その温度は如何に。

 








建物から出ると、昼夜問わずのむっとした暑さにため息が出た。体にまとわりつくような湿気が、ぬるくゆっくりとした風に運ばれてくる。月島は襟元を引っ張って、服の中へ風を送ろうと、ぱたぱたと扇いだ。
そして、ゆっくりと空に目を遣った。

「やっぱり、なんにも見えないですね」
「まーそりゃ、仮にも大都会の東京ですし?」
「ですよねぇ」

《月は夜空で最も目立つ天体であり、夜だけではなく昼も青空に白く見えることがあります。満ち欠けをし、潮の満ち引きとも大きく関係があります。
身近でありながら、たくさんの姿を見せる月は昔から多くの人々の注目を集めてきました。》

「もしかして、ホームシックになった?」
「まさか。どうして星見たくらいで帰りたくなるんですか」
「俺は、また見たいけどな」

お前と、と付け加えると黒尾はにやっという擬音が聞こえてきそうな笑みを浮かべた。これがひとつの照れ隠しなのだと月島が気付いたのは割と最近のことである。
星空ひとつではそんなことは思わないが、気候に関しては東京は決していい土地だとは思わなかった。宮城の夏はもう少し涼しかった。冬は東京よりももちろん寒いけれど。
立ち止まって見上げた空はどこか白けていた。雲のせいではなく、空中に待っている粉塵が地上からの数多の光を反射しているからである。そんな光の膜と、粉塵と、雲も超えた、真空の世界に思いを馳せた。
目をこらせば小さくもきらりと光るものが見える。これならば、公園の砂場の方がよほどきらきらとしていたような気がする。何で出来ているのかは知らないが(改めて考えると、砕けた水晶ではないかと思う)透明で周りの砂と大差ない大きさの粒がたくさん混じっていて、砂場は角度を変えて見るときらきらと光っていた。

「あっちの方、夏の大三角だろ」
「ほんとですかー? 適当に三角つくってません?」
「なんだとぉ? これ見ろ、これ」

黒尾が渡してきたものは星座早見だった。クリアなプラスチックの円がくるくると回る。方角と時間、日付を合わせて空を見る。

「ああ、確かに」
「だろ?」
「今日の月は、どこにいるんですかね」
「どこだって言ってたっけ?」

首を傾げ合い、もう一度、星の見えない星空を見る。黒尾が歩き出していることに、数秒気が付かず、慌ててその後を追った。
星は見えないが、確かに今ここに存在しているのだ。見えないだけで、それも空が明るすぎるだけで見えない。そこにあるのに見えないこっとにも、夜だというのに空が明るすぎるという状況も矛盾しているような気がした。
夏休みの宿題にでもなっていたのか、親子連れが多かったプラネタリウム。黒尾の誘いで、最後の回に滑り込んだのだった。夏休み期間限定で、通常は六時で終わるところが八時までやっていた。夏も盛りとは言え、流石に八時ともなれば日は暮れ、夜の帳は完全に下りていた。
夜空の下で全く偽物の夜空を見ていたのだと思うと不思議な気がした。

「月島に合ってから、尚更、月が好きになった」
「そうですか。黒尾さん、月とか好きそうですもんね」
「なにそれ、惚気け?」
「違いますよ。厨二の黒尾さんなら好きかと思っただけです」
「そっちか……厨二心はくすぐられるだろ、あれ」

水平に腕を伸ばしたと思えば、ほんのわずかに角度を付けて目線よりも少し高いところを指さした。
プラネタリウムを有する区民センターから続く桜並木が終わって、その道がただの道路に戻る。代わりに開けた視界の先に月が浮かぶ。ただでさえ、薄い霞のかかったような空が、月に照らされて更に白けていく。決して、夜空に白を混ぜても昼間の空のような鮮やかで透き通る色に近づくことはない。彩度を落とし、鈍い色が月の周りに広がる。青味を帯びた鉄のような、藍鼠色だ。

「あっち……が北東、ですか」
「たぶん。おねーさん、言ってたし。まじで低くね」
「おねえさんの言った通りですね」
「そりゃ、嘘は言わねえよな」

伸びをしながら黒尾が月を指差した。
低い位置の月は、ともすれば少し離れたビル群に隠されてしまいそうだった。白、というよりも、月らしい柔らかな黄色をしていた。珍しい、と月島は思った。
どんな、ぽつりと黒尾が言った。

「どんな月が好き?」
「え……? 僕は、こう……真上にぽかーんとある月が好きです」
「お前、月、好きなんだ」
「フツーに綺麗だと思いますし、まあ、好き、ですね」

嫌いだと思ってたんですか? 街灯に影を作る黒尾の横顔を見る。黒尾は依然として、月から視線を外さない。その横顔を見た。黒尾も月島も視線に気が付いていないわけがないのに、月島からの目線など意にも介さないで、ただただ月を見ている。それは、視界から月島の存在など消えしまってているかのようであった。そんなことを感じてしまったせいからなのか、その横顔をまるで盗み見ているよう気分になった。いつ黒尾がこっちを向くか分からない。悪いことをしているわけではないのに、ひやひやしている。少し鼓動するスピード早めた心臓。思考の外で勝手に逸る体がもどかしく、どこかくすぐったい。

「月って見ると、生きてるなって気がしねえ?」
「どっちかっていうと死を連想させられません?」
「だからなんだよ。太陽が『生』ならば月は『死』って感じだし、なんとなく改めて生きてるなーみたいな」
「ふわっふわですね」

車が何台も横を通り抜けていく。白く塗られたガードレールも心なしか光っているように見えた。
黒尾の手が月島の指先を捉える。握り返しはしなかったが、振り解きもしなかった。手汗で湿ったお互いの手は、するりと滑り落ちることもなく、妙な接着力を見せた。

「たぶん、お前が月島蛍とかいう名前だからそう思うんだろうけど、月島って月に似てるよ」
「褒めてんのかよく分からないんですケド」
「褒めてるぞー?」

繋いだ手を引っ張って、月島の顔を覗き込む。透明なレンズの奥の瞳が逃げた。黒尾は笑った。月島も困ったように、しかし口角を上げて応えた。しかし、黒尾を見ずに足元のアスファルトばかりを見ていた。
真っ直ぐ向けられた視線の熱さであり冷たさでもある妙な鋭さにぞわりと何かが背中を走る。冬の日、冷えきった手足が暖かいものに触れた瞬間に広がる痛みにも似たひんやりとした熱さ。
逸らした目線の先、自分の足元を見た時、何かが鋭く光った。なんだろう、と気になったがどうせ、ただのごみなのだろう。気に留めるまでもない。

「夜に煌々と輝くところとか」
「下ネタじゃないですよね?」
「はは、下ネタじゃねえよ。ひとりでなんかやろうとしてる時の表情、活き活きしてるからさ。良い意味で、な」
「具体的におねがいします」
「山下くんだっけ? 嫌いなセンパイをぶっ潰すって言いながら、プレゼン資料作ってる時とか」

ピンと来なかった。確かに誰かと作業するよりもひとりでなにかする方が楽だとは思うし、面白いと感じることが多いのは事実だ。しかし、楽しそうというより、確実にその時の自分は苛立っていただろう。
黒尾は、自分でも全く知らない自分を見ている。たまにそう思うことはあった。まさか、そこまで自分の把握できていない自分がいるとも思えないのだが、黒尾は目敏く、というと表現が悪いが、しっかりと月島を見ていた。月島の知らない月島を知り、魅力的だといつもからかってくる。

「昼の月が綺麗なように人混みで疲れ果てた月島って綺麗だぜ、あと可愛い」
「なにを言ってるんですか」

呆れからため息がこぼれた。

「褒められ慣れてきやがったなぁ」
「誰かが褒めちぎるので」

それ以前に黒尾の言葉に実感が持てていない、いまいち分かっていないだけである。褒められて嬉しくないわけがないのだが、しかし、とにかく何を表しているのかがよく分からない。

「なにその、変な顔」
「いや……黒尾さんの言葉がイミ分からないなって」
「まじで? まあ、いいや。分かんない方がいい気がするし」

暑いとはいえ、一時間以上もの間、冷房がかかった空間にいたので、歩き初めて二、三分は冷たさの余韻とでも言うのか、冷気によって芯まで冷えた体がじっくりと溶かされいくような、表面から内部へと熱が伝わっていくのを感じた。
触れ合った手先はもう熱の中だ。

「晩飯どうする?」
「あんまりお腹すいてないです」
「夏バテじゃね? やべえって」
「んん……そうかもしれないデス」
「こじらせると辛いからな、無理にでも食っとけよ」

夏バテなんて起こしたことなさそうなのに、その言葉にやけに実感がこもっていて、少し驚いてしまう。そうですね……なんて生返事をしながら、黒尾を見る。目が合った。

「そういえば、俺の愛って今のところ、どんだけ伝わってるわけ?」
「はい? えーと、このくらい……?」

手は繋いだまま、両手で円を描く。
突然、なんだ。平然と愛していると言ってくる。素面でなんてことを言うのだろうか。月島は、眉を少し寄せて考えた。あえて言うのならば、星空に寄ったとでもいうことか。

「少ない」
「黒尾さん、さっきプラネタリウムの説明で言ってましたけど、星の色と熱さの話」

《星は、質量が大きい星ほど高温で明るく青く光りますが、燃料の消費が早いので短命です。ベテルギウスのように肉眼で見える赤っぽい星の多くは、赤色巨星という大きく膨張した低温の星です。》

「たぶん、黒尾さんの愛は青いんですよ。触れたら凍りそうな青色をしているくせに、想像もできないほどに熱い。青いのに、手を伸ばしたら、その手が焦げるとか、変な感じがします」
「お、すげー褒められてる」
「褒めてますからね。簡単に燃え尽きたりされたくないんで、ちょっと温度さげましょうよ」

さっき、黒尾がしたように繋いだ腕を引っ張って、その顔を覗き込む。影で黒尾の表情はよく見えなかったが、そんなことは関係なかった。月島は黒尾のくちびるに空いている手の人差し指を当てた。

「がっつくの禁止ですってこの間言いましたよね?」
「まさかの昨日の説教をここでする?!」
「約束守ってくれないんですか。僕の方が先に燃え尽きますよ?」









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