ぺん

 










目の前のつむじを何度押してやろうかと思ったことか。黄瀬はブラインドの隙間から光を反射して、鏡と成り代わるガラスの奥を見る。道路を自動車はバイクが走っていく。ぼんやりとずれてきた焦点に自動車ヘッドライトが光線のように見えた。
「30分でいい。最初はなにもしなくてもいいから、とにかく机に向かえるようになれ」
教師が黄瀬と青峰を含む数人ーー先の中間考査で3教科以上赤点を取った者ーーに対して告げた言葉だった。懇願するようで、あまりにも教師たちが可哀想に見えたが、そんな風にさせているのは紛れもなく自分たちなのである。夏休みの補習は、追試に受かれば免除にしてやろう、つまり、夏休みが欲しくば追試に受かれ、とのことだった。放送で呼び出しがかかった時、やっちゃったなぁ、なんて友達と笑っている時に背筋に冷たいものを感じた。気のせいだろう、と呼び出された講義室に行けば「赤司が黄瀬にも覚悟を決めておくように、だってさ。死んだな」と言ってきて、悪寒の理由を知った。追試の合格条件に課題に説教。それらを大人しく受けて遅れて部活に顔を出したら、そこでも主将・赤司からの説教とまさかの追試までの勉強プログラムを発表されてしまった。そのプログラムとはこうである。まず、赤司から課題のプリントが渡される。部活後、家でプリントをやる。翌朝、赤司に提出。部活の前にはそのプリントが返却される。赤ペン先生顔負け(しかし、そこには赤ペン先生のような優しさは微塵もない)の解説付きのバツだらけの真っ赤なプリントである。プリントの間違えた問いの数だけ筋トレ基礎トレが増える、というシステムである。ボールに触れたくば勉強しろ、と赤司は輝かんばかり笑顔でふたりに拳骨を落とした。
教師陣から呼び出しがかかったのが金曜日。一週間後の次の金曜日が追試である。赤司の勉強プログラムは月曜日からスタートした。追試まであと2日。今日は水曜日である。月曜日、火曜日と恐ろしい数のバッテン印をもらい、そして恐ろしい回数の腕立て伏せや腹筋を体験したふたりは今までの経験から家では勉強をすることなどできないとようやっと理解し、学校帰りに図書館で勉強することを決めたのだった。
夜の図書館というのはやけに静かだ。昼間のように子供がいないし、もとより静かな場所である。それにしても物音ひとつ立てようものならば殺されそうなくらい張り詰めた空気が漂っている気がした。何度か桃井ときたことがあるという青峰は、カウンターを通り過ぎ、中央のテーブル群も過ぎる。雑誌や新聞を読んでいる人がたまに目線をあげる。その度にびくりと反応してしまう。書架の間をするすると淀みなく進んでいく。前を歩く青峰が「やっぱり空いてる」と小声で黄瀬に振り返る。こっくり、と頷き返して視線の先を見た。隅に誰もいないテーブルがひとつあった。本当に隅っこにあるらしく、横のブラインドを覗くと紺色の冷たいガラスがそこにあった。

「よしやるか……」
「終わんなかったらどうしよ」
「そこは終わらせんだよ」
「そうスね……」

できるだけ静かに鞄から教科書、ノートにプリントとペンケースを出す。何とはなしにあたりを見回すと、四方が本と壁に囲まれていて、小さな密室に見えた。そして、『ふたりっきり』という言葉が浮かぶ。

「数学キツくね?」
「ほんとにオレ、関数とか無理なんスよ」
「俺もだよ。つーか、関数以外も無理だっつーの」

人目がないからか、小声ではありが、会話がだんだん弾み出した。中学生にもなって恥ずかしい話だが、図書館の空気に完璧に萎縮していた黄瀬もいつものテンションを取り戻す。やるっきゃねえよなぁ、という青峰のぼやきを合図にふたりはプリントに取り掛かった。
本のページをおくる音、新聞紙が鳴る音、たまにカーペットを歩く足音。どこかの壁にかけられた秒針の音さえ聞こえる時がある。計算式を書いては手を止め、消して、を繰り返す青峰を見る。青峰はバスケ以外、集中するまでが長い。それでも、一度集中してしまえばそれはかなり長く続く。黄瀬がどんなに熱い視線を送っていたとしても、もちろん集中が切れることはない。とはいえ、気づいて欲しいとは微塵も思っていなければ、黄瀬は熱い視線を送っているつもりはない。ただ、見ているだけ。もし、青峰が気付いてしまえば見つめることは叶わない。
すらすらと何かを書き込んでいる手をぴたりと止めた。表情はほとんど変わっていないように見えて、わずかに口角をあげていたり、まゆを寄せたりと変化している。よく見てさえいれば分かりやすい。目付きが悪いわけではないはずだが、中学生離れした体躯で睨まれると相当には怖い。口調も決して穏やかなわけではない。その上、表情も硬いとあってはバスケをしてない青峰に怖い、という印象を持つのも仕方が無いことかもしれない。良くも悪くも興味あることにしか心が全く動かない。部活での、バスケをしている青峰を見たことのない人間には青峰が怖い、不良か、と思われることも多いようだ。黄瀬の贔屓目にもはやり、それは納得がいく。黄瀬はバスケをしている青峰と出会い、第一印象は酷く楽しそうにバスケをする人だったので、そんなことは思ったことがなかったが。
難しい問題に当たったのか、どんどん表情が険しくなってくる。右手でペンギン模様のシャープペンシルをくるくると器用に回してたが、それすらを止めて、両手で短い髪をかきむしる。
そこではた、と目が合った。

「何見てんだよ。少しは進んだのかよ」
「まあ、ぼちぼちってとこスかね」
「嘘つけ。さっきから1問も終わってねえぞ」
「うっさいっスよ。あんただって、今詰まってたじゃん」
「問題違うんだから、覗いても意味ねーぞ」
「知ってる。覗いてないし」

小さな傷が多くまでひとつひとつは気になりはしないが、少し離れたところから見ると、黒ずんで見えてしまうベージュのテーブルの上をころころと青峰のシャープペンシルが転がった。つまみ上げて渡す。わりぃ、と青峰が笑ってみせた。

「それ使ってんスね」
「黄瀬使ってなかったか?」
「え、ああ、使ってるっスけど」

黒いボディーにペンギンのイラストが描かれた見るからにお土産という風なシャープペンシル。校外学習で水族館に行った時に桃井の提案で買ったものだった。同じシリーズの柄違いで揃えようということになったのだが、種類数が足りず青峰と黄瀬がペンギン、桃井と黒子がイルカでお揃いとなってしまった。もちろん桃井の画策であり、黄瀬と青峰は被害者である。

「さつきもほんと、テツにベッタリだよな」
「やきもちっスかぁ、青峰っち」
「ちげーよ。どっちかっつーと、早くくっつかないかなって思ってる」
「え、青峰っちもそういうこと考えるんスか?!」
「考えるってほどでもねえけど、あいつらフツーに仲いいじゃん」

シャープペンシルをノックしては出てきた芯を押し込めて。黄瀬とお揃いのシャープペンシルを弄びながら言った。青峰の指先は黒い芯のかすで汚れていく。

「青峰っちは」
「は?」
「あんたは好きなひととかいないんスか?」
「ったく、女子かよ……」

なんでこんな話題振っちゃったかな、オレ。そもそも、このシャープペンシルの話をしたことが間違いだった。どうでもいいようなことを青峰が知っていてくれたのが嬉しくて、そこ終わらせれば良かっただろうに。青峰が黒子と桃井のことを持ち出すものだから乗っかってしまった。

「ちょっと便所行ってくる」
「あ、うん」

黄瀬の心中なぞ、もちろん知るよしもない。青峰は席を立ち、書架の間に消えていく。長いため息が漏れた。目の前には青峰がついさっきまでにぎっていたシャープペンシルがあった。数秒間、見つめる。紺のペンケースのジッパーを開けて、それと全く同じシャープペンシルを取り出した。数回その頭を鳴らすと黒く艶のある芯が出た。振ってみれば、軽い振動と音が伝わってくる。ペンケースから芯入れも出して2本ほどシャープペンシルに押し込んだ。親指で最頂を押しながら、細い金属の筒に吸い込まれていくように短くなっていく。十分に芯が補充された黄瀬のシャープペンシルを青峰のプリントの上に転がす。そして、同じ模様だが、ほんの僅かに黄瀬のそれより軽い青峰のシャープペンシルをペンケースに仕舞った。ジジ、とジッパーを閉めているところに青峰が戻ってきた。まじまじと見つめると、青峰は首をかしげながら黄瀬にデコピンをかましたのだった。


黄瀬がキッチンでチャーハンを炒めていると、ソファーに寝転がっていた青峰が黄瀬を呼んだ。

「なんスかぁ?」
「中2の時に行った水族館覚えてるか?」
「あー。行ったっスね」

キッチンに入ってきて、黄瀬に雑誌のとあるページを示す。なんだ、と目で訴えると青峰は説明を始めた。

「まあ、知らぬ間にあの水族館が潰れて、いつの間にか復活するんだと」
「へえ」
「反応うすくね」
「だって興味ねーもん」

実は水族館が潰れていたことは知っていた。数年前の話だが、桃井がせっかくの黒子とお揃いのシャープペンシルを壊してしまい、もう一度買おうとしていたという経緯をひととおり聞いているからだ。その時に、水族館がもう閉鎖していたことを知った。あのふたりに今更、シャープペンシルごときが必要だとは思えなかったが、桃井にとっては大切な思い出の品らしい。黒子が苦笑して慰めていたのを思い出す。

「黒子っちと桃っちに教えてあげたらいいんじゃないスか?」
「それもそうだな。にしても懐かしいな。俺はまだ持ってるぜ?」
「なにを?」
「お前のシャーペン」
「……気付いてたんスか?」

気付かねーわけねえだろ、と雑誌をまるめて黄瀬の頭を軽くはたく。ぱこ、と間の抜けた音がした。久しぶりに沸き上がるような暑さが顔を支配した。

「顔、真っ赤だぞ」
「誰のせい」
「少なくとも俺のせいじゃない」
「うっさい」

黄瀬の木ベラを動かす手が止まっていたことに気付き青峰は、黄瀬の手の上から自分の手をかぶせて、炒める行為を続行させる。

「ちょ、なにすんの、離せ、あほみね」
「あーはいはい。自業自得だろー?」

青峰は黄瀬の額に髪の上からキスをしてキッチンから出ていった。

「……うっわ、はずかし……」

急いでチャーハンを皿に盛り付けた。パラパラのいつになくできのいいはずのチャーハンはかすかに焦げた味がしていた。




letters:965