紺に留まりて染むこゝろ(前)

※幸村人外設定注意



じゃり、と砂浜を踏みしめて遠ざかっていく小舟を振り返った。
鬼ヶ島と呼ばれる物騒な島に、たった一人私を置いて船頭は一目散に逃げる様にして海原へと漕ぎ出していく。水平線にはもう半分程しか太陽が残っていない。直に夜が来る。

私は、桃太郎だ。いやこれは名前ではない。私が課せられた役職の通称だ。
遥か昔から、この鬼ヶ島に住まう鬼は人間に害だとされてきた。歴史書に綴られた、人を喰らう鬼。海を渡り、海に一番近い村の人間を連れ去りその身の糧とする。それが私の住む村に伝わる伝承だった。
しかしそれは紙面上の事実、今はそんな被害は聞かない。だが鬼ヶ島に足を踏み入れた人間の大半は戻ってこない、戻ってきても脱け殻の様に放心して口もきけぬあり様。その事実だけが、鬼の存在を示していた。
昔から村の人々は鬼を殺す事に躍起になっていて、それは今でも続いている。そして鬼に手を下す者を、“桃太郎”と呼ぶのだ。これも歴史書に綴られる、鬼を倒したと言われる英雄の名だ。はたしてその史実は、現実だったのだろうか。鬼の殺傷を引き継ぐ村のお伽噺でしかないように私は思える。その英雄が本当に存在したならば、“桃太郎”が永遠の伝説になりはしても引き継がれる事はなかったはずだ。私がこの島に降り立つ事も、なかったはずだ。


「あの洞窟、かな…」


不安を押し込める様に、毒の塗られた短剣を握りしめた。鬼の住み処とされているそこへ進める足取りは重い。恐怖で手は汗ばみ、取りこぼしそうになる短剣は懐へと忍ばせた。

表では名誉な事だとされる“桃太郎”は、生け贄と同じだ、と裏では囁かれている。村の歴史の中で数多の“桃太郎”が鬼ヶ島へ流されては、女は例外なく戻らず、戻ってきた一部の男は例外なく脱け殻状態。死にに行くような物ではないか、と言われているが“桃太郎”を止めてしまったら鬼が村に現れるのではと言う危惧から続けられていた。
だからこそ、村の誰が“桃太郎”に選ばれるかは決まっているんだ。それは、私のような天涯孤独の行くあてのない十代の少年少女。普通ならば温かな家族がいる。しかし私にはいない。だから苗字もなくて、もっているのは誰がつけたかもわからない名前だけ。私がいなくなったって誰も困らないし悲しまない。名誉な仕事だと選ばれてしまえば、異論を唱えてくれる人が私にはいないのだ。

足場の悪い真っ暗闇の洞窟を転ばないように進んでいく。ひんやりとした空気と時折ゴオッと反響する風の音、そして底の見えない闇。私の冷えた心が強調される様だった。襲ってくる恐怖感が麻痺して全てが孤独感へと姿を変え始める。独り、だ。物心ついた時から私は独りだが、ここは本当に世界から切り取られた様な場所だった。

女の方が損な役職だ、と改めて思った。“桃太郎”に選ばれた対象が男だった場合、渡されるのは大剣で3人の補助が付きチームでの仕事となる。しかし女の場合、戦略は堂々したものから卑怯なものへと変わり、単独での行動を余儀なくされる。

―――鬼に取り入り寝首を掻け。

懐に仕舞った刃を服の上からそっと触れる。生け贄だと言われても私は死にたくない。鬼の頚を掲げて村に戻れば私は独りではなくなるはずだ。この名誉をもって私は冷たい孤独を征するのだ。そうすれば心も温まるはずなんだ。上手くやってみせる。だがしかし、こんな作戦で本当に大丈夫だろうか。鬼が男だと言う確証もなければ人間の女に興味を示すかも定かではないのに。


「いらっしゃい」

「 」

心臓が止まったかと思った。

思考に気を取られている間にいつしか洞窟の奥、ひらけた場所に私は辿り着いていた。ぼんやりと空間を照らし出している蝋燭が置かれた机。その向こうに、男が一人座っていた。…人間?いや、鬼の容姿については言及されていない。なら彼は。
私達と変わらぬ見目の男を凝視する。同じ様に私を見詰め、下から上へと動いた瞳は彼の感情を読ませない深さがある。


「そうか、今回は女の子か」


口角を上げながら呟かれた言葉にハッとする。前回の“桃太郎”は男だった。それを知ってると言う事は、これが…彼が、鬼。
人間と変わらないではないか。私達と同じ姿…いや、それよりも数段美しい容姿をしている。緩やかに波打つ留紺の髪は燭の光を受け艶やかに光り、作り物の様に整った顔からは気品さえ感じさせる。しなやかだがしっかりとしたその体躯が女でない事を伝えてくる。少なくとも人間の私から見て、とても美しい存在だった。

予期せぬ見目に思わず見蕩れてしまっていた自分に気付き視線を逸らした。ふ、と鬼が笑った気配がした。


「通りで静かな訳だ」

「、?」

「男だと叫びながら来る奴がいるんだよ。己を鼓舞しているんだろうけど、あれここでされると反響してうるさくてね。ところで、君の望みはなんだい?」


一瞬何を問われているかわからなかった。…望み?あぁ、もしかして殺しに来たとかそう言う意味だろうか。
そうだ、呆けていてはいけない。気を引き締めなければ喰われる。容姿は人と変わらぬとも、そう思わせるくらいには彼の穏やかな表情には圧があった。


「私は生け贄です。貴方の為に来ました」


私の言葉に、鬼は目を見開いた。
何故、驚くのだろう。今までの女の子達だって作戦上、主旨は同じはずだ。…そう言えばこの空間には彼しかいない。囚われていないのなら戻ってきていない“桃太郎”達は一体どうなって――…。それ以上考えはいけない。予想したら逃げ出してしまう。

目をゆっくりと伏せた鬼は何が可笑しいのか笑い始めた。背筋が凍るのを感じながらその様子を黙って見詰める。程なくして笑いを収めた鬼は、こちらへと歩みを寄せて来た。一歩、二歩、と彼の足音が響く度、私の心臓が嫌な音をたてる。恐怖で竦んだ足はその場で留まる事を強いた。


「生け贄、ね」


ピタリと、彼が足を止めた時にはもう相手の呼吸を感じ取れる程の距離だった。すっ、と伸びてきた長い指。反射的に目を瞑ってしまう。その指は私の喉に触れ、ゆっくりと下へさがって行き胸の辺りを小さく撫でた。また鬼が笑った気配がした。その気が、あるのかもしれない。


「じゃあ名前を聞こうかな」

「なまえ、です」

「なまえね。苗字は…」

「…私は、持ってなくて」

「あぁ、皆孤児だったね。まぁ名前があればいらないけどね」

「いらない…?」

「そうだろう?あっても構わないけど無くても構わない」


鬼の価値観だろうか。少なくとも私の村では、苗字は生きてくための居場所を確保する必須要素だというのに。村で人間にも肯定されてない私が、鬼に自分を肯定されているようで少し戸惑った。


「でも俺には一応あるよ。幸村精市と言うんだ」


鬼は―――幸村は私に名乗りながら笑い掛けた。その笑みと先程の戸惑いが私の緊張感を融かしに掛かるようで頭を振った。気を抜く訳にはいかないのに。

とりあえず、人間の女でも大丈夫なようだ。会った直ぐに彼の胃の中、と言う展開は免れた。一筋の光りを見出だしながら、誘われるまま椅子へと座った。

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