「あの、大丈夫ですか…?」

「…それは此方の台詞だ」


先程から少し風が出てきた。ざわりとドレスが揺れる度、欄干の上に座る彼女が身を固くする。降ろしてやろうにも見ず知らずの女子を抱え上げるのはけしからん。しかしそれをやってのけた幸村の後ろ姿はもう舞踏場の人波に消えてしまった。桁外れの大きさを誇る氷帝王国の宮殿を除けば最大だと言われる立海の城は移動だけでも時間が掛かる。ましてや人前だ、緊急時以外に走ろうものなら兵士すら咎められる。そうなれば1時間と言うのは長いようで短い。

1時間以内に幸村が戻って来なかったらどうする。

先程からそればかり自問しながら彼女が落ちぬよう見張っているのだが、幸村を待つ以外に浮かばなかった。催しの予定を把握している俺は舞踏場を眺めていればだいたいの時間はわかる。しかし、彼女に時間を測る術はないはずだ。ならばもし幸村が遅れたとしても何も言わなければ過ぎる事だろうか。いやしかし“1時間”と明言した以上、時間が来たら告げるのが道理。だが「降ろして」と言われたらどうする。けしからん事だとは言え、俺がそれを拒むのは彼女に失礼だろうか。

自問している間にも吹き付ける風をやり過ごしていた彼女は、大丈夫です、と苦笑する。この分だと万が一の場合に備え手の届く範囲にいないと危険だろう。
半歩だけ歩みを寄せながら先程の言葉を問い返した。


「俺に大丈夫かとは何の事だ」

「さっき精市も言っていたけど、その…疲れてるように、見えます」


顔に出る程の疲れなどあるものか。と普段なら疲労を感じようとも己を叱咤するなりして押し潰す事が出来る。

だが今日は、色々とありすぎた。今だってそうだ。幸村が彼女を欄干に座らせたりするからただの護衛以上に神経を削られている。

否、遡れば舞踏会が始まるより先に規律が乱れ始めていたと言えるだろう。

まずは柳生の遅刻だ。予定の時間を過ぎても連絡はなく、到着しても「遅れました、申し訳ありません」と謝るばかりだった。柳生の事だ、外的な理由があるだろうと訊ねても謝辞しか口にせず、次第に論点が何故遅れたか、ではなく何故理由を言わないのか、にずれ始めた時、蓮二が仲裁に入った。柳生に仕事があるからとうやむやになったが、今日の柳生らしからぬ対応は理解出来ん。

そして次は赤也だった。催事専用の腕章を無くしたと言うのだ。全くもってたるんどる、と説教を始めた矢先、またもや蓮二が割り入った。仕事とあっては行かねばならん。実際鍵を掛けるのは門番だが、事務手続きの為に赤也を連れて門へと向かった。

まだここで“疲労の原因”は終わりではない。寧ろここからだった。

まだ招待客がいると、赤也が言ったのだ。蓮二は「揃った」と言っていた。あの蓮二が間違うはずなどない。その時点で懐疑するには十分だったが招待状の提示にも応じる気配がなく――まぁ招待客ではなかったから当然だろうが――彼女を凝視した。怪しいと言う理由もあったが、それ以上に何処かで会った事がある気がしたのだ。そう思わせるのは顔だろうか、声か雰囲気か、と沈思している間に兵士が彼女を案内して行ってしまった。

赤也が知らぬ顔だと言わなければ、仁王と気付かなかったかもしれない。その兵士の顔は数年前に退職した奴だったが、大規模な催しがある際、人手の足りなさに辞めた元兵士を単発的に雇う場合がある。ただ、城の警備と言う仕事だけに条件があり、退職して日の浅い、最低でも2年以内の兵士のみ。だが城務め2年の赤也は見覚えが無いと言った、そこで漸くその顔の兵士が3年前の退職者だと思い出したのだ。そうなれば男の正体は想像に容易い。城勤め2年未満の腕章は単発的に雇った兵士にも義務付けられている。それをしっかりと腕にしていたから、ただの物取りとは思え難いし、何より。顔と声、そして立ち居振舞い全てを完璧になりすませる奴など、国中を探しても1人しかいないだろう。
蓮二へ仁王侵入を伝えるのは赤也に託した。そして俺は本来の仕事の為兵士用の通路を使い舞踏場へ、王子…幸村の元へ向かった。

だが、まだ。まだ続きがある。思い返せば自分でも眉間に皺が寄るのを感じた。いかんな。と思わず呟けば、彼女は申し訳なさそうに口を開いた。


「私のせいですよね…」

「それは違う」


断じて違う。確かに仁王が彼女を引き入れたせいで引き起こった問題が幾つかあるが、元を辿れば全てあの男が元凶に思えた。
少なくとも伝言に行った赤也がそのまま行方不明になったのは、仁王が原因だろう。騙されついでに通信機を盗られた赤也もたるんどる。だがその通信機を客室棟の最上階の最奥へ隠した仁王を、眉間の皺の原因と言わずに何と言うのだ。

兵士のみトランシーバー…通信機を携帯している。発信器も付いており、警備室の更に奥にある、立海城の警備状況全てがわかる極秘のモニター室にて居場所を知る事が出来る。これは当然の如く最高機密であり、ごく一部の人間しか知らない。しかしながら兵士と言う表向きの役職を与えられた裏で、立海お抱えの諜報員として働いていた仁王は、その一部に含まれていた。だからこそ、いつまで経っても戻らず通信機で呼び掛けても応答のない赤也を探す為、一旦幸村の元を離れモニター室で赤也の通信機の位置を俺が確認する。と読まれていた訳だがなんともたるんどる話だ。

確かに可笑しいとは思った。何故、城中央の舞踏場から離れた客室棟、しかも最上階なのかと。だが相手は新米兵士赤也だ。通信機の音量が最小になっていて応答しなかった事例や、客室棟に来てくれと言った筈が真逆の倉庫棟に行っていた事例、倉庫82の備品を取りに行くよう頼んだら6時間戻って来なかった事例。赤也が行方不明になる時は大抵“可笑しな事”になっていた。だからこそ疑いもせず客室棟の最上階まで行ったのだ。だがそこに“あった”のは赤也ではなく。

『ご苦労さん、プリッ』

と書かれた紙と赤也の通信機、そしてワカメだった。……キエエエエエエ!!!


「…原因は仁王だ」


俺の言葉に、彼女は苦笑した。

客室棟は一部屋が広く階数が多い。最上階までの往復はかなり時間を取られた。結果的に舞踏会の大半を不在にすると言う失態だ。行方の知れん赤也は置いておき、とりあえず報告と何か知っているかも知れない蓮二へ状況説明を求め舞踏場へと戻ったのだ。


そこで漸く全貌が見えた。


「少女を連れ仁王が侵入している。その少女は招待状がなく仁王共々招かれざる客だ。…仁王は捕縛の対象で問題ないが、巻き込まれた可能性の強い彼女は出来れば逃がしてやりたい。協力してはくれないか、弦一郎」


確かに門で会った時の様子を思い返せば、意図的な侵入者とは言い難い。だが俺の父や祖父、蓮二の父には、侵入者の黙認など説得出来る話ではない。彼女を逃がすには俺達のみで動かなければならないな…と、蓮二の言葉に承諾を示す考えが過っていた。仁王に振り回される身として、彼女に同情を覚えるのは致し方ない事だろう。


「構わんが…どうするつもりだ?」

「ラストダンスから閉会式の間は全ての人間がダンスホールに集まる。庭から逃がすにはその時間が適しているだろう。…それと1つ、彼女にも協力してもらう」

「何をだ」

「今言ったのを理由とし、1時間程彼女を引き留めて欲しい。少し仁王に聞きたい事があるんだ」

「言ってる意味がわからんぞ」

「つまり、」


彼女を餌として仁王を誘き寄せたい。仁王本人も彼女の無事を結末としたいようだから、閉会式直前まで引き留めれば動きがあるかもしれない。その瞬間を捕らえたいのだ。もし仁王が現れずとも結果的に1時間後と言うのは彼女を逃がす時間にはもってこいだろう。しかし彼女にその旨は伝えないでくれ、どこで仁王が聞いてるかわからないからな。


「だが彼女には、仁王について聞きたい事があるとでも言って引き留めてくれ。1時間と言うのは後付けの理由でいい」

「む、何故そんな回りくどい事をするのだ」

「いきなり助けるかの様な物言いは、かえって怪しまれるからな。変に勘繰られて1時間後と言う提案を拒まれては困る。仁王確保の為にも、彼女に逃げられる訳にはいかない」


不敵に口角を上げた蓮二には頷きざるを得なかった。逃がしてやりたいのに逃げられる訳にはいかない、か。
仁王から何か聞き出したい情報があるのだろう、知り得たい事など知識欲には酷く従順な男だと改めて思った。


そんな思惑も含め彼女には多少後ろめたさがあるのだが、結果は彼女にとっても悪いものにはならないだろうと言う蓮二の言葉を信じここへ来たのだ。
蓮二の時間稼ぎも含め色々と巻き込めれていそうな彼女は、苦笑を浮かべたまま言葉を紡いだ。


「事の発端は仁王さんの手引きで、私はお城に入ろうだなんて思ってなかったのも確かです」

「巻き込まれただけなのだろう」

「それも間違いではありません。…でも、足を動かしたのは私です。城の中に入ったのも、ここまで歩いてきたのも、誰かに引きずられて来た訳じゃない」

「…そうか」

「結果論でも、私が選んだことだから。」

「、」


そうだ、会った事があるのではない。似ているんだ、昔合った、あの女性に。


一瞬にして記憶が甦った。
あれは…そう、まだ護衛隊長の息子という立場しかなく、敬語もろくに知らず周囲に兵士を自称するくらい幼い頃の記憶だ。それ故に舞踏会中は出ないようにと指定された部屋で幸村と2人で大人しくしていた時の事だった。


「いつから城へ出入りするようになったのかしら?卑しい貴女が。」

「…今回から正式にご招待頂きまして。」

「あら、おめでとう。それにしては随分なお洋服でいらっしゃったのね。あぁ、貴女の夫の財ではそれが限界かしら」

「まだ夫は商いを始めて長くはありませんから…」

「ふん…件の商談は譲らなくてよ。まぁあんな薄汚い商人に私の夫が負けるはずないわね」


部屋のすぐ外の廊下から聞こえた声に、幸村の制止も無視して扉を開けた。
そこに残っていた1人の女性を見て、幼いながらに悔しそうな顔だと思った。俺に気付いたその女性は、「迷子さんかしら?」と視線に合わせるように屈んだ。


「おれは迷子ではない!この城のへいしだ」

「まぁ、そうだったの。ごめんなさいね、可愛い兵士さん」

「なぜ言い返さんかったのだ」

「…まだ言えないわ。私の夫はね、駆け出しの商人なの。さっきのご婦人は商売敵の奥様。私を敵視されても、まだ足元にも及ばないと思っているわ」

「ならその夫がわるいのか?」

「いいえ、それは違うわ。これは私が選んだ事だから。彼と、同じ世界を生きたいと思ったの」


世界は選ぶものなのかと、俺の幼い問いに女性が笑った直後、幸村によって部屋へと引きずり戻されたんだ。「貴方にも大切な人が出来たらわかるわ」、扉ごしに聞いたその台詞の後に「きれいなひとだったね」と、幸村が耳打ちしてきた所までが、その記憶の全てだった。


その人が、彼女によく似ているんだ。その女性が20代半ばから後半くらいだったのに比べ、俺と同じか…もしかしら下かもしれない彼女。歳は少し違うが、「私が選んだ事だから」と言う同じ台詞に宿る芯の強さは、同じだと思った。


「あの…私の顔に何か…?」

「あ、あぁ…いや。…一つ、聞きたいんだが」

「はい」

「父親は何の職に?」

「えっ…私の、父ですか?商人ですよ。主に貿易商かと」


当時の年齢を考えれば、その女性は俺や彼女の親世代に当たるだろうことに合わせて、父親が商人。もしかして、と思い母親の事を訊ねようと思った、が。


「君の母親は……」

「…母が、何か?」

「いやその……。20代の頃、美しかったか?」

「はい?」

「…すまん。忘れてくれ」


可笑しな聞き方だとは思ったが、当時の幸村の評価である“きれいなひと”以外情報がなかったのだ。怪訝そうに聞き返してきた彼女はふと、柔らかく目を細めた。


「私の、母でいいんですよね」

「?あぁ」

「美しかったと、聞いてますよ。…父の惚気けですけれど」


ふふ、と笑いながら彼女は此方に目を向ける。何故、と問うような瞳に、古い記憶を伝えるか躊躇した。もしあの女性が本当に彼女の母親ならば、彼女にとって耳障りの良い話ではないだろう。


「…昔会った人を思い出していたのだ。…似ている気がしてな」

「私に?」

「あぁ。当時の年齢からして母親と言う可能性もあるかと思っただけで…大した事ではないのだ」

「そうでしたか。…実際、母かどうかはもう確認も取れませんけれど、その事を聞けて良かったです」

「そうか?」

「はい。母にとって、お城は思い入れのある場所でした。そのお城で予期せず母の話が聞けたことは、なんだか大きな意味があるような…気分になります」


気分だけですけど、と最後に笑って見せた彼女。その柔らかさの中にも芯がしっかり見てとれる表情だ。やはり似ている。

彼女はその笑みのまま、「それを聞けたから長居した意味もありました」と言った。
その言葉にふと疑問が浮かぶ。彼女は城に入るつもりが無かったと言った。なら何故こんな時間まで居たのだろうか。
それを彼女に問い掛けてみれば、彼女は目を伏せた。


「すまん。言いたくない事だったら別に構わんのだが、気になったのだ。幸村に流されただけ、と言うわけでもないだろう」

「…えぇ。流された訳ではないです」


彼女は舞踏場へと視線を投げた。すぐそこの景色のはずだが、何処か遠くを見るような瞳が、彼女とこの社交界との距離を示しているかのようだった。

色とりどりの布がたなびく光景を見詰めたまま、「これは精市には言わないで下さいね」と前置きをしてから、彼女はゆっくりと言葉を落とした。


「この華やかな空気の中、彼と一緒にいると…出過ぎた思いが浮かんでくるんです。私には不釣り合いな願いなのに…って思えば思うほど、帰りたくなくっなっちゃって。口で帰らないとって言うのは、自分への暗示みたいなものなんです」

「出過ぎた思い…?」

「彼と同じ世界を、生きてみたいと思ったんです」


そう呟いた彼女のどこか悔しげな表情は、やはりあの女性に似ていた。



王子専属護衛の沈思
それ以上踏み込めぬ彼女の雰囲気に、話題を本線へと戻した。
「…仁王についてなんだが、聞いても良いか」
「はい。でも私も、今日知り合った人だから…あまり答えられる事はないかもしれませんが…」
「あぁ、構わん。わかる事だけで良い」
…何も解らずとも構わん。これは蓮二に頼まれた、時間稼ぎでしかないのだから。


The present time, 22:55



(back)


第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -