いちごみるく










何もない筈なのに、誰もいない筈なのに、何度も耳の奥で声が再生される。一度も音は途切れることはなく、幾重にもなって何度も繰り返す。もう、呼ばないで欲しい。お前の声が好きだから。だから、忘れてもいいだろうか。忘れさせてくれ。
ガードレールの下に小さな花束を置いてから耳を塞ぐ。余計に大きくなる音に更に力を込める。

『宮地さん』

『もういやだ』

『ごめん』

『大好きだった』






伊月が死んだ。宮地が知ったのは、伊月の後輩の黒子からの電話だった。淡々と事実だけを告げていく黒子の声を電話口に聞き流しながら宮地はぼんやりと酸っぱいだけの安いコーヒーをあおった。うえ、と思わず漏らせば黒子がどうかしましたか、と聞いてきた。
「なんでもねえよ」
『なんでもないんですか』
「なにが言いたいんだよ」
『いいえ、何も』
黒子の口ぶりからして自分と伊月が恋愛関係にあったことは知っているのだろう。伊月がこの後輩のことをそこまで信用しているとは思っていなかった。てっきり、誰にも言っていないものだと思っていた。屋外ではキスは愚か手だって繋がせてくれなかった伊月。あまりにも保守的で宮地としてはとてもじれったかったし、苛々した。臆病すぎる、俺等のことなんて誰も見てねえよ、とキレたこともある。そんな時、伊月は怒りもせず、「知らぬが仏ってやつなんですよ」と笑っていた。昔なにかあったことは確かなのだろうけれど、聞くことはできなかった。口ぶりからしておおよその予想はついていたが。
『他に何か聞きたいことはありますか?』
黒子の拒絶するような言い方から、あくまでも宮地から聞かなければ自ら話すつもりはないという意思をひしひしと感じた。黒子は宮地が嫌いなのだろう。疑っているのだろう。宮地は笑うしかなかった。
「もう、いいよ」
そうですか、では、とすぐに電話は切られた。電話の横になにか小さくて白いものを見つけた。つまみあげてみれば、見慣れた白地に小さな赤いいちごがまばらに印刷された包み紙。かしゃかしゃと軽い音を立てながら開く。小さくさんかくの飴。
「いちごみるくか……。懐かしいな」
あいつが好んで食べていたことを思い出す。キスするといつも甘ったるいいちごの味がした。基本は淡泊で何かに執着するということはあまりなかったから、珍しかった。なに食ってんの? と聞いてはじめて返ってきた言葉は「あげませんからね」。本当は、あの日もポケットには入ってたんだろう。全部食べたなんて言いながらも、最後の最後まで手元でなにやらごそごそやっていたし。結局、一個たりとも俺はもらえなかったんだな。
過去になったお前は、俺に優しくないな。でも、過去にしたのは俺だな。お前の優しさは痛かったよ。
傷口をえぐるみたいに、優しさを吐き出してた。それが膿みたいにいらないものならいくらでも吐き出せば良かったんだ。お前が吐き出したのは血液だった。止まらない血を、絞り出した。傷口を無理矢理押して開いて、ぐちゃぐちゃにして、かさぶたができる暇もなく、容赦なく指をつっこんで爪を立てた。皮膚は剥がれて、その下の肉が赤く光って見えて、あいまあいまに、骨が見えた。表面に血を纏い、ほとんど白に近い赤。血に満たされた傷の中は濃かったり淡かったり色々な赤色に溢れていた。そこから、零れるものがお前の優しさだった。
ぽい、と口にいちごみるくを放り込む。
「……甘いな。お前とどっちが甘いかな」
馬鹿みてえ。どうしようもなく笑えてきてしまって、引き攣ったような笑い声が漏れてくるのに、視界はゆらりと歪んだ。あっという間に小さくなってしまったそれを大した力も込めずに噛み砕く。いっそう、甘くなる口内。じわり、と嘘臭い甘さに侵されていく。ああ、嫌だ。いつものキスと同じようで少し違う、そんな違和感のある味がした。


車を道路の脇に寄せると、伊月は助手席から降りた。少しして、宮地も運転席から降りる。ガードレールから身を乗り出せば、青いような黒いような海が見えた。真黒い岩の下に広がる海はまだら模様の曇り空を映していて綺麗とは言い難い。
「せめて、晴れていれば良かったんですけどね」
「じゃあ、明日にするか?」
「いいえ。今日がいいです」
白い塗装は剥げかけ、錆びてオレンジにかわっている部も多いようなガードレールを易々と越えて、崖に立つ。ごつごつとした岩の上をサンダルで歩く伊月が少し不安だったが、もう、そんなことは関係ないと気付く。


腕時計を見ると待ち合わせの時間まであまりなかった。電車を飛び降り、階段を二段飛ばしで駆け上がる。エレベーターを選べば良かったか。今更遅い。パスモだけはきちんと改札に押し付けて、ひたすらダッシュ。広い駅ビルの中、人をかき分ける。
「伊月っ!! っごめん!!」
「大丈夫ですよ。ほら、まだ遅刻じゃないですよ」
そう言って自分の携帯電話の液晶を宮地に見せた。肩で息をする宮地に対して伊月は穏やかな笑みを浮かべている。どっちが先輩だか……呟くと、腰をつつかれた。
「うおっ!?」
「今は対等でしょう? 先輩なんて言わないで、ね?」
「お、おう」
さらっと笑顔でそんな台詞を言った伊月に宮地は照れてしまう。頬をかきながら目を逸らした。身長差があるから仕方がないのだが、宮地から見れば伊月はいつだって上目遣いなのだ。切れ長で、けれど黒目がちな目。美人と形容したら怒られたことがあるが、宮地はやはり伊月は美人だと思うのだ。
「どこ行く?」
「そうですねえ。オレはどこでもいいんですけどね」
「俺といられれば?」
「分かりきったこと聞かないでくださいよ」
からかってみても上手く切り返される。一枚上手。もしかしたら一枚どころではないのかもしれない。しかし、どこか拒絶するような言い方だった。
告白してきたのは一応、伊月の方からだった。ふわふわと儚げで自分がしっかりしなくてはいけないと思っていたが、最近身に染みて分かってきていた。伊月は上手く宮地の庇護欲をかきたてるような立ち振る舞いをしている。嘘や演技というわけではないと思う。無自覚なのか自覚あってなのかは分からないが、これが『あざとい』ということなのだと感心させられる。そこまで分かっているのにまんまと嵌められているような気がして悔しいが、それら全てを上回り愛おしいと思うのだ。
「あ、お腹すきました」
「……なんか、微妙だな。その言い方。まあいいや。飯行くか」
「はい」
伊月は声をかける前になにかアクションを挟むことが多かった。突然、腰をつつかれたりすることはしょっちゅうだった。くすぐりに弱い宮地としては気が抜けないのでとても困る。他にも、服の裾を引っ張ったり、腕を掴んでいたり。幼い子供のような行動と年相応とは言い難い大人びた雰囲気を持っている。その矛盾を持った内面と外面が伊月の美人さに拍車をかけているような気がした。
「黙ってるとイケメンなんだけどなあ」
「喋るとイケメンじゃないですか?」
「んー、いや。可愛い」
「怒りますよ」
「そこは照れろよ」
マジバに入り、適当に注文して席を取る。込み合った中、丁度よく空いた席にすかさず座り込む。宮地はいい加減に慣れたというのか当たり前に低いテーブルに肘をついていた。コーラを飲んではポテトをつまむ。とっくにメインのハンバーガーはふたつとも平らげてしまって、まだ二個目をもそもそと食べている伊月がじいっと宮地を見つめていた。
「でかい」
「あ? せめて大きいと言いなさい」
「宮地さんと一緒にいると女の人の視線がいたいんです」
人の中で頭ひとつ分飛び出ていることなど、やはり日常茶飯事だった。それが視線を集めることも然り。特に明るい髪色も原因らしい。自分ではそうは思わないのだが、目立つ色をしていると、言われたことがある。しかも、中高生の間は地毛だというのに髪色で何度も呼び出された。女の人の視線がいたい、というのは誤解だろう。伊月の目を疑うわけではないが、同じくらい男から見られていると思う。自分の顔がいいとも悪いとも思ったことはなかった。客観的に見て、中の上といったところだろう。身長の割に童顔なことはコンプレックスのひとつだった。一九〇もあるのに目が大きいと言われて何が嬉しいのか。まず、男に可愛いという言葉は褒め言葉でもなんでもない。嬉しくなんてないし、それを男に言われても困る。まあ、実際、伊月は可愛いから仕方ないんだけど。こっそり付け加えておく。
「やっぱり身長あると何割増かでイケメンに見えるんですかね?」
「さっきからケンカ売ってんの?」
「元からかっこいいのになあ、って」
「褒めても何も出ないぞ……?」
伊月は分かってますよ、と微笑みながら宮地のポテトに手を伸ばした。宮地はそれを黙って見ていた。少しして、伊月のナゲットを勝手に食べたらとても怒られた。ポテトは何十分の一でしかないですけど、ナゲットは五分の一ですよね? 二〇%ですよ? 分かってますか、規模が全然違うんですよ? 笑顔で迫ってくる伊月が言っていることはまさに正論で、言い返すあてもなく素直に謝った。
「なんか奢ったる」
「いいでしょう、いちごみるくで手を打ちましょう」
「またかよ……俺には一個もくれないのに」
「宮地さんは甘いもの苦手でしょう?」
「お前とのキスはいっつも甘いけどな」
「宮地さん……?」
すうっと伊月の目が細められる。
「……ごめん。俺の浅慮さがいけませんでした。俺とお前は対等、で友達だろ?」
「ええ。分かってるんならいいんです」
伊月は、申し訳なさそうに弱々しく声を出した。気にすんな、と笑いかければ一層、眉を寄せる。傍からすれば面倒くさいタイプなのだろう。宮地は、伊月に依存されるのならそれも有りだと思っていた。お互いに寄り掛かる形は苦手だった。自分がしっかりしているという自覚はあったし、世話好きであることも分かっている。だからこそ、頼られることは嬉しいし、伊月のような人間に頼られたいと思う。それが身勝手だとしても、伊月を好きだからこそ抱え込まないで欲しかった。全てを曝せとは言わないから、せめて、必要な時には絶対に近くにいてやりたいと考える。それは便利な人間になることではない。迷惑でも伊月のために自分のできること全てしてやりたかった。それを伊月が望んでいなくてもダメなものはダメと言う人間が必要だと思う。放っておいたら、自殺でもしかねない。そんな危うさがある人間から目を離すことなどできない。それが好きなひとなら尚更。
「これ食ってさ、バッシュ見たら、うちで映画見ようぜ? 新作、もう出てたんだ」
「もう借りたんですか? 仕事早い。さすが、宮地さんですね」
「今度は映画館行こうな」


灰色の空は、どんよりとしていた。上空には風があるらしく雲がせわしなく動いて、濃淡ある灰色の隙間には青い空が覗いていた。もう少しで晴れるかもしれないな、と考えながら伊月の横に並び、その手を取った。
「もう、いいだろ?」
「そうですね。最後、ですもんね」
そっと、手を握れば力強く握り返される。ほとんど初めての感覚に空しさだけが募った。これが最初で最後。無理矢理につないだ手を上に掲げる。伊月は嫌な顔ひとつせずに宮地にただ、痛いですよ、と笑った。
「キスは?」
「いいですよ」
宮地は空いた片腕を伊月の首に回した。伊月の頭の後ろに手を入れて、上を向かせる。少し背を丸めて、顔を近付けた。目を瞑る前に見えるものはいつも決まって伊月の黒檀のように深く深く暗い茶色の瞳。伊月は目を閉じてキスをしない。閉じろよ、と言えば宮地さんもあければいいと返す。結局、宮地は恥ずかしくて耐えられなかったので一人で目を閉じることにしたのだった。何度も角度を変えて口づけを落とす。伊月の柔かい唇をついばむようにしたり、強く押しつけてみたり。時々、ちらりと目を開ける。やはり、深い色合いの瞳が見えた。その瞳が細められるのを確認する。一度、身体を離し、繋いでいた手を解いた。繋いでいた手を伊月の背に回して、強く抱きしめた。宮地の胸あたりでもごもごと何か言っているが聞こえない。力を緩めると、伊月は宮地を見上げて苦しそうに息を吐いた。
「きついです」
「もっとしてもいいのか……?」
「冥土の土産ですね」
「そんなに大層なもんじゃねえけどな」
宮地は伊月にもう一度軽い口づけをした。間髪いれずに舌でその柔かなものを割った。軽く歯列をなぞり、薄く開けられた間から舌を割入れて、なんの抵抗も動きもしていない伊月の舌に絡める。途端に慣れた甘さが口内を支配した。

いちごとみるくと伊月の味がする。

宮地はそんなことを考えながら、再び目蓋を閉じる。半袖の腕には風が当たり、少し肌寒く、ここが屋外だということをはっきりと意識させる。ここは、薄暗い部屋のベッドの中ではなくて、周りにはぐちゃっとまるまった毛布もなくて、慣れ親しんだ柔らかな閉塞感なんてどこにもない。硬さを孕む風と激しくはないもののひっきりなしに続く波の音。少し神経を尖らせれば口内の水音が聞こえた。


55インチの薄型テレビには頭や頬から血を流し、荒く息をつきながらも物陰で銃をそっと構えるスーツの男が一人。場面は変わり、高級感漂う黒い革張りのソファーに向かい合って腰掛ける男が二人。
「……伊月、いたい」
「へっ!? あ、ごめんなさい」
全て消された照明に、テレビの白っぽい光が元から白い伊月の顔をさらに青白く見せた。真剣にテレビだけをまっすぐと見つめる伊月の口は薄く開いていて、両手でぎゅっと隣の宮地の腕を握っていた。
二人でぴったりと身を寄せて、冷房を効かせた室内で薄手の毛布を頭からすっぽりと被る。顔だけを毛布から出して、流れる映像とテレビ横のスピーカーから響く重低音に集中する。映画に魅入っていた伊月は宮地の腕からゆっくりと手を離す。毛布の中でもごもごと離れていく伊月の手を左手で握る。見えないけれど、狭い。すぐに見つかったバスケをやっていたとは思えない、ごつさとは無縁の手を包む。自分の手よりも小さくて、細い指もなめらかな肌もひんやりとした手のひらも、自分だけのものなのだと思うとちょっとした優越感に浸れて居心地が良かった。この狭くてぬるい毛布の中では、伊月と宮地は恋人同士だった。
「面白かったですね!! 相変わらず、かっこいいなぁ」
「だよな〜。俺も機関銃の乱射とかしてみてえ」
「もう、物騒ですね」
「伊月はやってみたくねえの? 射撃とか上手そう」
「なんですか、それ。自慢じゃないですけど、オレは射的よりも輪投げの方が上手です」
消したばかりのテレビがじじ、と微かな音を立てる。コンセントに直接ささっているフットライトが濃い橙の光がぼんやりとした輪を作っていた。その灯りだけでは大したものも見えないのだけれど、ぴったりとくっついている二人には関係がなかった。寒い言えるほどの室内で、薄着をして、もこもこと毛布の中で温まる。少し、はみ出た足がすぐ冷えていくのを感じる。宮地は伊月の肩に腕を回してその腕に力を込めた。一拍置いてから、すっぽりとおさまってしまった伊月の唇にそっと自分の唇を重ねる。背中を丸めないと届かない伊月の唇は宮地にとってもどかしい遠さだった。
「ここですか?」
「まさか。ベッド行こう。抱っこしていっていいか?」
「恥ずかしいんだけどなー。ていうか、眠くなるから、ちょっといやです」
眠ってもいいぜ、怒んねえから、宮地は苦笑いで伊月の膝の下と脇に腕を差し込んだ。毛布に埋もれかけている伊月は幸せそうに柔らかく微笑んで大きなあくびを一つした。引きずっている毛布足を取られて、軽く体勢をを崩す。
「おあっ?!」
びくり、と体を震わせて伊月は困ったように笑い、両手が塞がっている宮地は自分の額をこつりと伊月の額に当てた。髪の毛がくすぐったいです、と囁かれる。キスと同じいちごみるくの吐息が温かった。
伊月抱きながら、ドアを開けるのはもう何回目だろうか。慣れた手つきでドアを開けてすぐのクイーンサイズのベッドに降ろす。一般的なベッドの長さというのは一九五cm。一九〇近い宮地にとって、この長さでシングルなんて堪ったものではなく、安くはないが奮発してワイドダブルサイズのベッドを買った。どう見たって大学生にしか見えなかった宮地が一人で二人用のベッドを買うのは虚しかった。店員のああ、身長的にそうもなるのか、という納得した表情が尚、虚しさを募らせた。
しかし、最近となって大の男が二人寝ても狭くないベッドで良かったとしみじみ思う。ちょっと激しいことをしても問題ない。二人で寝るには少し狭くはなはなってしまうわけだけど、むしろ、その狭さが二人にはなんだかんだと文句を言いつつも大事なものだった。
「宮地さんが転ぶから、目、覚めちゃいましたよ……」
寝転がった伊月は横に腰掛けていた宮地の腰に腕を伸ばした。腰にぬるりと巻き付いた腕にため息がひとつ溢れる。人が我慢してやろうってのにあっさり誘いやがって……。体勢を変えて、ぎしりとベッドを軋ませながら伊月に覆い被さるようにする。
「俺はいいけど、明日、お前大丈夫なの?」
「ん、多分、平気です。最近、オレが寝ちゃってばかりで宮地さんも寂しいでしょう? まあ、オレがヤりたいっていうだけなんですけど」
真っ暗だから見えないが、どうせは伊月は困ったように冷笑しているのだろう。言いながら、ベルトのバックルに手をかけ、かちゃかちゃと鳴らしている。
「あーやめてくんねえかな……お前に脱がされるの嫌なんだけど」
「どうしてですか?」
「分かってるくせに聞くなよ。それともなに、言わせたい?」
「そうですねぇ、聞きたいです。宮地さんの声」
ああ、もう。頭を抱える暇もなく、ベルトは引き抜かれ、シャツのボタンは全て外されていた。宮地も伊月を脱がそうとTシャツの裾を喉近くまで捲り上げるが、ことはそう簡単に運ばない。伊月はその細い指先で宮地の腹の筋をなぞり、へそのふちをなぞり、あげくの果ては胸元の突起へ持ってくる。声出してくださいよ、くすくす笑っている伊月の目元であろう場所にポケットから出した黒い布を片手で何とか巻き付けた。
「……っん……こ、れでいいか?」
「はい、なんにも見えません」
自分の胸元を弄んでいた手を無理矢理おろして万歳をさせる。そのまま勢いでTシャツを脱がせる。ベルトは伊月がいつの間にか自分で外していた。宮地から乾いた笑い声が少し溢れて、それに対し伊月は嬉しそうに、寒いです〜と自分の下に敷かれている毛布を引っ張り手繰り寄せた。
「笑ってんじゃねえよ。あ゛ー、もう、すぐばてたりしたら怒るからな」
「分かってますってば、ほら早く」
どんどん煽ってくる伊月の余裕綽々な態度にため息しか出てこないが、宮地もいい加減にスイッチを切り替えるのだった。


風がふっと止み、顔を上げれば空はいつの間にか白けたような夏らしい青に染まっていた。
「あれ、もういいんですか?」
「伊月、晴れてる」
「ほんとですね、なんだか嬉しいなぁ」
「ああ、良かった」
「宮地さん、お姫様だっこしてくださいよ。いつもみたいに」
宮地は、一度頷いてから軽々と伊月を抱き上げた。釈然としない表情で伊月が、ずるいなぁと呟くが宮地は笑って流す。宮地の首に手を回した。ひんやりした滑らかな皮膚の温度が自分の首筋の温かさと徐々に同期していく。特に話題もなく沈黙が流れ、宮地が伊月を見れば、同じように伊月も宮地を見た。困ったように笑い合う。
「どうするよ、こっから」
「……もう、いいや」
「ありがとう、宮地さん。大好きでした。愛してた。ううん、まだ、愛してる」
するりと宮地の腕から岩の上へ降り立つ。
満面の笑みでも泣き顔でもなく、見せてきたのはいつもと同じ困ったような冷たい微笑み。口角は上がっているのに眉は少し寄っていて、ちっとも楽しくなさそうな笑顔。無理矢理笑っているようにしか見えない。しかし、それが伊月俊の笑顔なのだった。


珍しく伊月の家に呼ばれた宮地は納得した。
いつもはベッドの上には服が何着か脱ぎ捨てられていて、机の上には本が積んであった。それでも床には塵ひとつ落ちていない。洗い物だって、きちんと洗われて食器棚の中でまっすぐ列をなしているというのに。
それが、ベッドの上には何もなくて、まるでホテルのように綺麗にベッドメイクされていた。机の上はペン立てだけになり、そこには白い便箋がひとつささっているだけだった。食器棚には、宮地が昔贈った真っ白のマグカップがひとつだけ入っていて、それ以外のすべての食器は跡形もなくどこかへ消えていた。
止めなくてはいけないのだろう。
自分の甘さが嫌になる。
「……もう、ダメなのか? 耐えられない?」
部屋の入口に立っている伊月に問いかけた。伊月はこくり、と頷いて、笑う。そっか、と宮地は唇を噛んだ。伊月に背を向けて、いつの間にか生活感が排除された伊月の部屋を再び見回した。
「もういいよ。ごめんな。ありがとう」
「……謝るのはオレです。もう、嫌なんだ。ごめんなさい」
「気にしてない。分かってたし。で、いつ?」
教えたくなけりゃ別にいいよ、と伊月に近付いてその頭を撫でた。
「宮地さん、明日は暇?」
「え、ああ、なんもないよ」
連れて行って欲しいところがあるんだ、と伊月は宮地に寄りかかった。
すぐに引き払えるように手引きしてあるらしい部屋を後にして、宮地は助手席に伊月を乗せて自分の部屋へ向かう。車内、伊月はいつも通り自分で持ち込んだ聞いたことのない洋楽のCDをかけ、他愛もないことを話したり、こっくりこっくり舟を漕いだりしていた。あまりにも日常的な光景で、これが全て明日には終わるのだとは到底思えなかった。
「伊月、部屋行く前になんか買っていくか?」
「んー、オレはなにもいりません」
「そうか、じゃあ、いっか。あー、あれは?」
「いちごみるく、ですか? 全部食べきっちゃいました」
さっき、がりがりと。べえっと紅い舌を宮地に見せつけた。べろ噛むぞーとその舌の上に何かでもらった苺味ののど飴を左手でささっと剥いて乗っける。
「ひゃい?!」
「いちごみるく、一個もくれなかった仕返しだ」
「……のど飴ですか。食べたの何年ぶりだろ」
口の中でころころと飴を転がしているとあっという間に消えてしまう。口内には慣れない爽快感と、いちごみるくとは違う酸味のある苺の味に顔をしかめる。伊月は運転する宮地の横顔を見た。まずかった? と少し楽しそうに宮地は聞いた。首を横に振った伊月は仏頂面から今にも泣きそうな表情になった。
「宮地さん。ずるいなぁ。ほんとずるい」
指と指の間からくぐもった声が漏れてきた。


よっこいせ、と言いながら崖にふち、ぎりぎりに立った伊月は後ろにいる宮地を振り返った 。
何も言わない。
笑いもせず、無表情で宮地をまっすぐと見つめる。黒檀の瞳に恐怖はない。喜びもない。あるとすれば諦念だけ。何を諦めてしまったのか、そんなことは宮地には分からない。何年付き合っても伊月のことは知らないことばかりだったし、それで良かった。知られたくないなら知る必要はないし、知らなくても理解し合えることだってある。
伊月は優しかった。あれは優しさ、だった。俺に対する優しさで、責任。自分のせいで俺まで穢れるなんて言いやがったときは殴りたくなった。それは優しさじゃない。でも、伊月にとっては優しさだった。
お前のそれを理解するのがなによりも難しかったよ。
優しすぎるよ、お前は。
「宮地さん、ごめん」
「おう。気にすんな」
うん! とわざとらしい笑顔と声色で頷いて見せて、


伊月は落ちた。


さあ、これからどうしようか。宮地は車の鍵を開けて運転席に乗り込んだ。オーディオからは聞き慣れない洋楽が流れて、誰もいない助手席には、甘さが残っているような気がした。



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