彼と云う、傘下にて。

自宅方面へと向かう電車の窓からグレーの空を眺め、雲行きの怪しさに一抹の不安を抱いた。でもまだ雨は降り出していなくて、降りるべき自宅の最寄り駅まではあと2駅。駅から自宅までは徒歩10分。うん、これくらいなら持つかもしれない。…と言う適当な読みは見当はずれだった。次の停車駅を知らせるアナウンスが入ったあたりで窓に水滴が伝い始め、電車を降り改札を出た頃には、もう。


「……傘ないのに…」


アスファルトに打ち付ける冷たい雨。夏場ならずぶ濡れになることだけを覚悟すればいいのだけど、さすがに12月も間近になると家までの距離を雨に打たれる勇気はなかった。しかし止みそうもない。諦めて母親に連絡を取ろうと携帯を取り出して、考える。あれ、今日ってパートの日だっけ?


「なまえ」


電話を掛ける手を止めた一瞬に、聞きなれた声が私の名前を呼んだ。その声は前方からだったにも関わらず、反射的に改札口を振り返ってしまう。苦笑にも似た笑いが、聞こえる。


「ふっ…どうして後ろを向くんだい?こっちだよ、なまえ」


第二声に正面へと顔を戻せば、大きな傘を差し笑いながら立っていたのは精市。おかえり。雨音を押し退けて、柔らかく通る声が鼓膜を揺らす。


「…ただいま。私より早いなんて珍しいね。部活は?」

「これでも引退してるんだよ」

「しょっちゅう顔出してるくせに」

「まあね。…ふふっ、それにしても今のなまえはシュールだったよ」

「……」


彼氏にシュールだと言われてる彼女の図、の方がよっぽどシュールな気がするけど。そんなことを心で呟くも精市は笑いを引きずっている。…全く失礼しちゃう、根拠のある動作だったのに。精市とは通っている学校は違うものの、電車通学なのは同じ。けれど帰宅部の私とテニス部、しかも部長を務めていた精市と時間が合うことは殆どなく。引退したとはいえ、実力ゆえに部活動から解放してもらえず後輩指導に忙しいようで、そんな流れから私より帰宅が遅いという固定概念があったのだから。


「だって…改札から出てきのたかと思ったの」

「はは、後ろへ回るべきだったかな」

「……もう。」


そりゃあ、正面から呼びかけたのに相手が後ろ向いたら可笑しいだろうけども。でも笑い過ぎ、と精市の肩を軽く押したところで、彼の軽装に気が留まった。上下は制服のまま。しかし鞄は持っておらず、見受けられる分に装備は今さしているこうもり傘のみだった。お出掛けという雰囲気でもなく、誰かを迎えに来たという様子でもない。となると。


「コンビニ?」

「え。何だい?急に」

「あれ、違うんだ。じゃあ誰かのお迎え?」


他に思い付くことがなくてそう問えば、キョトンとしていた精市はすっと目を細めた。もう3年の付き合いなのに、彼の優しげな笑みは今でも私の心臓を鳴らすには充分なものだと思う。


「そうだよ。迎えに来たんだ」

「、わっ…!」


言うが早いか、精市は私を雨空の下へと引っぱり出した。天から落ちる雫に当たったのは、わずか数秒。引き寄せられるがままに、肩がぴったり触れるくらい彼へと体を寄せれば、2人分の体と、ついでに私の鞄までもが大きな傘の下へと収まった。…もしかしたら、彼の左肩が濡れているのかもしれない。


「さ、帰るよ」

「…うんっ」


1歩踏み出す精市に遅れを取らないよう歩き出す。誰を迎えに来たのか、なんてもう愚問でしかない。緩む頬を隠しもせず、斜め上にある端正な顔に笑いかければ、思った以上の近さに少しどぎまぎした。


「精市、」

「…ん?」

「ありがと」

「どういたしまして」

「でもよくわかったね。私が傘ないこと」

「なまえの事でわからないことなんて、俺にはないよ」


…そんな適当のこと言って。口ではそう返したものの、いやに真剣味を含む声音に内心色んな意味でどきりとした。ふふ、と笑う精市には、私のそんな感情反応はお見通しなのだろうけれど。


「本当はね、玄関先でなまえのお母さんに会ったんだよ。空見上げてたから、『降りそうですね』って言ったら、」

「…私が傘持ってないって?」

「そう。だから雨が降って来たら迎えに行こうと思って待ってたんだ」

「そっか、助かっちゃった」

「ふふ、それはどうだろう」


傘を少し後ろへ傾けて、精市は小さく雨空を仰いだ。俺の念で降って来たのかもしれないよ、と口元を緩めてから私へと視線を移した彼にわざとらしく眉をひそめてみせる。


「えー何それ迷惑」


私の見当が外れたのは精市のせいかも。そう笑っていれば、傘を持つ精市の手が頭にこつりと当たった。
妙にわざとらしい触れるような当たり具合に、見上げるように彼へと顔を向ける。そうすれば思った以上の近さ…はさっきも感じたのだけれど、それ以上の距離だった。原因は、精市が私の顔を覗き込むようにしているからであるのだけども、一体。


「な、なに…」

「本当にこの雨が迷惑かい?」

「え…?」

「久しぶりだろ。こうして一緒に歩くの」

「…?うん、久しぶりだよね。帰りとか時間合わせるの難しいし…」


そっか。そう考えると、この雨は歓迎すべきものだったのかもしれない。
精市と共有する時間は…これは比喩でしかないけれど、とっても甘いものなのだ。その甘さに幸せを感じる私にとって、彼が迎えに来てくれるという事象を引き起こしたこの雨を邪険にするのは、正しくないようだ。
私が迷惑だと笑ったのは、正しくは雨よ降れ的な誰かさんの念だったのだけれど、雨を歓迎してしまったのでそれ以上にその念は自動的に迎え入れられてしまうのだろう。


「そういう意味で言うなら、迷惑じゃないかも」

「ふふ、なら良いよ」


“そういう意味”で通じている辺り、同じことを考えていてくれているんだ。甘いという感覚が共通でなくとも時間を共有したいと思ってくれている、なんて。そんな普段考えないような事を思考させるのは、傘の下というこの空間にもいくらか起因しているのだと思う。周りの雑踏も遠のいて景色すらぼやけて見えるような、現実世界から切り離されているような錯覚を起こすくらいには、不思議な空間だった。この、1本の傘の下というものは。


「迎えに来た甲斐があった」

「うん?」

「なまえが嬉しそうだから」


そう言って精市が笑うから、くすぐったくなって視線を逸らした。きっといつもより幾分か早い鼓動もこの空間のせいだと思い込みながら、ぼんやりと空間を作り出している原因を見上げる。そうすれば何とも言えないくすぐったさが、ぽつりと浮き上がった疑問へとすり変わった。さっきも思った小さな疑問。


「…そう言えば、なんで傘1本なの?」

「簡単な話だよ」


そう応えながらゆっくりと、精市が歩みを止める。それに従って同じように私も立ち止まった。そうしなければ、雨に濡れてしまう。


「俺が傘を差していて、なまえも傘を差すとする」

「うん」

「そうしたらこの距離は難しいし、」


精市の笑みというものは、実に種類が豊富である。彼にとってのポーカーフェイスとも言える微笑を始め、さっき見せてくれたような柔らかく優しげな笑み、かと思えば子供のように笑ったりもするし、いたずらな意地の悪い笑みもする。そして中でも私の心を乱すのは、いたずらかつ優しげで、それでいてどこか真剣味を帯びる笑い方。正に今、精市の表情を彩っている、そのものである。

傘を持たない方の彼の手が、熱を奪うかのように私の頬を掠めた。そしてまた、小さく口角を上げるのだ。


「こういうことも出来ないだろ?」


なめらかに縮まる距離。
そんな風に笑いかけられると、途端に思考が上手く回らなくなる。総じて艶っぽさが窺えて、その上普段より男性的な空気感に流されてしまいそうになってしまう。


「ま…待って精市、」


けれども忘れてはいけないのは、ここが道ばたであるということだ。幾分か歩いてきたので住宅街に差し掛かっているとはいえ、人通りが全くないわけではないのだ。人の気配に自然と足を1歩引いてみたけど、精市に腕を掴まれそれ以上距離は開かなかった。


「濡れるよ、雨」

「わかってる、けど…」

「うん」

「…ほら人もいるし」

「傘で見えないよ」

「そういう問題じゃ、」


それ以降の制止を求める言葉は、彼の形の良い唇に食べられてしまった。



彼と云う、傘下にて。
「…私の意見無視したね」
「色々も文句言いながらもちゃんと目閉じてくれるなまえが大好きだよ」
「………」
そうして再び距離を詰められれば、私はまた、瞼を下ろしてしまうのだ。






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50000hit追記にてひっそりフリリク1/2|泡子様

リクエストに沿って書くのは初めてでした。沿えていた…かどうかはかなり怪しいですが、とにかく大変お待たせ致しました…遅くなりすみません。お時間を頂いたわりにこんな仕上がりでなのですが…いかがでしたでしょうか?
幸村さんの行動に甘さを詰め込んだつもりでした。意外と彼は言葉での愛情表現は少ないんじゃないかなあ、と。でもふとした瞬間瞬間に彼女さんに思いを馳せているのではないでしょうか(笑)察して下さい的な内容になってしまっていますが、少しでも楽しんで頂けていれば幸いです…!リクエストありがとうございました!

13.12.22 迅樹


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