かぶとむし

 







「なあ、それ……なに?」
「ん、どれや?」

向かいに座った今吉が俺のノートを覗き込んできた。ちげえよ、そっちの、と手に持ったシャープペンで今吉のノートを指す。今吉のノートにはがたがたと定まらない線で怪しい何かが大胆にも1ページをまんべんなく使って描かれていた。中央の何かが人なのは分かる。下の方に描かれているのは多分、花と芝生だな。上の方は太陽と雲。あと、大量のなぞな黒い飛行物体だな。なんだよ、この飛行物体。

「なに、ってなんて説明したらええの?」
「情景を言ってくれ、この絵の」
「せやな〜、夏の日の昼間、カブトムシと戯れる少年やな。弟の絵日記に描いてあったん思い出してな。暇やし俺も真似して描いてみた」
「何がどうすると『暇やし』の一言でそうなる。つーか、それカブトムシなんだな」

蝗害に匹敵するレベルのカブトムシが空を飛んでいることになるな、この絵。どこでこんなもん見たんだよ。お前の弟、盛りすぎだわ。というか、なんで今更夏休みの話してんの。なんで人の絵日記描いてるの。しかも記憶をたどって真似する意味がわからない。カブトムシってそんなに難しくないような気がする。楕円を縦に描いて、ツノ描いて、脚六本生やせばカブトムシに見える筈なんだが……。今吉の描くカブトムシはどこか縦長な五角形で、ツノが短い。なのに脚だけが無駄にリアルで見事な節足っぷりなのである。言われて見ればカブトムシと理解できるが、当てろと言われたらなんだか分からないだろう。

「ワシが絵下手なのは有名やろ。知らんかった?」
「知らんわ。どうして俺が知ってなきゃいけねえの、そんなこと」
「いま、知らんわ、ゆーたな」
「……気のせいだろ。東京の奴でもそんくらい言うだろうが」
「発音がちゃうやろ」
「別にお前につられたとかそういうことじゃないから。クラスにもいるんだよ、方便使うやつ」
「なんや、先読みしなくてもええやん」
「お前が言いそうなことくらい、なんとなく分かるっつーの」
「ワシもなんとなく宮地の言うこと分かるようになったわ」
「なんとなく、ね。いっつもなんでもお見通しって感じだけどな」

問題集に目線を戻す。図形の周りには記号が代理を果たしているだけの穴だらけの式とたくさんの数字が散らばっていた。気を抜くと自分でもそれらが何を指しているのか分からなくなってしまう。そんなことなると全部書き直すしかなくなる。それは俺が式を見てすぐに理解できれば問題はないだろうが俺は不器用なのだ。それまでの過程が見えないと理解できたとしても落ち着かない。ゼロからひとつひとつ求めるしかない。まあ一度できたことが出来なくなっていることはないから、計算ミスにさえ気をつければ大した時間もかけずに今と同じ状態に戻れるだろう。
図形に思い切り消しゴムをかけた。ものの数秒でそれはゼロになる。なんかもったいないなぁ、と未だにカブトムシをノート中に生産している糸目野郎がなんの興味もなさそうに呟いていたが放っておく。

「ワシな、絵下手なのは主観的に見ても流石に分かるんけどな、それでもな下手とか言われるとちぃっとばかしむかつくんな」
「? え、ああ、おう……なんか、わりい」

今吉がカブトムシ生産の手を一度止めて俺をまっすぐ見た。と、思ったらきょろきょろと周囲を見渡すようにして再び俺に視線を固定する。なんだこいつ。
ここは図書館だが、平日の真昼間だし駅からかなり離れているせいかすごく空いていて席の確保もなにもなかった。俺たち以外に勉強している人間もいない。数人、新聞を読んでるおじさんがカウンターの前の席に陣取っているくらいだろう。いくつもの書架に阻まれて確認することはできないが。そのおかげで、俺たちはこんな風に話しながらやっていても咎められないのだった。

「ワシの方がキスやったら上手いと思わへん?」

は、何言って、と言葉は途中で消えた。日当たりのいい席なはずなのに、影がさした。一瞬にして暗くなった視界。まぶたの上に仄かな熱を感じる。思わず伏せたまぶたの先のまつげに何が掠った。
唇の表面を薙ぐように触れて、消える。すぐ後に訪れるひんやり感と湿気。突然、明るくなったせいで目がちかちかとした。目の前の、イヤミっぽい笑顔も見えなかった。見なくたって分かる。どうせ笑っているのだ。それも酷く楽しそうに。光に視界が慣れた頃には唇は何事もなかったかのように乾いていた。

「もうちょっと驚くところ見たかったんやけどな」
「もう慣れた。つーか、それキスじゃなくね」
「清志くんはキスして欲しいん?」
「欲しいって言ったらしてくれるわけ」
「ちょっと待って。考えるわ」
「即答しろよ、そこは」

唇を指で撫でる。いまよし、呼べば笑ってるのかなんなのか判断しづらい表情が俺を見る。

「間接キス(今吉と今吉が)」

自分にしたように今吉の唇を撫でた。ささやかな仕返しだ。





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