The present time,20:58



「落ち着いたかい?」

「うん。…ごめんなさい、いきなり泣いたりして」



少し恥ずかしそうに、そして申し訳なさそうに彼女が小さく頭を下げる。謝罪よりも、恥ずかしさを伏せる意味合いが強そうだ。赤い頬を隠す様に下を向いた彼女は、先程手渡したポケットチーフを見つめていた。



「ファンデーションついちゃった…」

「いいよ、そのくらい」



突然の涙は彼女自身も予想外だったようで。こぼれ落ちる雫を手で拭おうとしていたから、柳生が選んでくれたポケットチーフを彼女の目元に当ててあげたのだ。本来ポケットチーフはただの飾りで実用的な用途は持たないけれど、他に代わりになるようなものは持っていなかったし、何も無いよりはましだろうとそれで涙を拭くよう彼女へ促した。
そんな、と最初は遠慮していたものの、一度使ってしまえば同じことだよと言えば、「押し売りみたいなこと言わないでよ」とちょっと不機嫌気味になりつつも受け取ってくれた。
擦らないよう拭っていても、やはり化粧がついてしまったらしい。だからと言って、何か問題があるわけではないけど。


「洗えば取れるし、取れなかったら捨てるまでだよ」

「捨てるって…シルクでしょこれ」

「あぁ、ポケットチーフはだいたいそうらしいね」

「………」

「なんなら、君にあげてもいいけど」

「……洗って返す…」

「ふふっ。そう」



目眩でも覚えたかのように彼女は溜め息を吐いていた。この程度の大きさならそんなに高価でもないし、柳生の選び方は金額ではなく見栄えだから、綺麗に見えれば安価なものでも使う。例にならって、今回のポケットチーフも「あまり高いものではありませんが…この色が一番合うと思いましたので」と言ってコーディネートしてたことは記憶に新しい。



「あ…でも、どうやって返したら…」

「?郵送とか、そういうことかい?」

「うん。でもそれには貴方の…少なくとも名前は聞かないといけないから」



無理か…、と困った様に彼女が思案し出した。
何が無理なのだろうか。俺の住所、すなわち城の住所となるそれとセットで名前を教えたら肩書きがバレてしまうから、どちらかと言うと無理なのはこちらの方だ。…まぁ隠し通したい訳ではないから、教えてしまってもいいけれど、動揺するのはきっと彼女の方だろう。



「別に俺は構わないけど…何か問題でも?」

「必要だからって名前を聞いても、私はこの場で名乗るつもりがないから」

「…つまり?」

「聞き出すだけなんて、不公平でしょ?」



だから聞けない。そう言って、彼女が視線を落とした。
妙に律義な部分は、真田を彷彿させて。ぶっと思わず吹き出してしまった俺に、彼女が顔を上げた。



「なんで笑うの」

「いや…知り合いに似ていたから、つい…ふふっ」

「…?」

「ふふっ、ごめん。じゃあさ、」

「なに?」

「必要かどうかは別として、」



俺の名前、知りたいと思ってくれている?そう訊ねれば、彼女は一旦動きを止めて。それから小さく曖昧に、でも肯定を示すよう頷いた。



「改めて答えるのもなんだか照れるのだけど…」

「ふふ、肯定と取っていいんだね?」

「そう、ね。知りたくないって言ったら嘘になるから…」

「そっか」



なら、それで十分だ。知りたいと言ってくれるなら、それで。他に理由なんていらない、平等さも必要ない。



「いいよ。それでも」

「え…?」

「不公平でも構わない」

「、」

「精市。それが俺の名前」



苗字を伏せたのは意図したことではなかったけれど、無意識にフルネームを避けていたのかもしれない。王家の姓くらい、彼女だって知ってるはずだから。
呼び捨てでいいよと付け足せば、彼女は困ったような呆れたような、そんな笑みを見せた。でもその笑みの中にどこか嬉しさを孕んでいるように思うのは、気のせいだろうか。



「じゃあ……精市」

「、」



不意に呼ばれ、反応が遅れる。名を呼ばれるだけで心臓が跳ねることがあるなんて知らなかった。内心動揺気味の俺をよそに、私ね、と彼女は言葉を紡ぐ。



「つくづく思ったことがあるの」

「…?なんだい?」

「ほんと、貴方には敵わないわ」



言って、今度は諦めたような、でも優しさの混じるなんとも形容し難い笑みを口元に浮かべた彼女は、俺の腕を下に引く。
屈めって意味かな。そう解釈して、膝を少し折ってから、何かと問い掛ける。それに対して返事はなく、彼女は小さく背伸びをして距離を詰めた。唐突な接近に再び動揺の波が押し寄せたが、表には出さないようそれを押し込める。彼女は小さく囁いた。



「灰加っていうの」

「え…」

「私の名前」



それだけ告げて、彼女はすぐに離れた。
灰加、か。心の中で呟けば、じわりと胸が満たされるような感覚。詮索しないなんて考えたものの、どうやら俺は相当彼女のことを知りたかったらしい。緩みそうになる頬を隠すように、口を開く。



「さっきまで名乗るつもりはないって言っていたのに」

「精市には負けたの」

「ふふ、そうか。…ありがとう」

「こちらこそ。でも、」



なるべくここでは口に出さないでね?と灰加は注意を口にした。それの明確な理由がわからなくて、何故、と問いを含ませて首傾げれば説明を付け足してくれる。



「さっき言ったでしょう?この舞踏会には身内が…継母と義姉が参加してるって。…知られたくないの」



別に、言い振らしたりしないのに、と思うのは俺の勝手でしかない。万一を考えてバレることを防ごうと思うなら、やはり名乗らないことが最善策だったのだろう。次に防ぐ手段が彼女の名を口にしないことなら、俺はそれに従うべきだ。それくらいの誠意は示す必要がある。



「解った。呼ばないよ」

「意外と素直に受け入れてくれるんだね」

「ふふ、意地の悪い返しが欲しかったかい?」

「それ、充分意地悪だと思うけど?」



和やかな雰囲気が俺達を包み込んでいて、舞踏会の雑踏がとても遠くに感じられる。おどけて返せば、同じように返ってきて、なんだか可笑しくなって吹き出せば灰加も同じタイミングで笑った。

そんな彼女越しに、目下に見えた庭園の中に捉えたのは、飛び跳ねる人影。庭師によって綺麗に整えられた植木の間をこちらに向かって全速力で走ってくるそれは、大きく手を振っていて。幸村部長ー!そう聞こえるのは幻聴であって欲しいのに、新米兵士だと視認出来てしまう距離まで近付いて来た。うわ、こっちに来るつもりだ。っていうか何で庭から現れるんだよ。今度は俺が目眩を覚えたような気分になって、思わず額に手を当てた。





嵐の予感
出現場所が突飛なら、言動もまた突飛という、ある意味自身の護衛より厄介な新米兵士。幻覚であって欲しかった。



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