The present time, 23:44



先程、蓮二が教えてくれた時間は灰加と真田の元を離れてから1時間と少しが経ったくらいだった。気持ちが焦っていたから物事を急かしていたのかもしれない、と思ったより流れていない時間に少しだけ安堵した。

すっかり欄干の上で落ち着いている灰加は、真田と何か言葉を交わしては目を細めているのがわかった。こちら側、ダンスホールに背を向けた真田の後ろから少しずつ近付けば、俺を認識するなり灰加の瞳は真ん丸になる。


「!、戻ってきたの…?」

「戻らないなんて、言ってないよ」

「戻って来てくれるなら、そう言ってくれれば良かったのに」


戻って来てくれるなら、なんてまるで俺が戻る事を期待していたかのような口振りに、言葉の綾だと思いながらも心がざわめく。
それを誤魔化すようにわざと軽く謝ってから、真田をちらちと一瞥して「それにしても随分と楽しそうだね」とからかってみた。真田を。


「俺は邪魔だったかな?」

「もう、なに言ってるのよ」

「彼女の事は真田にぜーんぶ任せて戻ろうかな。欄干から降ろすのも全部、ね」

「…幸村」

「ふふ、冗談だよ」


ちょっとした意地悪だ。何を話していたのかはわからないけど、あまりにも灰加が柔らかく笑っていたものだから、つい真田に当て付けたくなった。灰加を抱え降ろす事を真田に任せる気なんて、さらさらないのに。

苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ている真田には、もう一度冗談だと笑って宥める。俺の心内など露ほども知らない灰加は、ただ不思議そうに、「急にどうしたの?」なんて問うのだ。…どうしたもこうしたもない。真田相手に妬くなんて、どうかしてる。


「何でもないよ、真田をからかってみだけ」

「…幸村、いい加減に、」

「はいはい、ごめんって。」

「…?」

「ところで何を話していたんだい?楽しそうだと思ったのは冗談じゃないんだけどな」

「ただ仁王さんのことと、」

「――彼女に似ていたなと思っておったのだ。それを話していただけだ」


真田にしては珍しく、灰加の言葉に被せるように口を開いたのが少し気になった。しかしそれ以上に真田の言葉の方が気になって、思わず眉を顰める。


「…誰の事だい?」

「幼い頃に城で会った人だ。一応お前も一緒だったんだぞ。…覚えてないかもしれんが、」


まだ舞踏会に出席すらしていなかった頃の話だ、と続けられた真田の話は俺にも覚えがあった。

舞踏会中は教育係に真田共々預けられ、舞踏会のマナーやルールなどを勉強する時間だった頃がある。あと1年くらいすれば出られると言われた記憶があるから多分5、6歳の話だ。部屋から出てはいけんませんよ、と残して教育係が部屋を留守にした、ちょうどその時。廊下から聞こえて来た話し声に、真田が扉を開けた事があった。今振り返ると、この頃は俺の方が言い付けには従順で、案外真田は好奇心で動いていたと思う。


「それなら覚えてるよ」


最後にちらりと女性の顔は見ているけど、雰囲気すら思い出せないほど記憶が霞んでしまっているから彼女が灰加と似ていたと言われても比べようがない。覚えているのは教育係が戻ってくる前には真田を部屋に戻さないと、なんて使命感に燃えていたこと。それと、半開きの扉の向こうから聞こえてきた真田と女性の会話で印象に残った台詞は、今でも記憶にある。


「確か、『彼と、同じ世界を生きたいと思ったの』…って言っていた人だよね」

「、」

「…よく覚えているな。実際会話をしたのは俺だけだったと思ったが」

「十分俺にも聞こえていたし、何より印象的だったんだ」


“私が選んだことだから”。
その強い声、そして妙に心に残ったのは、同じ世界を生きたいという言い回し。世界は1つだという物理的な知識のみの幼かった俺には不思議で仕方なかった。

大きくなってから、その女性の指した世界が何かを考えた事がある。あれは確か数年前に母さんが、「私はこの世界を選べて幸せよ」と言ったことでその女性の言葉が蘇った時だったかな。
あれこれ考えを巡らせてみて、女性の指した世界は、自分の無意識からくる認識だろうか、と沈思した覚えがある。

価値観が自身の外を見て内面で感じることならば、世界は自分の中にあるものが外に映って見えるのではないだろうか。
要するに、「これが当たり前だ」と思っている事があるならば、それは自身の定めだけでなく無意識に周囲にも当てはめ、全ての基準値となる。1人の人間の中でおこるその当たり前な事が、全世界の人間の共通項だからこそ、ばらばらの人間から1つの社会が形作られているのではないだろうか。“1人の人間の世界”が、寄り集まったのが社会。人は自身の無意識的な認識の世界に、自意識の価値観を混ぜ合わせ生きているのだから、そうなれば“普通“だとか“世間一般”だとかの定義が曖昧なのも必然。

彼女の指した世界とは、生き方だったのでは、と考えたっけ。


「ついでに言うなら、お前が『世界は選ぶものなのか』って聞いてたのも覚えてるよ?」

「…今なら聞かん」

「ふふ、そうだろうな。…ねぇ、君は何だと思う?」

「…えっ?」


何故か驚いたように放心していた灰加に問い掛けてみる。真田が君に似ていたっていう女性が指した世界は何だったと思うか、と。
灰加は瞬きをして、ふと口元を緩めた。なぜか真剣な眼差しで、真田は彼女を見詰めていた。


「世界、ね」

「………」

「…真田、見すぎ」

「!?そ、そうか…すまん」

「ふっ…いいえ。大丈夫ですよ」

「…だから、似ていると言ったのだ」

「えぇ、本当ですね」

「…?」


価値観が自意識ならば、世界は無意識だろうか。ならどちらを変えようとする事がより容易だろうか。意識がある価値観のほうが容易いかと言えば、案外そうでもない気がする。意識がある分、それには意思が含まれるはずだ。古い価値観を新しいものに変えると言う事は、新旧ふたつの意思を対立させる必要があるから、最初は困難に感じる事もある。しかしいずれ、どちらかが折れることになる。それが新しいものとは限らず、感情が望んだ意思、より苦痛が少ないものへと流れやすいから、価値観を変えるのは感情から見つめ直す必要があるだろう。感情の問題さえ越えれば、価値観などいくらでも変えられる。言い換えるなら、感情に働きかけられればいくらでも変わってしまうものだ。


「同じ世界を生きたい、だから…」

「うん」

「その人が選んだのは――」


では、無意識である世界はどうだろうか。
意思がない分、容易かと言えば、またそれも違う気がする。最初は簡単かもしれない。新しい世界を意識していればいい。だけどふと気付くと前の世界で生きているかもしれない。無意識が故、すり替わる事は容易で、しかしすり替わった事に気付くのは案外難しい。いわば癖とも言える“世界”には感情が絡まないので苦痛が少ない。人は痛みには敏感でも平穏には鈍い、ともなれば。
自分の世界を新しいものにしたいなら、まず自身の世界に気付く必要があり、新たな世界を意識し続ける必要がある。癖を克服するのと同じで、そこからブレることなく、ただ新しいものを保持し続ける忍耐力が求められるだろう。ただ1度、新しいものを定着させる事が出来れば、その生き方は自身の永遠の法となる。誰にも変えられない、自分だけの強さに。

女性が選んだ生き方が何だったのかはわからない。だけど、それを実行したのならば、俺の解釈と沿うならば、とても強い人だと、思った訳だ。


「生き方だったのかもね」


予期せず、返されたのは同じ答えだった。


「世界は元々ひとつだもの。けれど生き方が違えば、きっと見えるものも知ってることも全然違う」

「、」

「生き方ひとつで、自分の世界はいくらでも変えていける。…私の母はそう言っていたわ」


その人がどうだったかは、わからないけれど。
そう付け足してから、灰加は小さく笑みを閃かせる。なぜか少しだけ嬉しそうで、どこか憧憬すら感じさせる彼女はとても大人びて見えた。その瞬間の灰加が、雰囲気すら思い出せないその女性になぜだか似ていると思わせるのが不思議で仕方ない。全然、覚えていないのに。
そんな感覚もさることながら、彼女の憧憬の理由が引っ掛かり、小さく首を傾げてみる。


「その女性に対してなにか思うことでもあるのかい?」

「…その人は、生きたいと思った世界を、生きたよね」

「多分、そうだったんじゃないかな。『私が選んだことだから』って言葉からしたら」

「選ぶだけ、なのね」

「え?」

「“生きたい”じゃなくて、“生きる”って宣言すれば、私にも何か変えられるのかな」

「無論だ」


ダンスホールを真剣な眼差しで見詰めていた灰加に言葉を返したのは真田だった。予期せず割り入った声には、俺だけでなく彼女も弾かれたように真田へと視線を向けたが、ふたりの中では成立している会話のように思える。俺がいない間に話していた事と何か関係があるのだろうかと考えながら、会話の成り行きを見ていようと思ったのに、「お前はどう思う」とこちらに発言権が回ってきてしまった。これ以上真田には言葉を紡ぐ意思がないらしい。
含みのある灰加の声には返す言葉が浮かばなかった俺でも、真田の強い肯定には同意出来た。


「きっと、君がどうするかだけだよ。君が望めば、何だって変えていける」


変えたいと望むのも、変えていくのも、そして変わっていくのも自分ならば、全ての権利と許可は自分自身だけにあるはずだ。
灰加と真田の間で会話が成立している理由はわからなくとも、それだけは明確に思えた。少なくとも、自分自身にだけ権利があると思っていなければ希望なんて見出だせやしないのだから。


「精市にそう言われると、なんだか期待しちゃう」

「期待?どんな?」

「…私の出過ぎた思いが…ううん、夢がね、叶うんじゃないかって。」

「はは、俺が言うと叶いそうな気がするって事かい?俺にそんな効果あるかなぁ」

「違うわ」

「あれ、言ってる事違わない?」

「精市が言うからこそ、叶いそうな気分になっちゃうのよ」


あなただからこそ、ね。
真っ直ぐに柔らかく見詰められ、少しの熱が過る瞳に思わず心臓が早鐘を打つ。言葉の意味の理解など、最早どうでもよかった。意味なんてわからないまま、その瞳に誘い込まれるが如く、灰加へと距離を詰めた。

そうして別れを告げる為に戻ってきたはずだった俺の口から滑り落ちたのは。


「いっそ、君が捕まってしまえばいいのに」

「あら、私ったらいつの間にか王子様の機嫌、損ねちゃったみたい」

「ふふ、…逆だよ」


無意識に欄干へと置いたオンシジュームの花が揺れる。この花が落ちてしまえば、俺は彼女を諦めたかもしれない。だけれど、風で押されたそれが欄干から落ちる寸前、灰加の手がやさしく花を押さえた。



世界を変える生き方
望むものがあるならば、貪欲なほどそれだけを考える。その集中力こそが、無意識の世界を改変させていくと気付く時、望みは我が手にあるのだろうか。




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