The present time, 23:51 灰加の両サイドへ腕伸ばして欄干に手を付く。と言うのは二度目の行為だったけれど、彼女の反応は随分と違って、照れた様子は感じさせず、勿論肩を押し返される事もない。柔らかくこちらを見上げ、俺の左手に小さな荒れた手を重ねられた時は内心狼狽えた。 映画か何かだったら了承も得ずに唇を合わせるくらいの事を、しない方が不自然だと思わせるような空気じゃないだろうか。キスをするかどうか置いておいて、灰加と額を合わせるように顔を近付けてみても逃げるどころか嫌がる素振りすら見せない。焦点が合うか合わないかの距離で見詰め合えば、くすりと可笑しそうに笑った灰加につられて笑みが溢れた。 「やめんか!」 「!、び、びっくりした…」 「…ジャッカルの爪の垢でももらった方がいいよ。お前と赤也」 「公の場ですることではないだろう!」 「別に何もしていないしお前が空気になっていれば済む話なんだけど」 「破廉恥な…!」 「……」 しかし残念な事に、空気が読めない兵士と空気が読める使用人がいるならば、空気を読まない兵士もこの立海城で働いている。傍目からみればいい雰囲気だったんじゃないかな、なんて自分でも思うくらいだったのに、横で仁王立ちしたまま先の台詞で俺と灰加の間に割り入った男にはため息しか出てこない。 逆らったところでまた同じ台詞を返されるだけなのは目に見えているので、しぶしぶ欄干から手を離す。けれど灰加からは離れず、その足元へと跪いた。そして彼女の足があるだろう位置へ布越しに触れる。 「じっとしてて。あと、少しだけでいいからドレス引き上げてくれるかい?」 「ゆ、幸村…!」 「なに、別に問題ないだろ。手当てだよ」 「手当てって…靴擦れのこと?」 「うん。…右足だったよね」 「本当によくわかるわね」 「わかるさ。この数時間、君の事しか見ていなかったんだから」 「ふふふ、なんだか思わせ振り」 「…そうかな」 君の事しか見ていなかった。 どんな視点で語ったって、この一言に尽きる事を彼女は理解していない。怪しいと思ったから、気になると思ったから、興味がわいたから、知りたいと思ったから、惹かれると感じたから。今日の舞踏会は、色々な理由と色々な感情で灰加しか見ていなかったんだ。その証拠に空気にならないと知っている護衛を思わず空気扱いしてしまえば、空気に溶け込む事を拒んだこの男はこちらの空気を切り裂いてきた。 そんな真田を手当ての一言で押し黙らせ、そろりとドレスの裾から覗いたヒールに触れる。掌で包むようにして足から外れるよう軽く捻ったところで、見覚えのあるそれに思わず手が止まった。この靴って、もしかして。 「どうしたの?」 上から降ってきた言葉にハッとして、声の主を仰ぎ見る。バランスを保ちながらこちらを見下ろしている不思議そうな瞳と目が合えば、この疑問を訊ねない訳にはいかなかった。灰加の足から完全に靴を脱がせてから、跪いたまま彼女に問い掛ける。 「この靴は、君の?」 「まさか。それも仁王さんが…」 仁王からか。ならばあの靴に間違いないだろう。柳生の店に飾ってあった、あの靴。形なんて記憶ない、けれどこの色だけは忘れてはいない。 自分が意識しているもの、取り分け好きなものは人の記憶に留まる。好みの色であり、柳生が「まだ見ぬお妃様にお贈りしますよ」なんて言ったから舞踏会への憂鬱さは逆に記憶へ留まりやすくなるものだ。 ドレスが足を完全に覆っていたから、気付かなかった。 「…もらったの?」 「うーん、どうかしら。貸すともあげるとも聞いてないから、また会ったら返さないと、とは思っているけれど…。…でも本当は、欲しくてたまらないんだけどね」 なにも言われなければこっそりもらっちゃうのもありかも、なんて付け足して子供のように灰加は笑った。 彼女がこの靴を欲しいと言う、そんな事に嬉しく思うのは可笑しな事だろう。 「…いいよ。君にあげる」 「もう、勝手なこと言ってない?仕立屋さんのディスプレイまで城の所有だって言うのかしら?」 「…知っているのかい?」 「えっ、精市こそ」 王室御用達と名高い柳生の店ではあるけれど、表向きにはテーラーメイドの高級紳士服専門店としか看板を掲げていない。未婚の女性には縁遠いように思う。しかし彼女は知っていた。柳生の言っていた通り、灰加が『ジェントルマン』を覗いていたのは本当らしい。しかし意外に思ったのはこちらだけではなさそうで。 「いくら王室御用達とは言え、店舗のディスプレイまで知ってるとは思わなかったわ」 「…柳生の店には、たまに顔を出すんだ」 俺がその靴を知っているのは、それだけが理由ではないけれど。 「じゃあやっぱりこれ、『ジェントルマン』に飾ってあったものと同じなの?似ているとは思っていたんだけれど」 「あぁ、仁王からなら、そうだと思うよ」 「…夢みたい」 擦れて赤くなっていた灰加の足首の後ろに、そっと絆創膏をあてがう。テープの部分が寄らないように、指先に集中していても聴覚は小さく弾む声を拾った。目線は動かさずに、どうして?と問い掛けたものの答えは期待していなかった。色々と思う事があるのかもしれないけど、ここでの彼女は秘密主義だ。 はなからぼかされている言葉に答えが返ってくるとは思っていなかった。だけれど嬉しそうな空気をそのままに、彼女が口を開く気配を感じた。 「ずっとね、素敵な靴だと思っていたの。売り物なのかなって見ていたけれど値段もないし、何より紳士服店で女性物の靴を一足だけ売っているのも可笑しいからやっぱり非売品なのかな、って。」 「…それで店を覗いていたのか」 「え?」 「柳生が……店主がね、君の事を覚えていたよ」 「やだ、そんなに不審だったかしら…」 「紳士服店を覗く女の子なんて、そうはいないからね」 「…それもそうね。看板は紳士服店だし、」 ドレスを仕立てるのは上流層に限定されているものね。 笑みの乗った声で続けられたその言葉が頭の隅に引っかかる。 灰加の家庭は、城の舞踏会へ招待される程度の裕福さは前提としていた。しかしその裕福さにもいくつかの層があり、柳生の店が上流層相手にドレスを仕立てていると知っている、つまりその対象に含まれると言うならば、かなり上の方だと言えるだろう。例えば、昔からの地位を維持し続けるような貴族の家。例えば、大地を我が物顔で切り売る大地主の家。例えば、この国を潤すような莫大な金額を扱う豪商の家。…彼女の振る舞いなどから貴族の線はないと言ってもいいだろう。ともなれば、血統ではなく、財政にまつわる家柄か。家、と言っても本当の家族なのか、はたまた住込などの勤め先なのか、彼女の立場は測りかねるけれど。 …なんて、本人に訊ねる事が叶わないから、何かを糸口にして彼女個人の特定を目指しているのが否めない思考に苦笑が落ちる。それを誤魔化すように「出来たよ」と口にしながら灰加の足に靴を戻した。 立ち上がれば、ありがとうと笑う彼女と視線が交わる。 「これで多少はもつよ。痛む?」 「ううん。さっきまで靴履いてるだけで痛かったのに、今は気にならないくらい」 「ふふ、それなら踊れそうかい?」 「それは足だけの問題ではないと思うけれど」 「そうだね。…こうしたらどうかな」 オンシジュームの茎に縛り付けられていたパウダーブルーのスカーフをベールのように灰加に被せる。透けた素材ではあるけど、遠目からでは人物を特定するのは難しいだろう。 「これならバレないかもね。でも被っているだけだから、踊ったりしたら落ちてしまいそう」 薄いベールの向こうで彼女は冗談っぽく笑っていた。俺が本気であることなんて、伝わっていないのだろう。ならば俺も軽く、冗談のように返すしかなくて。 「ふふ、これで止めたらいいんじゃないかな」 「…?綺麗ね、ヘアクリップ?」 「あぁ、ドレスが緩んできていたら使って、って。柳生から渡されたんだけど、見たところ必要性はなさそうだよね」 「そうね。別に緩んでないし、緩みそうにもないけれど…」 忘れていた訳じゃない。ただ灰加のドレスが崩れている様子がなかったから、後回しにしていた柳生からの預かり物。彼女が指先で触れた襟辺りの布もピッタリと綺麗な形を保っている。 そもそも、時間がなかったから、簡易的だから、そんな理由で柳生の手直しがたった一晩の舞踏会で崩れる訳がない。そう考えると不自然な預かり物だ。 ふと、彼女に被せたパウダーブルーの両端を束ねてその預かり物で胸元に固定してみる。元からドレスの一部だったかのように収まった天鵞絨地のリボンが美しく映えるのを見て、まさかこれが本来の目的だったのでは、と勘繰ってしまう。どこまで仁王とグルなのか、相変わらず不透明な紳士だ。 「これなら落ちない。…紳士に騙されたかな」 「え?」 「なんでもないよ。それ、似合うね」 「、ありがとう」 ベール越しに灰加の頬の辺りを指先で掠める。こちらを向いていた視線を落として、少しだけ照れたように彼女は笑った。 落とした視線の先で、何かを捉えた彼女は再び俺へと顔を向ける。その手には、黄色の花が揺れていた。 口説く華は無意識で。 「綺麗な花ね。どうしたの、これ」 「…さぁ、どうしたんだろうね」 「えぇ?なにそれ。気付いたら持っていたとでも?」 「はは、そうかも」 「…貰ってもいいの?」 「…あぁ、あげるよ」 「ありがとう。じゃあ最後に、この花は私から貴方にあげる」 「え?どう言う…」 「ほら、」 こうするとピッタリ。そう言いながら俺の胸ポケットにやさしく挿した黄色い花が含む誘いを、灰加は知らないのだろう。 (back) |