グレゴリーの気味の悪い笑いから逃れるように自分の部屋に逃げ込んだら、名前さんが椅子に座っていた。…よかった、無事だったんだ…。
俺が名前さんに声をかけると、彼女は少しだけ悲しそうに笑った。それはとても儚い笑みで、俺の心に重い何かが落ちた。……どうしたというんだ、俺は…。疲れて、いるのか…?


「霧野くん、さっきはありがとう」
「い、いや…大丈夫。それより名前さん、怪我はないですか?」
「私は大丈夫だよ」


俺は名前さんの反対側にある自分のベッドに腰掛けると、深いため息をついた。
…逃げられない。逃げられない…。ここから、逃げられない。
ネコゾンビの言っていた「ここに来た理由」が分からないと、逃げられないのか…?

…此処に来た、理由。
何かが、引っかかる…。テレビフィッシュを見た後、そして記憶の片隅にある、もやもやしたモノ。これは、いったい何なのだろうか。
…思い出したら、いけない気もする。そして目の前にいる名前さん。彼女と一緒にいると、何故かこんな場所にいるのに心地の良さを感じるんだ。

…なんで、俺は、ここに来たのだろうか。



「霧野くん、さっきのは干からびた死体よ。骨がもろくなっているから、まともに外に出られないの。…だから、このホテルを逃げようとした人を殺して、成りかわるの。他にも、たくさんの住人たちがウロウロしている…。やつらがいるかぎり此処から「逃げる」ことはできないわ」
「…ネコゾンビが、言っていました。ここに来た理由が分からないと、逃げることはできない、と…」
「……私は見てきた。この場所に来て、逃げようと頑張って、でも逃げることが出来なくて、結局住人になってしまった人間たちを…」
「……名前さんも、そう、なんですか…?」
「…私は、ちょっと違う…かな」
「違う…?」
「……霧野くんには、逃げてほしいの」
「…え」
「霧野くんには、雷門のみんながいるから、みんな、待ってるから。だから、此処から逃げてほしいの」
「名前…さん?」
「思い出しなさい」



まばゆい、光に包まれた。
俺の脳裏に浮かぶ、2つの影。
揺れるおさげは俺のもの…じゃあ、俺の横で笑っている、あの子は誰だ…?





「っ!!」


ぎゅっと、心臓を掴まれたような、そんな痛みが襲った。
目の前に光はなくて、いつもの、蝋燭の揺れる薄暗い部屋に、俺は戻ってきていた。

目の前にいたはずの名前さんは、いなくなっていた。



ジ、ジジ、ジジジ…廊下から、電子音が響いてきた。この音には、聞き覚えがある。
俺が急いでドアを開けると、やはりそこには、青白く光る、巨大な魚…テレビフィッシュがいた。



『蘭丸…らん、まる』
「!!」


テレビフィッシュから、女の子の声が聞こえる。…俺は、この声を知っている。…この、声は…
俺が立ち止まっている間に、テレビフィッシュはどんどん廊下を進んでいく。俺はすぐにそれを追いかける。



『ねえ、私ね、幸せだよ。蘭丸と一緒に、こうして手をつなぐことができて、幸せだよ』
『大げさな奴だな』
『だって幸せなんだもん。ねえ、ずっとこうしていられるかな?』
『…ああ、大丈夫さ』



嗚呼、嗚呼…



『好きだよ、蘭丸』
『ああ、俺も好きだ…―――』



テレビフィッシュの目の前を過ぎ、そして振り返る。
そこには、俺と、俺と、俺と……優しく笑う、彼女が映っていた。




「『名前…』」


テレビの中の俺と、今ここにいる俺の声が、彼女を呼んだ。





20120916




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