あまもり

 









花宮さん、赤司は花宮を呼び止めた。聞こえなかったとしらが切れるほど辺りが騒がしいわけではなく、むしろ赤司の声は何に遮られることもなく空間に響いた。二人の他に誰の姿も見ることができない廊下はしんと静まり返っていた。足を止めざるを得なくなった花宮は聞こえよがしに舌打ちをして振り返った。

「なんだよ」

赤司は少しだけ眉を寄せ口角を上げ、困ったような呆れたような、そんな笑みを浮かべていた。例え赤司が満面の笑みであろうとも、はたまた能面のような無表情であったとしても花宮が赤司を嫌悪しているという事実は変わらない。

「どうも宿舎内で雨漏りをする箇所があるようです。霧崎第一の皆さんの部屋は大丈夫ですか」
「ああ、平気だよ」
「もし、雨漏りしているようでしたら僕か管理さんのところへお願いします」
「ああ」

要件はそれだけだろうと判断し、さっさと踵を返す。赤司は「嫌い」だ。
花宮とって人間は「嫌い」「その他」に分類される。「嫌い」の中の幅が花宮なりの好意も含むことは察して欲しい。キセキの世代は「その他」だった。興味がない。あえて言うのならクズさの溢れ出るガキっぽい試合には好感を持っていた、それくらいだった。実力の伴う無邪気さとそれ故の理不尽さ。キセキの世代個人には一切の興味は持っていない。そこに個人がある意味を感じなかった。あれは揃うことによってキセキの世代であり、価値を持ち、初めて花宮の視界へと映る。
そこへ個人として花宮の視界へ割り込んできたのが赤司征十郎だった。

「花宮さん」
「……まだ何かあるのかよ」

もう振り返る必要もないだろう。ここにいてはいけない。ここで赤司に顔を見せてしまえばあっさりと流されてしまうだろうことは考えるまでもなく想像がついた。

「いえ、特には」
「じゃあ」

待ってください、しっかりと腕を掴まれる。まくったジャージのせいで素肌に赤司の手が触れる。ひんやりと冷たく乾いていた。この手を振り解くことは容易い。しかし、それを行ったところで何も状況は変わらないだろう。花宮が赤司に「嫌い」だと告げた瞬間から何も変わらない。その言葉は赤司の勝利を示し、花宮の敗北を示す。

「逃げないんですか」
「逃すつもりなんてないくせによく言う」

お前の手のひらで踊るつもりはない、そう返そうとして口を噤む。手遅れだろう。言ってしまえば尚なめられるだけだ。ああ、困った困った。自分自身の愚かさに反吐が出そうだ。こんなチートにどうやって抗えばいいというのだ。どうして俺だった。抵抗するから執着するというのなら、素直にその手の上で踊ってやろう。そして飽きればいい。なんの価値もない、そこらのゴミのように視界にも入らなくなってあげよう。お前の上で啼いてよがって求めれば開放されるというのならいくらでも。

「逃げて欲しいんだろ。逃げねえよ、バァカ」
「へえ。僕にだってひねくれているところはあるんですよ。割と」
「割と、ね」

嫌味か、と呟くと赤司が鼻で笑っているのを感じた。無駄に整った顔を微かに歪ませているのが目に浮かぶ。ふっ、とそんな吐息が耳元で聞こえ、その瞬間、強い力が腕から伝わりぐらりと体が傾く。バランスを取ろうとたたらを踏めば真正面は赤司の笑顔だった。

「いいえ。ただの事実ですよ」

下からじぃっと見つめてくる双眸の僅かな色彩の差から目が離せなくなっていた。流れる沈黙。肌寒い空気が漂っていた。冷気に包まれる左腕と、赤司の手によって冷気が遮られている右腕と。
行きましょうか、目の前の花宮が聞こえるか聞こえないかというあまりに小さな声で赤司はそう言った。嘘臭い笑顔に頷くこともなくただ腕を引かれるままついて行くだけだった。



「随分と準備がいいんだな」
「……まあ、この宿舎を手配したのは僕ですしね」

誰も使っていないはずの部屋をあっさりと開けた赤司の手にはマスターキーがあった。しかし空室だと思ったのに入って見たらところどころに私物が置いてあった。グレーのジャケットと黒いネクタイを見つけた。ベッドカバーや枕は若干乱れ、この部屋は誰かが使っている部屋、多分赤司が使っているのだと知る。周りが大部屋を各校二部屋しか割り与えられていないなか、赤司が一人部屋を利用していることに不満などもちろんなく、むしろ納得した。そして、とてもどうでもいい。

「お前はここの部屋を使ってるのか?」
「え? ああ、はい」
「ふうん。俺なんか入れると思わなかったよ」
「そう言われてみればそうかもしれませんね。普段だったら誰も入れませんよ」

腕が離れると、熱が消えどことなく寒かった。ベッドの上に腰かければあっさり押し倒される。ぼふり、と抵抗もしないまま花宮はホテルのベッド特有の大きく重い枕に倒れ込んだ。赤司のシトラスともベルガモットとも取れないような爽やかな匂いと薄い汗の匂いが混ざったものが鼻腔をくすぐった。そういえば、靴を脱いでいないのだが。気になってしまい足に目を遣れば、赤司が律儀だなぁと苦笑いしながら花宮のスニーカーをそっと脱がす。花宮に覆い被さるようにした赤司は花宮の前髪を分け、露わになった額に口づけた。口づけは額から瞼、鼻先へ。両方の頬通り首筋へ。こんな時にどういう表情をしていいのか分からず花宮は、目をつむることにした。いっそ眠ってしまおうか。練習で疲れさせられた体は軽いとは言い難く、柔らかいベッドに嫌いじゃない匂いに包まれている。近い体温に安心感抱いてしまっていることも事実で、俺は何を考えているんだ、ぎゅうっと強く瞼に力を込めて思考を振り払う。どうかしましたか?すぐ真横で囁かれる声にぞくりと背筋に悪寒が走る。色っぽいはずの赤司の声に何を感じるでもなく、ただ本能的に恐怖を感じた。こんな至近距離では普段隠し通せているものも丸見えだろう。ましてや相手はあの赤司である。終始、苦笑崩さない赤司に花宮も笑顔を返す。めい一杯の自嘲込めた笑みを。腕を伸ばし赤司のジャージのボタンを外しにかかる。

「脱がせたい?」
「どちらかと言えば脱がして欲しいですかね?」
「ほざけ。いいよ、脱がしてやるよ」
「お得意のばぁか、はないんですか?」
「ねえよ」

ジャージの袖から白く細いのに硬いほどに筋肉のついた腕を抜き出す。抜け殻となった水色と白のジャージはまだ暖かかった。白いTシャツの上から筋肉をなぞってみたりしても赤司ただ笑うばかりで面白くない。いっそさっさと脱がしてしまおうとそのTシャツの裾に手を掛ける。

「っ……?」

突然、赤司の肩がびくりと大きく跳ねた。花宮はきょとんと赤司の驚いた表情に見入る。うなじを押さえている赤司やはり困ったような苦笑を浮かべた。

「雨漏り……してるみたいです」

薄いカーテンが閉められていて外の様子は見えないが、窓の外からしとしとと雨のとどまることのない静かな騒音が聞こえていた。










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