あかいろの花といろのピアス

 










「明日は練習でしょ。だから、」
ちゅっと音を立てるだけのキスをする。
首の付け根、鎖骨の少し上のあたりの筋。黄瀬くんが去った後にはそこにだけ、彼がぼくの元にいたことを証明してくれる小さな小さな澱んだ赤色の花が咲いていた。
きみに憧れて、開けた両耳の穴は気が付くとふさがりかけていて、ぼくはいつもぷちり、と一瞬の痛みとともに穴に傷を付ける。
「黒子っちは、ピアスつけないの? 開けてるの知ってるよ」
曖昧に答えた。ぼくが、ぼくの好きなピアスを刺してしまったら、たぶん、この穴はぼくのものになってしまって、君を想った過程がただの過程となり、まさに字の通り過ぎてしまった一瞬に成り下がってしまうから、ぼくはこの穴をまだ、きみのものにしていたいから、つけられない。
待っているのだ。きみのものになれる日を。僕の中では「きみのもの」を君の中でも「きみのもの」になれる、そんな日を。


「これ、あげる。付けるから、こっちおいで」
耳にかかった短い髪をそっとよけて、相変わらず真ん中から治りかけている傷口に冷たいものが触れた気がした。たかだか数ミリの金属の先端の温度なんて感じられるほど、敏感なわけがない。そう、感じただけ。思い込みだ。
つん、と引っかかるのをぼくは感じる。彼も感じたようだ。困ったようにあ、と耳元で柔らかい息とともに振動を吐き出した。頷いて見せれば、ぷつり、とわずかな痛み。ばつの悪そうな彼の顔に興奮した。
「ごめんね。痛かったでしょ」
言いながら、逆の耳に手をかけた。ぷつり。同じ刺激がぼくと彼の手を襲う。
「どうっスか?」
かっこいいです、ぼくは声を絞り出す。
彼の鞄から出てきた折りたたみ式の鏡に映ったぼくはほんの僅かに頬が赤くて、それがものすごく恥ずかしかった。髪で半分隠れた耳の下の方に大きな三角形がぶらさがっている。蛍光の黄色の直角三角形でも二等辺三角形でもなくて、正三角形でもない、ただのばらばらな三角形。首を右へ左へ、傾けると、しゃらり、と音もなく揺れた。
「あっ」
思わず声が漏れた。
「どうかしたんスか?」
首を右へ傾けた時、三角形のひとつの頂点が首筋を撫でた。そこは、何度も何度も彼を示してきた唯一の場所。ぼくにとって大事な価値のあるからだの一部だったのだ。
なんでもないです、と口角を引っ張る。
唐突に、彼の耳を舐めて、齧って引きちぎってやりたくなった。そこに意味はない。ただ、嬉しくてどうしようもなくて、叫んでしまいたいような衝動を押さえ込んでいるから、どこかにぶつけたくて力に変えて外に出したかったのだ。その時、目に入ったのがシルバーのリングが揺れる彼の耳だっただけだろう。
そっと、彼の肩を押して、上からかぶさった。絨毯の上にぼくを抱きしめながら転がる彼は眉を下げて、困った顔をしている。でも、その薄い唇はゆるやかな弧を描いている。苦笑いしているのだ。見えないけれど、きっとそう。
彼の胸元に額を押し付けるため、俯く。まっすぐに向いたままだと息をするのがつらい。上を向いてしまうと彼の表情が見えてしまって、どうしようもない気持ちになるから、下を向く。薄暗くて、シャツの繊維が皮膚に痛い。
「するの?」
つむじの上をぼんやりと熱の塊が通過する。
「いいえ、今日はいいことがあったのでいいです」
「そうスか」
「はい」
全くそのまま動かないで数分が過ぎ、様子を伺うようにそろりと彼の腕が僕の背中に回された。
「ねえ」
「はい」
「こっち向いて?」
彼の声に顔をあげる。なかなか辛い角度。
目が合った。無邪気さをどこへ置いてきたのか、慈しむような憐れむような、複雑な微笑を浮かべて僕を見る。すると、彼の影に入り、景色が一転した。
「いま、よいしょって言いましたよね」
「いや〜、だってここ狭いんスよ」
彼の下に敷かれるが、重くはない。彼が腕を立てて支えてくれているからだ。彼は空いている右手で僕の耳に触れた。つん、とピアスを引っ張られる。一番、外側の軟骨のアーチをゆっくりなぞってから、僕のシャツに手をかけた。
ボタンを三つほど外して、襟をはだけさせる。僕は首をよじって、視界にテーブルの足を捉える。すうっと空気が撫でた首筋に熱が降りてくる。柔らかいくちびるを割って、ちろり、と舌が舐める。さぞかし、紅く艶やかなのだろう。紅く潤った筋肉が通り過ぎた跡は見えないけれど、ひりひりと冷たい透明の道が残っている。例えるなら、かたつむりの通った後の虹色の粘液のような。そんなことを話したら「気持ち悪い」と言われてしまうだろう。首を反らし、存在を主張する喉仏をぐり、と彼の舌が圧迫した。ぼくがつばを飲み下すのを感じたのか、くすりと小さな笑い声をこぼした。
かわいいっスね。
首の付け根、鎖骨の少し上のあたりの筋。予防接種の注射の針が皮膚に突き刺さる瞬間にも似た僅かな痛みが襲う。
「はい、おしまい」
彼が身を起こし、その腕でぼくも起こしてくれる。テーブルとソファーのあまり広くはないスペースで向かい合った。かれは、ぼくの頬に手を伸ばす。手のひら頬に当てながら、節っぽくも細く、どこか中性的な指先でなんでもない普通の三角形を弄ぶ。くすぐったさに思わず、首を傾けてしまう。ぼくの頬と肩に彼の手を挟んでしまった。
「ピアス、うれしかったです」
きみが、ぼくの穴の存在を知っていてくれたことも、まるで女の子に自分の物だとマーキングするようぼくにもピアスをプレゼントしてくれたことも。
「うん。そう言ってもらえるとオレもうれしいっス」
彼が体を前傾させてぼくのくちびるを奪う。音もなく、柔らかく合わせられるくちびるに湿度はない。
「じゃあ、オレ帰るね」
立ち上がり、鞄を肩にかけた。はい、と答えつつ、首を傾ける。
つん。
プラスチックの鋭角が的確に、つつく。熱の跡。澱んだあかいはなの中心を。




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