しないということを知った。


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