月なんて見えなくても

 







影山はこのところずっと苛立っているように見えた。本人は、それを理解できていないようだ。バレーボールに関して言えば、あいつほど自分にも他人にも厳しい人間はここにはいない。どれだけ厳しくても、間違ってもいなければ、それを実践し、結果を残してるのは影山本人だ。そんなやつに文句の言いようがない。
決して理不尽ではないのだから。


「待たせた。帰るぞ、国見」
とっくのとうに制服に着替えて、帰る準備もできているオレに対して、目の前の影山はタオル片手にまだ息を荒くしている。体育館から走ってきたのだろう。
部室棟の蛍光灯はどこもかしこもチカチカとしていて、いつ切れてもおかしくなさそうなものばかりだ。そんな視力に悪影響を及ぼしそうな光に首筋の汗を光らせた影山は乱暴に部室のドアを開けた。
「満足できた?」
「あ? ビミョウ」
「ふうん」
「聞いたくせに反応薄いな」
開けっ放しの扉をくぐって、部室の端に置かれたベンチに腰掛けた。まだ九月になったばかり。残暑どころか夏の盛りとなんら変わりない。
練習着のTシャツを脱いで、足元のエナメルに雑に投げた。と、思ったら、身を屈めて、ついさっき投げ捨てたTシャツを引っ張り出した。その下からボトルを出した。いくら暑いといっても、汗だくのまま上半身裸でいたら、体が冷えてしまうだろう。
「さっさと着替えろよ」
「ハイハイ、申し訳ございませんデシター」
「影山、ほんとに日本人?」
「うるせえ! 日本人だよ!!」
わずらわしそうに半袖シャツのボタンを止め始める。こういうところはほんとマメなんだよな。オレなんて、上三つだけ外してって感じだし。
ひとりで居残り練した後の影山は機嫌がいい。相変わらず、本人はその理由を分かってはいない。
「ラストのゲーム、やけに張り切ってたな」
「たまにはやる気出さないと」
「嘘つけ」
「体力が余ってたから」
「じゃあ、自主練付き合えよ」
「お前に付き合うとマイナスになる」
いつの間にか着替え終えていて、影山はドア横にかけられた部室の鍵に指をかけた。返してくるから歩いてろ、とオレに背を向けて玄関とは逆の後者の方へ歩いていく。いつもなら、言われたとおりに門へひとりで向かうのだが、今日は影山に付き合うことにした。
「先行ってていいぞ?」
「お前、ホントにクソ鈍いね」
「及川さんの移ってね?」
「は? オレ、元から口悪いよ」
「知らねえよ」
及川さんたち三年が卒業して半年近くが経ち、とっくのとうに新体制が整っている。影山は正セッターでないものの、ほとんど正セッターと変わらない。むしろ正セッターが可哀想だと思う。忙しい筈なのに、たまに顔を出してくれる及川さんと岩泉さんは、見るからに上達していて、その度に影山は目を輝かせる。影山にとって及川さんというのはとても大きな存在で、あいつの頭の9割をバレーボールが占めているとしたら、その9割の中の3割、つまり影山の脳内の27%を占めていると言っても過言ではないだろう。影山はバカだけど、天才で、バレーボールに関すれば冷静かつ客観的な判断をすることができる。
去年、入学したばかりに見た及川さんも技術は途方もないくらいに圧倒的で、その及川さんを師として仰ごうという影山の判断は今となっては全く間違っていない。当時は、こいつ無謀だな、とか、自信あり過ぎだろとか思ってたけど、今となっては誰もおかしいとは思わない。むしろ、まさに及川さんを継ぐべきといったところだ。あれから、一年と少しで影山は徐々にその差を詰めていっている。及川さんをそっくりそのまま真似をしているわけではない。他にもたくさんのものを取り入れている。それでも、出来上がっていく影山のプレーはやはり、どこか及川さんにダブる。ふとしたプレーのひとつひとつが及川さんにそっくりなのだ。
影山にとって、及川さんは今もなお、圧倒的に重要な人間なのである。
「今日って雨降ってないよな?」
「一日曇りだってよ」
「なんだっけ、えーと、チュウシュウの名月? だろ、今日」
「ああ、十五夜。見えないだろうな、この天気じゃ」
校舎までの道は暗い。部室棟の光がおぼろげに届く程度である。空を見れば、分厚い雲が覆っていた。立体感のある、でこぼことした雲の向こうには満月が輝いているのだろうか。
「雲の動き、速いし、降りそうじゃないか?」
「降って欲しいの? ま、オレは傘あるからどっちでもいいわ」
視線を戻した時、どうしてか影山はオレの方を見ていて、目が合ってしまった。何を、というわけではないが、誤魔化さなきゃと言う気持ちになって、再び空を仰ぐ。
「降ったら入れろよ」
「言われなくても入れてやるよ。オレがそんな非情に見えるわけ?」
「見える」
「入れなくてもいいと」
夜の近い学校はやけに威圧感がある。教室はどこも真っ暗だし、明るい職員室も人が少なくて、駆動している機械音が耳に付く。白い蛍光灯に照らされた室内が寂しい雰囲気を助長しているように見えた。
「すみませーん」
影山は職員室の窓を叩いた。靴を履き替えるのが面倒くさいので、職員室が一階にあることをいいことにこの手を使う生徒は多い。窓際に席のある教師はいい顔をしないが、もはや生徒の中では当たり前のことになっているし、強く言われることはない。
おつかれさま、と鍵を預かってくれた数学教師に言われ、影山は軽く頭を下げて窓を閉めた。
「帰るか」
オレに向かって手を差しのべる影山。その手を取ると、あたたかくて、少し湿っていた。ボールを触っていると、指先や指の間が乾燥してくる。そうして、ガサガサした決して触り心地の良くない手を握った。
「相変わらず、冷たい手だな」
「心があったかいから」
「……へえ」
「相当、影山には優しくしてやってると思うよ」
「ソウデスネ」
人が真面目にしているというのに、目を逸らすので、持てる最大の握力で影山の手を握る。手の骨がぼき、と鳴って影山がうめいた。
「キスさせろ」
少しムカついた。及川さんのあとばっかり追って、今のチームがみえていないことも、それに気付けていないことも、仮にも恋人であるオレに手を差しのべる気遣いまでできるようになっても結局、オレの影山に対する特別扱いがあまり伝わってないことにも。
足を止めて影山を見た。満更でもないように見て取れたが、オレの希望的観測だろうか。
「俺が屈むんだから、『キスして』じゃねえの?」
挑戦的に口角上げる姿が更にオレを煽る。怒りという意味でも、性的にも。
「は、数ミリ抜いたからって調子に乗るなよ。今まで、オレよりも小さかったくせに、結局、差つけられてないじゃん」
「でも、今はお前の方がチビなんだよ! 事実だろ?!」
中一、春の身体測定からオレがずっと勝ってきた身長はここに来て3mmだけ抜かれた。あんまり気にしてなかったけど、こうもあからさまに言われるとやっぱりムカつく。
影山に頭突きかます勢いで、キスをした。勢いにひるんで、一歩後ろに下がった影山の後頭部に手を回す。自分の方へ引き寄せるように力を込めた。短くて柔らかくはないけれど、まっすぐな細い影山の髪の間に指を入れる。汗をかいているからか、手のひら同様、少し湿っていた。もう一度、唇を押し付けると影山の腕がオレの両腕を掴んだ。背中に回すくらいできただろうにと思うけど、そこが影山らしい。互いに肩からかけたエナメルの角がぶつかった。足の付け根あたりに衝撃があった。
何度か、唇を重ねては話しを繰り返したところで、影山がぼそりと何かを言った。ほとんど声にはなっていなくて、吐息が顔の表面を撫でただけだった。
「何か言った?」
「つき」
「は?」
顔の角度を変えて、空を見れば確かに月が浮かんでいた。雲と雲の切れ間に明るい球体が見えた。薄い雲を纏って、白さを際立たせている。鬱陶しい気温湿度と違って、涼しげだ。
「さっき、お前の目に月が映ったのが見えた」
「……」
「国見の目が、青とも緑とも言えない暗い色に見えてきれいだと思った」
「恥ずい」
「この間、国語で教えてもらった秘色に似てて、秘密の色ってだけあるなってはじめて思った」
「バカがいっちょ前に習ったことを活かすなよ。ほんと、影山、お前なんなの……」
腕をおろした。後ろで影山がなにか叫んでいるがお構いなしにオレは早歩きで校門へ急ぐ。当たり前だけど、すぐに影山は追いついてきて、首を傾げながら謝ってくるから、結局、オレは毒気を抜かれまくりだった。やっぱり、ムカつくから、もう一回、さっきよりも濃いめのキスをしてさっさと帰った。
月はすぐに隠れてしまって、暗さは取り戻された。おかげで、顔が赤いのを見られなくて済んだはずだ。と、信じたい……。






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