The present time,22:07



「そのグラス、もらうよ」

「…うん。ありがとう」


もうこれ以上引き留める事は叶わないだろうと、空になった灰加のグラスに指を伸ばした。そうすれば少しだけ躊躇いがちに差し出されたカクテルグラス。それは帰ることへの未練か、それとも王子に雑用を渡すのが憚られるのか。前者であればな、と思っているあたり俺はまだ何か糸口を探しているんだろう。

灰加から差し出されたグラスに指が触れる寸前、横に人の気配を感じた所で声が割りいった。


「お下げ致します」


それはグラスの引き取り手が現れた報せ。滅多に使用人が姿を現さないはずのこの場所、即ち誰かの依頼である事を示してる。俺達が頼んだわけではないし、現れた人物を見ればその依頼主はブン太以外に考えられない。頼まれたら…というか押し付けられたら断れないんだろうその人物は、良い奴と名高い使用人。


「わざわざ来てくれたのかい?ジャッカル」

「あぁ、そろそろ頃合いかと思って。」

「流石だな、ありがとう」


見知らぬ使用人の登場に然り気無く一歩退いて閉口していた灰加も、俺が普段通りの対応をジャッカルに取れば、彼女の警戒心は簡単に溶けてゆくのがわかった。退いた足を元に戻し、そろりとジャッカルを見上げる表情に緊張の色はない。
随分と、信頼されてる。
彼女の様子がそう思わせるんだ。自惚れかどうかの審議は敢えてしないでおこう。ジャッカルと向き合いながら会話をしつつ、「ちょうどだよ。ね?」と灰加に振ってみる。そうすれば弾かれた様に俺へと視線が動き、頷いた灰加はくすりと笑った。


「あまりにもタイムリーでびっくりしちゃった」

「ふふ、本当にね。来るとは思ってなかったよ」

「…ブン太から回ってきた仕事だけどな」

「あぁ、やっぱり」

「あ、あの、カクテルの彼に伝えて欲しい事が…」

「カクテルの彼って…ブン太に、だよな?なにを伝えればいいんだ?」

「えっと、お礼を。それと、またお世話になるかもしれません…と」


思った通りの理由で現れたジャッカルは、何故かすごく暖かな眼差しで俺と灰加を見ていた。なんだろ、なんでそんな微笑ましく見られているんだろうか。普段からジャッカルが他人に厳しい目を向けることはない、とはいえ俺はあまり見守られるってことは少ないからどうしても不思議だった。当の本人は誠実そうな笑みを小さく浮かべて、灰加の頼みを承諾している。…その頼みも十分不可思議なものだけども、後でブン太に聞いてみよう。


「わかった。伝えとくな」

「ありがとう、お願いします」

「あぁ、それで…幸村、仁王の連れてきたっていうのは…」

「あれ、知ってるんだ?彼女がそうだよ。妹なんだって。」

「ぶっ、なんだその適当な嘘…誰が騙され…」

「ふふ、いないだろうね赤也以外。…彼女のこと、誰に聞いたんだい?」

「…柳から聞いたんだ」


仁王本人、あるいはブン太かと考えながらの問いには思いもよらない人物の名が上がった。そうか、蓮二は知ってたのか。でもいつからだろう。俺が最後に蓮二と話た時は…、妹とダンスをする前か、その時は何も言ってなかったからその後?…もしかして、俺が灰加の後を追った時に頭を抱えてたのって、彼女が招待客じゃないって知っていたから?それなら蓮二にしては大袈裟にも思えたあの動作も理解出来る、と妙に納得した。

トレーに二脚のカクテルグラスを並べ、仕事が終わったはずのジャッカルは厨房へ戻ろうとしなかった。灰加にその理由はわからず、ジャッカルを見上げる様子は不思議そう。でも俺には心当たりがある。言うなれば、蓮二の差し金かな。


「蓮二、なんて?俺に何か伝言だろう?」

「…流石だな」


蓮二から聞いた、と言うことは、蓮二がジャッカルに話すメリットがあったということだ。そのメリットは、恐らく俺への伝言あるいは小言あたり。舞踏会での小さな不備は全て蓮二に一任されていて、ダンスホール後方の出入口に柳蓮二がいる、と城で働く誰もが認識しているから特別な言い付けがない限り蓮二は基本的にあの場を動けないと聞いている。だからダンスホールに戻ってこない俺に何かを…例えば、今日の舞踏会はしっかり参加してくれとあれほど…等の小言を言うなら誰か伝達係を見繕わなければならない。その役目を、ジャッカルに任せたんだろう。誰よりも忠実かつ落ち度なく仕事をこなしてくれると評価の高い使用人に。
そう思い訊ねれば、苦笑気味に先程あげた言葉を戻してきたジャッカルは案の定、「柳からの伝言だ、」と口を開いた。そうして紡がれた台詞には、流石に悪いことをしたと今更ながらに思わされた。


「『一瞬でいいから戻ってきてくれ。これ以上王にも父にも説明責任が果たせそうにないんだ、至急戻ってきてくれ。彼女のことは多少図ってあるから戻ってきてくれ、頼むから』…ってのが、言ってたままだ」

「…すごく切実に聞こえる」

「実際切実そうだったぜ?今回は王との約束があるとかって…」

「父さんと約束?聞いてないけど…」

「とにかく一度戻った方がいい。…柳の為にも、な」

「ふふ、そうだね。わか、痛っ…!、?」

「!?」


戻ってきてくれと三度も入れ込まれた哀切な伝言に、いい加減一度は戻らなければと思いジャッカルに頷き返した時。背に衝撃が走って、それは痛覚が思いきり叩かれたことを教えてくれた。この場にいる人間は、叩かれた俺と目を丸くしている伝達係を除けば1人しかいない。痛いなぁ、と背を擦りながら彼女に向き合う。灰加って妙に力強い気がするって思うのは二度目だ。いやそれよりなんで叩かれた。


「いきなり何するんだい」

「問題おきてるじゃない!なんで戻る必要がないだなんて言ったの!?どうせ嘘だとは思っていたけどっ」

「お…落ち着いて?」

「だ、大丈夫か幸村?」

「あぁ、平気だけど…」

「……叩いたりしてごめんなさい」


矢継ぎ早に繰り出された言葉に少したじろぎながらも、宥めればすぐにそれは収まった。多少瞠目した俺より、灰加の事も経緯も知らない伝達係の方が驚いただろう。だというのにそこはジャッカル、灰加が眉を下げたのを見て空気を読んでか、彼は静かにこの場を去っていった。新米兵士にも見習わせるべきだなと思っていれば、ゆっくりと灰加が言葉を紡ぐ。


「……精市の迷惑にはなりたくないの」

「君を迷惑だなんて思ってないよ」


俺からしたら迷惑だったのは悪いけど赤也で、蓮二に迷惑をかけているのは俺だし、その要因である灰加は仁王が連れてきたんだから一番は仁王だろうけど、俺にとって仁王の起こした事は迷惑にはなり得ない。だって君は、仁王に起因しているんだから。そうなれば灰加が迷惑だなんて話が浮き上がる隙なんてないだろ。


「言ったはずだよ、俺の為だって。君ともっといたいと思ったからここにいる」

「、」

「それは俺が決めた事だよ。問題があったとしても、それも俺のものだから」


諭すように言葉を彼女へと落とし込む。本当は、灰加への好意を含むような事は欠片でも直接的に言うつもりはなかった。伝えるかどうか以前の問題で、言葉にするつもりがなかったのだ。言葉にしたら気のせいに出来なくなる。変な子だなとか、芯が通ってる子だなとか、からかい甲斐のある子だな、心地良い子だな、将来を考えるならこういう子がいいな、とか。彼女に抱いた思い全てを、認めざるを得なくなる。あの舞踏会で出会った少女は幻想だったとすることが叶わなくなれば、俺は灰加の影を追い求めてしまいそうで、今まで以上に相手探しが億劫になるという事は想像に容易い。

しかし今、曖昧な言葉で君のせいじゃないと言っても灰加が気負う責任は振り払えそうにはなかった。庇い立てするよりも有効だと思っての言葉掛けに、うっすらと彼女の頬が赤みを帯びる。


「まぁ、それを選ばせたのは君だけどね?でも迷惑じゃないって、わかってもらえたかな」

「わ、わかった…」


彼女の照れた様子にふふ、と笑えば、ばつが悪そうに視線を逸らされてしまった。その様子にまた笑えば、「早く行ったら」と言葉だけ俺に向かって来た。


「…そうだね、行かないと。父さんに弁明出来るのは俺くらいだし」

「…王様が、お父様なんだよね」

「あぁ。…もしかして疑ってた?王子だってこと」

「そう言う訳じゃないんだけど…王子様なんだ、って、」


改めて思っただけだよ。
そう呟いた横顔からは哀愁が感じられて、前の会話で機嫌を損ねる寸前の、彼女の表情と重なった。聞きそびれた疑問を思い起こさせ、早く蓮二の元へ行かないと、と急く思考とは裏腹に足はその場を離れない。どうしても訊ねずにはいられなくて、「ひとついいかな」と前置きをすれば、灰加がこちらを見やる。その頬はまだ少し色見を残していた。


「さっきも、聞いたと思うんだけど」

「さっき?」

「君がむっとする前に、何を考えていたか聞いたよね。…表情があまり明るくなかったから」

「、うん」

「俺が王子だと、そんなに君は悲しいのかい」


さっきと今、どちらも“王子である事実”が話題であった。俺の立場がどうであろうと彼女が媚び諂う様な態度に取って変わる事がないことくらい灰加を知ればわかっていたけど、表情を曇らせる理由となると変に勘ぐってしまう。今までの対等な接し方を悔いたのか、非礼だと感じたのか。目に見えない身分なんてものに威圧にされて俺の背景に気を取られ、俺自身よりも立場に目を配ると言うなら。俺の勘ぐりを灰加が肯定するならば、諦めもつくだろうか。…諦め?嗚呼、これではまるで、諦める何かがあるみたいじゃないか。


「それって、私が悲しそうに見えたってこと?」

「君が違うと言うなら、わからないけど」

「…悲しいと思ったつもりはないの。立場なんて関係ないでしょ?私は、ここに長く居過ぎたんだなって。そう考えてただけで」

「…城に?」


立場は関係ない。欲しかった言葉に満たされるのも束の間、今更な言葉に首を捻る。灰加は首を横に振ったから、“城”という単語には否定を示された。


「城じゃないなら…なんだい?」

「ここ、って言ってるじゃない」


ここって、だから城だろう?バルコニーだとかテラスだとかの詳細な名称が必要なのか、いやそんな訳ないだろうと自問自答していれば、ぐいっと腕を下に引かれ、「だからここだってば」と口調を強めた灰加は顔を伏せた。
え、それって、俺の好きなように受け取ってもいいの?頬にかかる髪の間から見える薄紅は、さっきの名残だろうか。


「俺の、傍?」

「、へ…変な、意味じゃなくてね?…誰かと親しくなったりしたら、別れるのが寂しいでしょ?もう会えないのは寂しいなって思うくらいには、貴方と居すぎたなって思っただけで、……精市が王子なら尚更会うこともないだろうから、それが顔に出てたのかも」

「、俺が王子だと会うことはないの?」

「…私ね、国を出ようかなって考えてるの」


そういう、事か。立海にいても灰加との再会は薄い可能性、他国に出ては、もう不可能と言える。穏やかに告げられた彼女の未来図は、諦めを強いられるものだった。だけど、そんなの狡いだろ。恋慕の類いでないとしても、好意を示す様な台詞を置いていくなんて。諦めなければならない何かを抱いてしまっている俺に、「寂しい」なんて言葉を置いてどこへ行くって言うんだ。



幻想と呼ぶにはあまりにも
明確になっていく感情は、どうしたら幻に還せるのだろう。




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