俺はあの看護婦の部屋から急いで逃げた。
奴らは俺の部屋に行くと言っていたので、適当にトイレで時間を潰す。そして一時間以上経った後、俺は部屋に戻ることに決めた。
廊下の角から部屋のある方を覗く。…幸い、あの看護婦もグレゴリーもいないようだ。…だが、油断は出来ない。
あんな馬鹿でかい注射器で採血されてみろ。…一瞬であの世行きだ。
「お兄ちゃんだーれ?」
「!!」
突然聞こえた無邪気な子供の声に慌てて振り返ると、そこにいたのは…
「グ、グレゴリーさん…?」
「ボクはおじいちゃんじゃないよ」
「お、おじいちゃん…」
ということは、このネズミは(こいつもグレゴリーと同様、普通のネズミの大きさじゃない)このホテルの支配人、グレゴリーの孫か。…結婚、していたんだな。
確かに、グレゴリーと似てはいるが老けてはいない。それに、グレゴリーと違うのは瞳の輝きだ。…だけど子供らしい無邪気な笑みの中に、少しだけ狂気も感じられる。
「なぁに?そんなトコで何してんの?どうかした?」
「いや…」
「あっ!分かった!部屋の中に誰かいないか見てくれば良いんでしょ?」
「え「ちょっと待ってて!」
俺が引きとめるまもなく、グレゴリーの孫は笑いながら俺の部屋の扉を開いた。そして表情を変えずに部屋の中を見て、それから閉めた。
そしてトテトテと俺のいるほうへ帰ってくる。
「誰もいなかったよー、お兄ちゃん」
「そ、そうか…」
「そうそう!大丈夫大丈夫!」
グレゴリーの孫は目を細めて笑うと、俺の背中を押してきた。
そしていつの間にやら部屋の前まで連れて来られていた。…まあ、この子の言う通りなら誰もいないのだろう。
そう思い、扉を開いた…ら
「ん?」
グレゴリーの間抜けた声が、部屋の中から聞こえた。見ると、案の定…グレゴリーがこちらを振り返っていた。そしてその傍らに立つのは…
「っ!!」
注射器を持った巨大なトカゲ。…そう、あのヘマトフィリアの看護婦…キャサリンだった。
すると後ろで大きな笑い声が響く。
「なぁぁああ〜んてね!うっそぉお!うへっ」
「っ、お前!」
俺に向けて舌を出す孫に何か言ってやろうと振り返ると、右手をガシリと掴まれた。
ぬめりとした感触にゾワリと何かが背中を這う。…恐る恐る自分の右手に視線をやると、ピンクの大きな手が俺の手を掴んでいた。
「あなたね、新しいお客は。さっ、採血しましょ?」
「お客様、ご遠慮なさらずに。血液検査は当ホテルのサービスでございます、ヒヒヒヒ…」
「っ…!」
マズい。これは本当にマズい。
グレゴリーが俺の後ろにサッと周りこみ、逃げることも出来なくなってしまった今、俺はあのキラリと光る注射器の餌食になるしかないのか…?
どうすることも出来ずにぎゅっと目を瞑っていると、楽しそうな笑い声が響いた。
「かぁーっこいいー!ボクにも貸して!あははっ、あはははっ!」
「きゃあ!」
恐る恐る目を開けると、グレゴリーの孫がキャサリンから注射器を奪っていた。
そしてそれを床に突き刺して遊んでいる…。
「こぉら、ジェームス。おばさんにそれを返してちょうだい?おもちゃじゃないのよぉ?」
「いやーだよぉーだ!いひひっ、あはっ!…あ」
床に刺さっていた注射器を抜こうとしていた孫…、ジェームスが気の抜けた声を発したと同時に宙に舞う巨大注射器。落下地点は…
「アウチッ!」
「う、わ…」
グレゴリーの頭に突き刺さっていた。グレゴリーは頭に突き刺さった注射器を見て混乱しているようだった。
すると、キャサリンの息遣いが荒くなる。…ま、まさか…
「はぁあん、もう我慢できないわぁあああ!」
「止めなさいキャサリン!わたくしから血を抜いてどうするのだ!」
「許してぇえ、もう止められないのよぉお、はぁあん、堪らないわぁああ、この感覚〜っ」
ぢゅるぢゅる血を抜かれていくグレゴリー、興奮したキャサリンの声、いつの間にか逃げているジェームス。
俺が動けないでいると、後ろから腕を引っ張られた。
「っ!だ、誰だ!」
「私だよ霧野くん、大丈夫だから。今のうちに逃げましょう」
「名前さん…!」
「とりあえず…、……あの部屋に逃げましょうか」
俺の手を掴み、名前さんは廊下をかけていく。
そして逃げ込んだのは、一つの部屋だった。何故か天上にはレールがあったが、それ以外は普通の広い部屋…といった感じか。
「ここは…」
「ああ、気にしないで。ここが一番安全っていうだけだから」
名前さんはそう言うと、俺の手を掴んでいた手を離した。
…今更、だけど…名前さんの手、また冷たかったな。
20120306