キネマトグラフの主演女優

悩みを抱えバーカウンターの端を陣取る私の手には、空になったグラス。顔をあげればきっとバーテンダーが4杯目となるお代わりを勧めてくることだろう。ここで誰かが声を掛けて来たりするものなら、さながら映画のようなシチュエーションかもしれない。そんな馬鹿げたことを考えながら、バーに辿り着くまでの道すがらに貰ってきた映画のチラシを眺めた。
旧作映画ばかりを2、3本立てやオールナイトで上映する、所謂名画座のチラシ。裏には上映スケジュール、表を飾るのは6歳くらいの愛らしい女の子。西洋人ならではのお人形のような彼女の写真や絵が、カラーとモノクロごちゃ混ぜにコラージュされたようなデザインでなんだか可愛くて貰って来てしまったのだ。どうやら亡くなって1年も経たない彼女の追悼の意を込めた特集で、上映作品全てが子役時代からティーンまでの主演作品らしい。チラシの中央に踊るのは筆記体の英字。それが“生涯アメリカの名士であり続けた”と紙面上に讃えられた彼女の名前のようだった。こういった情報に詳しくない私でもなんとなく聞き覚えのある名前だということは、かなり有名な人なんだろう、と思いながら鞄のサイドポケットにそれをしまった。

そして自身の悩みに再び向かい合おうと、スマホで「辞表 書き方」を検索した、その時だった。


「ねぇ、俺とどこかで会ったことない?」


その声は小さく流れるジャズのBGMを押し退けて、私の右耳に入り込む。シックなバーに似つかわしくない、随分と安い台詞だと思った。あぁ、鬱陶しい。開演を告げるその言葉に、率直にそう感じたのはタイミングの問題だ。

転職して2年、今の仕事に馴染めなくて、会社を辞めるかどうかの選択をアルコールを混ぜた頭で考えるくらいには悩んでいた、そんな時。もう2年程彼氏はいないし、気分が良い時はいい人いないかなぁとか浮わついたことも考えるけれど、会社に損害を与えかねないミスを重ねてしまった週末、今は男なんてどうでもいい。それより辞表を書くかどうかで私の頭は一杯だった。

人違いだと思います。
男の方を見る前から返す言葉は決めていた。けれど声にしなければ相手に伝わらない。億劫に思いながら、アルコールの回った舌でも上手く台詞が紡げるように気を張って、右斜め後ろにいるだろう男を振り返った。
その瞬間に、今度は辞表がどうでもよくなる番だった。


「久し振り、苗字」


振り返った先の男は、猫の様な瞳を私と合わせるなり小さく口元を歪める。横顔見て苗字だと思ったんだよね。そう口にしながら男は私の隣へ腰掛けると、私の分も含まれているのか慣れた様子で、そして私には聞き取れないレベルの発音でドリンクを2つ注文した。
決めていた台詞が嘘にしかならないその人物に、言葉が出なくなってしまう。いや、言葉にならないのは用意していた台詞を奪われたからではなく、十数年振りに突然、“本物”が目の前に現れたからだ。
驚き黙り込んだ私を見て、男の表情に怪訝の色が浮かぶ。


「…何、その顔」

「なんで…」

「ちょっと用があって一時帰国。明日の午後便でまた戻るけど」

「いやなんで、私のこと…?」

「前に同窓会あったんでしょ?そん時に写真だけ送られてきたから」

「あぁ…そう…」

「…俺が誰だかわかんない、とか言わないよね」

「ほんとに、越前…?」

「他に候補がいるの?」


思わず笑みが溢れる。その返し方は越前で間違いないね、と思ったことそのままを言葉にすれば、「…どういう意味」、少し低めの声がどことなく拗ねたような色合いを含んだから、やっぱり本物の越前なんだと改めて思った。

同じ高さの椅子に座っているのに、彼の顔を見るには少し上目になってしまう。身長差がゼロだったあの頃とは違う、あどけなさがすっかり消えた越前と直接会うのは、これが初めてだった。
あの頃の面影をうっすらと残してはいるのに、別人のようにも思える。だけれど、その大きな瞳に宿る強い光や生意気そうに上がる口角、気に入らないと拗ねる声は、あの頃と変わっていない。
テレビ画面越しになら時折見ていたはずなのに、初対面かと思わせる見慣れない容姿と馴染みのある言動、妙な緊張感と懐かしさがない交ぜになる。


「相変わらずちょっと意地悪そうだね、越前」

「…相変わらず頭の中と言葉が直結してるね、苗字。そんなんじゃ社会で生き辛いんじゃない?」

「…お互い様じゃないの」

「俺、一般職じゃないから」

「越前に一般職なんて向いてないよね」

「…I know」


あの頃も、バツが悪くなったり肯定するのが不本意だと嫌味なほどネイティブな英語を私に返していたっけ。少し口元を緩めているあたり、今のは単純に思い出に絡めた冗談だろうけど。過去を冗談として混ぜれる程大人になったと言うわけか。…彼も、私も。

旧友相手に緊張している自分を苦笑しつつ、それでも昔のような会話が自然と引き出されるのは越前に緊張感がないからだろう。会っていない年数を感じさせない彼の空気感は、懐かしさを助長させる。

こんな風に軽口を叩くのは中学2年生以来、13年振りだと言うのにあの頃に戻った気分にさせてくれる。1、2年とクラスが同じで何となく話してみたら少し無愛想なとこもあったけど案外越前との時間が楽しくて。私としては1番仲の良い男友達だった。越前はそこまで喋るタイプじゃなかったので彼からしても女友達としては私が1番だっただろう、と自惚れた記憶を思い返しても肯定出来るくらいには彼の態度は好意的だった。けれど2年の冬辺りから私の思いが変わり初めた。友愛ではなくて、特別視して欲しい。無意識的にそんなことを思うようになって、恋だと気付いたら越前の存在が急に怖く思えたのだ。


「それで?」

「え?」

「何悩んでたのさ?」

「…なんでわかるのよ」

「苗字が悩んでる時の顔は昔と一緒。あの難しそうな顔、変わんないから苗字だと思ったのもあるんだよね」

「それは絶対ない」


顔だって成長してるし化粧だってしてるし人前でそんな顔を晒すほど子供でもないし。と、否定に籠る熱の度合いが、酔いを示しているのことに気付いて口を閉じた。こんな調子じゃそんな顔を晒していたかもしれない。酔っている自覚が上手く持てていないことにため息を溢す。と、同時にカウンターの奥から2つのグラスが差し出された。
間接照明に演出されたレディッシュブラウンの色に、飾られたレモンが映えるカクテル。そのグラスが1脚、こちらに押し出される。奢る、と一言呟いた越前に、慣れてるなぁと心の隅で思いつつ甘えることにした。昔からモテてたけど、女の子に…というかテニス以外に関心がなかった部分も変わったんだろうか。まぁスポーツ選手ってモテるみたいだし、職に合わせてこのルックスじゃあ遊んでても不思議はないけれど。そう思うのと同時に気分が悪くなるのを感じた。ちょっと飲み過ぎかな。


「悩んでたのは否定しないんだ」


一旦横に避けた悩み事を、揚げ足を取った越前に手繰り寄せられ気が重くなる。それと重ねて越前の存在そのものに、異様に心臓がばくばくした。ときめきなんて可愛いものじゃない。どちらかと言うと、不透明な不安感を煽られような不快さで。その感覚を振り払いたくてグラスを引き寄せた。


「……辞表出すかどうか、考えてたの」

「仕事辞めるの?」


ぱちくりと、瞬き。少し驚いたような越前の表情はあの頃と変わらなくて、また懐かしさにちょっとだけ頬が緩み、しかし心臓は嫌な音を発てる。

友人としての越前との記憶はとても大切で、大人になった今でもふと会話が思い起こされては口元が緩むくらいだった。それなのに恋だと自覚してすぐさま彼に背を向けたあの頃の自分を、今でも受け入れがたいと、どこかで思っている。

あの頃、友人として好きだと言えていた時は良かった。帰国子女で英語ペラペラ、授業の大半が居眠りのクセに成績は一定のラインを損なうことはない。愛想はなくとも横柄ではなく、容姿と合わせ寧ろクールだと女の子からの人気もあって、極め付けはこうして世界のトッププレイヤーとして名が上がる程のテニスの才能と情熱を、中学当時から遺憾なく発揮していた映画の登場人物ような非凡な存在、越前リョーマ。
そんな友人を持つことに、当時の私は優越感すら抱いていたのも確かだ。けれど恋愛対象に置き換えた途端、越前がとても高く感じられた。友人であれば気にすることがなかった高さ。同性ならまだしも、彼は男で私は女。テニスだってしない。ライバル視する必要も理由もないし、越前と同じ高さに立とうとする意味もなかった。ただ話して、話しかけられての関係があればそれで。
だけれど、そうはいかなくなった。特別視されたい、でもそれは彼と対等な位置に居なければ叶わないことだと思ったのだ。しかしそんな高さに届く気がしなくて。
不毛な恋だと思った。叶わないのは嫌、悲しくなるのも嫌。友人以上のラインを跨ごうとはせず足を留め、私は3年になりクラスが離れたことを理由にして越前に話し掛けるのを止めてしまった。そして避けていることが伝わったのか、越前も声を掛けてくることがなくなり、そのまま話さなくなって。卒業し、普通の高校生をしていた私と既にプロとして活躍していた越前。彼の飛躍にその頃には高さを感じること自体馬鹿らしくなって、他の人に恋をして付き合って、フったりフラれたりでたまに相手を変えながらも大学を経て就職、そして転職、また職変えかと悩む今に至る。
その間に行われた同窓会に、当然の如く越前の姿はなかった。スケジュールを越前に会わせようと試みたけど多忙かつ海外が拠点では上手くいかなかった、と幹事が項垂れていたのはもう2年前だ。

中学生の頃の、簡単に捨ててしまった恋も今では思い出の一部になっているはずなのに。あの時怯まずに越前にアタックしていたら、世界レベルの選手の恋人としてニュースにちらりと名前が流れてたりした未来もあったかも、惜しいことしたなぁ。そんな笑い話のはずなのに。
画面から伝えられる越前の活躍は頑張ってるんだなぁと温かな気持ちで聞けるのに、いざこうして越前を前にすると、懐かしさに触発されて裏切りのような形で友人との関係を絶った後ろめたさと、高さに怯み釣り合わないという劣弱意識から逃げ出した自分への嫌悪に苛まれる。

はぁ、と仕事の件か越前の件かもわからないため息は、心内に留めた。


「だからそれを考えてたの。辞めるにしても辞表の書き方調べ直さないといけないし、どのタイミングで出すかとか、また次の仕事も…」

「そこまで考えてるクセに辞めるかどうか迷ってんの?」

「…」

「まだまだだね」


彼のお決まりの台詞は今でも現役だと、スポーツニュースを見ていればわかることだ。
この台詞を聞くと私はいつも、それでのいいの?と問われている気がしてならなかった。本人にそのつもりはなくとも、その思考、その選択、そして今の自分で本当にいいのか、と。辞める決断の決定打を探す暇があるなら今の仕事に馴染む努力を続ける、あるいは早々に次の仕事を探すべきではないのか。
越前の言葉はいつだって、私の中に反響して目を向けるべきものを引きずり出す。


「…越前からしたら私なんて一生“まだまだ”だよ」


冗談のつもりだったのに、すっかり昔話に足を取られ、自分の口から出た嫌味な声に頭が痛くなる。ジャズに溶けていったその声を誤魔化すように「その辺のOLの思考がスター選手と釣り合うとでも思ってるの?」と笑ってみれば、越前も軽く笑った。その笑みはあからさまに呆れを含んでおり、「本当に変わんないね」と呟かれた言葉と合わせて意味が理解出来ない。
返す言葉に詰まった私へと、越前は再び口を開いた。


「『私は越前と釣り合わないから、友達やめる』」


一瞬なんのことかわからなかった。けれど遅れて脳が咀嚼すれば、覚えのある台詞だった。
中学3年になって、1週間くらいだっただろうか。露骨に越前を避け始めた私を変に思った友人に「あんたいきなりどうしちゃったわけ?」と問い詰められ、先の台詞を返して逃れたのだ。でもそれは放課後の教室、その友人と2人きり、で。


「…なんで、それ…」

「言っとくけど、盗み聞きしたわけじゃないから。たまたま小坂田と話してるの、聞いただけ。…それからずっと意味考えてたけど全然わかんなくて、でも苗字に避けられるし、結構ショックだったんだよね」

「…本当はずっと、そのこと謝りたかったの。あの時いきなり避けてごめん」

「別に謝んなくていいよ。昔のことじゃん」


あの頃は子供だったから、という言い訳では後ろめたさは消えてくれなかった。それが越前の軽い調子で返されたたった一言に、13年引きずった罪悪感がゆっくりと溶けていくようで。なんだか泣きたい気分になりながら、ありがとうと言葉を返す。それに対して返答はなく、ただこちらに見せたしたり顔はすごく越前らしいものだと思った。そしてその顔のまま「でもこの歳になって漸くわかったんだよね」と私をつつき始める。
釣り合わない、つまり釣り合いたいと同義で。そう、大人になって考えれば、簡単な話だ。


「あの時苗字さ、」


俺のこと好きだったんでしょ。
悪戯に光る瞳に、応えるようににやりと口角を持ち上げてやる。この年になって、そう易々とからかわれてやるもんか。


「今頃気付いたの?王子様も鈍感ね」

「それはお互い様」

「なんで」

「俺だって好きだったんだけど。気付いてなかったでしょ」

「えっ…」


衝撃の事実に思わず瞠目する。越前は半分ほどになったグラスに触れ、懐かしむように笑っていた。その見たことのない表情に心臓の生み出す拍はどくどくと速さを増し、それでいて不快さを消していて―――動揺が走った。
まさか…まさか、どこか心の隅で、まだ持ち込んでいるのだろうか。手を伸ばせばいくらでも触れられる距離にいたあの頃に、自ら捨てたはずの想いを。…そんなの笑えない冗談だ。10年以上も前の話、中学という不安定な時期に好きだと思い込んだ相手。真横に座ってるこの男は、とっくに手の届かぬ存在だと言うのに。きっとお酒のせいで、そんな昔の感情を今のもののように錯覚するんだ。

20代も後半、もう不毛な恋をしている時間は惜しい。同じ不毛さならあの頃体験しておけば良かった、なんて今更過ぎる後悔だ。
越前から視線を外して、彼よりも少くない自分のグラスを見詰めた。私の気をよそに、「驚いた?」なんて子供みたい楽しげな越前の声には、とんだ笑い話ね、と平静を装って言葉を紡ぐ。


「中学生の恋かも曖昧な想いだろうけど、今頃相手の気持ち知るなんて。あぁでも、映画みたいな思い出、とも言える?こんな偶然に再会したのも合わせてさ。あの越前リョーマと学生時代両片想いだった、なんていい話題のネタにはなるかも。お酒の席にはもってこいじゃない?あ、嫌なら名前は伏せるけどね、某有名スポーツ選手とかって」


動揺を掻き消すように開く口から俗っぽい言葉が滑り落ちてくる。越前は特に、こういうの嫌いそう。いや絶対嫌い、と断言出来るくらいには、彼の本質はあの頃と変わってないように思えた。
そう、きっとそのせいもある。あの頃を思い起こさせるから、感情までも呼び起こしてしまうだけ。

せっかくの再会なのに気分を害してしまっただろうかと越前の様子を窺ったけれど、彼はこちらを見据えているだけだった。そう簡単に怒ったりはしない、か。もうあの頃とは違う。でも、「とんだ笑い話の割には随分と動揺してるけど」なんて正面から核心を突いてくるのはやはり変わらないようで。


「苗字が無駄にペラペラ喋る時は、動揺してる時でしょ」


13年経っても図星って。化粧も言葉遣いも人間関係も、ある程度身に付けて来たはずなのに、自分があの頃からちっとも変わってないような気がして嫌になる。ちょっと驚いただけ、と吐き捨てて落とした視線に、越前が入り込んできて軽く仰け反ってしまった。


「な、ちょっと」

「それだけ?」

「…なにが言いたいの」

「俺は久し振りに苗字と会って、やっぱり思うことがあるんだよね。…なんでこの年まで苗字が言った言葉の意味、考えてたかわかんない?」


何を言わんとしているかくらいはわかる。越前までそんな錯覚を起こしているとは思わなくて、苦笑が落ちた。いい大人が昔の想いに足を取られるなんて、2人してなにやってんだか。いや、大人だからこそなのかも知れない。
けれどそんな錯覚に時間を割いてる余裕なんてない。アルコールが消えれば、錯覚も消える。忘れられなかったからだよなんて、そんな真剣な声で言われたって困る話。


「私が急に避けたのが腑に落ちなかっただけでしょ」

「それもある。でも俺、苗字にまだ気があるんだよね。あの時からずっと」

「…あのね、越前と違って諸々のスペックが平凡な私はそろそろ将来を約束出来る人が欲しいの」

「ってことは今フリーなんだ。指輪もしてないし」

「…そうよ。遊びのお付き合いをするなら真剣にパートナーを探したいの」

「遊びで苗字に声かけるほど飢えてないけど」

「…やめて酔っ払い。アルコールで変な錯覚起こさないでよ、昔の話でしょ」

「酔ってるのはそっちだけ。俺は素面」

「はぁ?」


どういう意図があってそんなことを言うのか、今はそんなジョークいらない。越前のアルコール耐性度なんて知らないけれどグラス半分程度で記憶を飛ばすくらいお酒に弱いわけ。と、呆れかかったところでハッとする。至って真面目な越前の様子にまさかと思い、グラスを傾け半分以下になった液体を口に含んだ。
口内を満たしたのは、少し薄まった甘酸っぱい子供騙しの味だった。


「結構飲んでるように見えたから、ノンアルコール」

「…気付かなかった…」

「何飲んでるか判断つかない程だとは思わなかったけどね。…それともずっと他事でも考えてた?」


今度こそため息を吐いた。あんたのせいもあるのよと苦く思いながらも「会社のことで頭一杯なの」と半分本当、半分嘘を投げやりに呟けば、越前は問いを重ねる。


「明日も仕事?」

「…休みだけど」

「じゃあさ、このあと俺に付き合ってよ。これで別れるなんてやなんだよね。避けられて、追うのもやめて、でもまだどこかで引きずってる。苗字見て、確信した」

「…付き合うって、どこに」

「どこでも。苗字の行き付けの店でもいいし…あ、映画とかでも」

「なにそれ、デートみたい」

「デートじゃん。とりあえずそれでいいから」


一時の恋人ごっこにしても相手が悪すぎる。いや勿論私からすれば、これ以上ない男だ。この容姿、ついでに話題性かつ子供の頃とは言え昔好きだった、今はまだ好きかもなんて錯覚している相手だ。一時的な充足感ならこれ以上ないくらい満たせるだろう。だけど越前の錯覚が消えて、万が一私の錯覚はそのままで充足感の中毒に陥ったらどうしてくれるんだ。アイドルにガチで恋してられるような年じゃない。そもそも越前だって、この前の大会優勝で、その活躍に沸いてるこの日本で遊んでる場合じゃないだろう。


「…これは万が一の話だけど、錯覚が錯覚のままっだったらどうしてくれるのよ?せっかく友人と和解できたのにその友人言い寄られた挙げ句捨てられた、なんて変な記憶に上書きしたくないんだけど」

「なんだ、錯覚してるのは苗字の方?」


あぁもう、墓穴掘った。失態を隠すのも面倒で、舌打ちながらそのまま項垂れれば、越前の笑い声が耳に入り込む。


「ねぇ、苗字。錯覚でもいいよ」

「私がよくない。不毛な恋は嫌」

「俺に対して構えすぎじゃない?中学の時もそうだろうけど、俺が苗字のこと好きにならないこと前提じゃん」

「……だって、越前が私の方向くなんて考えられない。昔も、…今も。今日はちょっと神経高ぶってるだけだよ、久し振りに会ったから」

「俺、苗字の方向いてるけど」

「…あぁ、もう…!」


こうなったら越前は引かない。そういう所は変わらずで、とうとう私が痺れを切らした。スマホを鞄に放り投げてからバーテンダーを目で呼んでお会計を頼む。鞄のサイドポケットに突っ込んでいたチラシを抜き取り、こちらを向くその大きな瞳と目を合わせて啖呵を切った。


「ここの支払い、全部奢ってくれたら錯覚でもなんでも乗っかる。このあとのデートも全部越前持ちでね」


人前では少し憚られるようなこんな台詞も、越前と2人っきりの気分でいさせてくれる空気感のバーテンダーは流石だと思った。結構良いの飲んだけど大丈夫?なんて挑発するように付け足した言葉も、私の何倍稼いでいるか知れないこの男には意味もなさないだろう。

別に支払って欲しい訳じゃなかった。なにか明確な理由付けがなければ仕事を辞められない私は、同じく理由がなかければ錯覚だと決め付けた想いに付き合うことも出来ない。越前が私を特別視するなんて思えなくて、しかも後味悪く友情を切った私に13年振りに会ってなお、気があるだなんて。真に受ける方がどうかしてる。だけれど、期待してるのも確かで、その期待が砕かれるのも嫌で。それでも錯覚と嘯くのは、期待を砕かれた時の悲しみから自分の心を守るただの言い訳だ。…保身に走るのは、本当に昔と変わらない。でも…嘯いてでも1歩、彼の方に歩み寄ろうとしているのは、大人になったからだろうか。それとも大人になってしまったから、だろうか。

再び瞬いてから、安い身売りだと呆れながらも笑った越前にはきっと全て筒抜けだ。こういう笑い方をする時は、私の建前や言い訳がバレている時ばかりだったから。



キネマトグラフの主演女優と云うものは。
映画のような思い出と映画のような再会、そして映画のような展開の末路は最後まで辿らなければわからない。幸も不幸も映画には付き物で、ラストシーンはどちらかに二分される。たとえその結末を恐れても、主人公が足を止めることはない。結末を恐れ傷付くことに用心して留まった足もそれは単なるワンシーンで、いつか必ず、そのフィルムを越えた先へと動き出すのだ。



ありがとうございました。落ち着いたバーテンダーの声に会釈して、カウンターに背を向ける。財布にカードをしまいながら私の手元を覗き込んだ越前は、「それなに?」と首を傾げた。


「見ようと思う映画ならあるの。これチラシ」

「ふーん…昔の洋画じゃん。…苗字にはぴったりだね」

「見たことあるの?」

「ない。でもその主演の子役だった人くらい知ってる。元女優の」

「あぁ、アメリカの人だっけ…越前詳しいの?この人…えっと、」

「Shirley Temple」

「えっ?なんて?」

「…耳大丈夫?」


言語の切り替えが唐突過ぎる。カタカナではない英語で発音するもんだから耳の準備が出来ていなかったせいもあり、音声としてしか認識出来なかった。昔もよくあったことだと思い出しながらも、失礼な越前の言葉にムッとする。そんな私も見て失笑した彼は話題をすり替えた。


「苗字、明日の正午までに返事ちょうだい」

「ノー…だったらどうするの」

「諦めるしかないね。それでも苗字には悪い話じゃないんでしょ?なんなら某有名スポーツ選手と寝た、って話題作ることも出来るよ?」


そんなの話題どころか自慢にしかならない。「自分が日本でアイドル並みの扱われ方してるって知らないの?」と呆れ返りながら、越前のせいで痛くなった頭を支えた。違う、そっちの答えがノーだったらどうするんだって話なのよ。心でぶつけた問いの答えは、明日の午後にはわかること。

頭に置いた手の上から越前の掌が重なって、そのままぐいっ、と頭ごと引き寄せられる。そうして耳に落とし込まれたのは、少し低めの、甘くも強い声だった。


「…錯覚だと思ったこと自体、錯覚だったって言わせてやる」


背筋を走る悪寒にも似た、興奮のような感覚だけは錯覚ではないと、断言せざるを得ない。そして微かに期待を含むその感覚は、手を引かれるがままに私をバーから1歩、外へ踏み出させた。留まった足が、再び動き出す。


(141224)
主催企画「Liqueur」掲載
シャーリーテンプルというカクテル、用心深いというカクテル言葉がお題でした。カクテル名の由来は冒頭の女優さんのお名前から来ているものらしいですが、名画座で上映があったかは不明。事実とフィクション混ざってます。

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