ボクは眠る。


 






 眠る。

 ふとんをかぶって、目を閉じる。
 
 それだけの行為が恐くて、恐くて、仕方がない。



 ボクは、どうして生きてるんだろう。

 ボクは、どうして死ななかったんだろう。


 別に死にたかったわけじゃない。もちろん、生きていることはすごく、嬉しい。毎日は楽しいし、死にたくないって思ってる。だからこそ、なんだろう。死ぬことが恐い。誰だって恐いはずだが、ボクと同じように恐怖できる人はそうそう、いないんではないだろうか。それは少し言い過ぎか。わざわざ、床にあったものを高いところまで持ち上げて、思い切り、床に叩きつける。ボクの『生』と『死』はそんな感じ。なんだか、皮肉な話だと思う。一番、死に近かったころは何も恐くなかったのだ。それを強いことだと勘違いしてた自分が今となっては、馬鹿らしい。今も死に近いことは変わっていないけれど、現在のボクは死ぬことが恐くて、それだけで死のうと思えるほどなのに。

 いつも、いつも、曖昧で霞みたいな『死』と隣合わせに生きてきて。死ぬことを前提に生活してきて。
 生物は死ぬ、いや、人間というモノが死ぬ。そんな現実が同年代の誰よりも近かった。でも、誰よりも死ぬことに恐怖していなかったように思う。どうして、それが恐いことなのか、分からなかった。当然、だとしか思っていなかった。



 ねえ。と呼べば、彼はいつもの表情で振り向いた。
 「この際だから言っちゃいますけど、ボク、いつ死んでもおかしくないんです」



 ボクは、体が弱かった。
 色素も薄かったし、なんだか、ひよわそうな雰囲気は今と同じように昔からしていた。
 よく、熱を出すし、幼いのに貧血で倒れるわ、暑くて倒れるわ、お風呂でものぼせて倒れるし、果たして、今まで何回倒れたことがあるのか。目を覚ましたら、保健室。知らない天井。誰かの膝の上。そんなことは慣れていた。幼稚園の保健室も小学校の保健室も。保健室と呼ばれる部屋の天井は、見慣れているどころではなかった。教室を見て、慣れているとは思わない。それと同じくらいに『当然』だった。
 それ以前に倒れることに慣れていた。
 体が弱い、というのは事実だが、実際は事実とはかけ離れていると思う。体が弱い。それは、つまるところ、健康である。元より健康の上に成り立っているものだから。健康な人たちの中で、若干、健康ではない側に近い。それだけにすぎない。ボクの場合は、生まれた時からすでに健康ではないのだ。

 ボクには先天的な病があった。しかも、現代の医療では治療方法が見つかっていない、いわゆる、不治の病。自分が病気だと認識したのは、相当、早かったと思う。理解したのは、小学校に入ってからだが。
 じわじわと進行するタイプの病気で、日常生活は送ろうと思えば送れたらしい。ただ、細心の注意を払わなければいけなかったようだが。だから、定期的に病院に行っていれば、幼稚園にも学校にも通える。ただ、熱が出ただのなんだの、と何度も入退院を繰り返していた。

 物心ついた時には、自分のベッドよりも病院のベッドの方が落ち着くくらいだった。まず、自分の部屋があるのか、ベッドがあるのか、と驚愕したことがあるレベルである。残念ながら、ボクのホームは病院だった。母親は毎日、会いに来てくれていたが、ずっといる訳ではないし、担当の看護師さんの方がボクについて詳しかったはずだし、ボク自身、看護師さんの方が好きだったのではないだろうか。まわりの小児科の子供たちは、どんなに会っていなくたって、両親が一番好きなようだった。それでも、ボクは、注射もするし、苦いだけで効果があるのかも分からない薬を飲ませてくる先生と看護師さんの方が好きだったのだから、両親には申し訳ない。どうしてなのか、と言われれば時間の差、しかないと思う。看護師さんも先生も両親のようにボクだけを見て、ボクだけを愛していてくれた訳ではない。周りの子と同じように、優しく接してくれた。分け隔てなく、残酷なくらい平等に。そう思うと、本当に父さんと母さんには申し訳ないな。まあ、そんな感じで大好きだった、先生と看護師さんに「頑張ろうね。いい子にしてたらおうちに帰れるよ」と励まされてきた。当然、その言葉を信じていた。家に帰りたい、とは思っていなかったはずだけど、先生たちの言葉から、家に帰れることはいいことだと感じて、家に帰れれば、先生たちは褒めてくれるみたいだ。そんな風に考えていたと思う。褒められたら、嬉しい。(それは無表情で感情の機微が分からないなどと言われる今のボクだって同じである。)この頃のボクは年相応に笑いも泣きもする普通に子供だった。本は一人で時間を潰せる大事なものだったから、本が好きなのは今と変わらないが、それ以外は正反対と言っていい程かもしれない。明るく、表情がくるくる変わって、感情の起伏も激しくて、子供らしい子供。



 どこにでもいる普通の子供だったボクが表情筋をまともに機能することを辞めたきっかけ。
 ボクにとっての転機があった。確か、小学校に入る前の春休み。小学校の入学式の数日前。真新しいランドセルを背負っては自慢して歩いていたような頃だったと思う。

 「テツヤくん……十五歳までしか生きられないのよ」

 直接、言われたわけではない。たまたま聞いてしまっただけだ。衝撃的だったので、その日のことはよく覚えている。両親は、ボクが生まれて、病名が発覚した段階で知っていたらしい。ずっと、本を読んでいたせいで、語彙力は同じくらいの歳の子の中では飛びぬけていたし、実感なんてなくとも理屈だけでは理解している事象はたくさんあった。『死』もその中のひとつである。異動、転勤の季節である、春。担当の看護師さんが変わることになって、寂しかった。どうしていなくなっちゃうの? と号泣して、あの淡い水色のスカートを引っ張って、駄々をこねた覚えはあった。異動に伴って、新しく担当になった看護師さんに引き継ぎの最中だったのだろう。普段だったら、看護師さん達もそんなミスは絶対にしないはずだ。本当にたまたま、消灯後にトイレに行きたくなって、何を寝ぼけていたのか、一番近いトイレとは真逆の方向のトイレに行ったのが悪かった。フロアの中央にあるナースステーションの前を通過する時に、そんな言葉を耳に挟んでしまったのだ。小児科の消灯時間ははやい。看護師さんたち大人にとっては、十分な活動時間である。トイレの帰り道だったから、意識もはっきりしていたし、急いでもいなかったから、前の看護師さんにもらった水色の宇宙人のぬいぐるみを片手にぶら下げるように持って、ゆっくりと歩いていた。パジャマの上に何も着ていなかったので、少し肌寒くて、ぬいぐるみを、ナースステーションの少し手前の角を曲がるところでぎゅっと抱きしめたのだ。足音で気付くのではないか、と思ったのだが、本当に寝ぼけていたらしく靴下のままで歩いていた。(寒くても当然である)だから、足音もなく、看護師さん達も気が付かなかったのである。聞いた時は、あれ? くらいにしか思わなかった。特に気にも留める言葉だと思っていなかった。そのまま、すぐに寝てしまった。次の日に、朝の診察の時に「ねえ、昨日……」と先生に聞こうとして、初めて言葉の意味を理解した。十五歳って、いくつだ。ボクが今、六歳だから。先生、いっこ手、貸して。なんて言いながら、教えてもらったぼかりの引き算を駆使したのだ。先生は、微笑みながら右手を貸してくれた。先生の親指と、人差し指を折って、片手分の指は全部折って。自分の指も、数えながら折って。残った指は九本。

 「ボク、六歳でしょ。で、九歳ぶんだから……」

 思わず、そう呟いた時に先生の顔が引き攣ったのを見た。でも、すぐに「テツヤくん、なんの話?」といつもの笑顔でそう聞いた。ボクの生きられる時間。素直に答えた。先生は、はあ、と大きく息を吐いて、力なく笑っていて、ボクはあと九歳大きくなったら死んじゃうんだ、と漠然と理解した。先生が謝った。「ごめんね。ごめんね。テツヤくんは悪くないのにね。僕は、できるだけのことはするからね」と周りの子に聞こえないようにだろう。ボクの耳元で言った。上半身裸のボクを、抱きしめて、何度もごめんね、と繰り返した。「どうして、先生が謝るの?」「先生が先生なのに、テツヤくんに絶対、って言ってあげられないからだよ」「ボクが死んじゃうのは、ずっと先だよ?だって、十五歳って、小学校六年生よりもおおきいでしょ?すごく大きいじゃん。平気だよ」
 先生はボクを抱きしめていたから、その表情がどんなだったのかは分からない。

 死ぬことは恐いことではなかったのだ。あの頃のボクには。絵本で読んだ限りでは、死ぬことは悪いことじゃなかった。みんなが悲しい思いをするようだけど、その本人は、天国に行ける。天使になって、神様のところへ行ける。そのくらいの認識だった。仲の良かった子も、病院に来たばっかりの子も、検査から帰ってこなくて、突然、ぬいぐるみもおもちゃもなくなった、布団の畳まれたベッドがぽつんとある。

 死んじゃったんだ。天国にはいけたのかな。「ねえ、手紙かいたの。先生、届けてくれる?」と聞いたこともある。「誰に?」「ゆうこちゃん」空っぽのベッドを指さして、ゆうこちゃんが好きだった、ぴんくの折り紙にぴんくのクレヨンで手紙を書いた。いくつか年上の女の子に聞いて、ハート型に折ったりもした。その手紙は、今は届けられないから。テツヤくんがおじいちゃんになったら届けられるようになるよ、そう言われたので、おじいちゃんになったらボクが渡すね、と話は終わった。っその手紙は今も手元にある。何度も開いては折り直した紙はボロボロになっていた。文面は見なくても覚えている。『ゆうこちゃんへ。げんきですか。ぼくはげんきです。てんごくにはいけましたか。きれいなところですか。てつや。』そう書いた。『ぼ』と『ま』の向きが逆で、でも、『は』はきちんと書けていた。返事を急いでいたわけでもなかったから、その時はすぐに手紙のことは忘れてしまったけど、誰かが死んでしまった時だけ、思い出して、その手紙を読んでいた。なんの意味もなかったのだけど、いつになったら、渡せるかな、と思い出すのだ。

 半分も行けてはなかったはずだが、幼稚園は楽しかった。初めて会った子供とだってすぐに仲良くなれる年頃だ。休みがちだったボクでも、行けば、すぐに誰かと遊べていた。今と違って、明るかったというのもあるが。プールにも運動会にも参加したが、すぐに倒れて、半分もやれなかった。友達もボクが病気だということなど知らないから、体の弱い子、という認識だった。ボクが倒れても「テツくん、またか」と思う程度だったはずだ。卒園式は最初から最後まで出席できた。そのあとのものは何も出れなかったけれど。幼稚園に通っていたころのボクの写真はみんな笑顔だった。病院でも幼稚園でも笑っていた。
 
 小学校に通い始めてからのアルバムは、全く笑っている写真がない。初めの方は笑っているのだ。入学式の写真も笑っていたし、初めての遠足の動物園の写真も笑っていた。だんだんに笑顔が減っていって、途中は学校の写真も病院での写真もほとんどない、と言えるくらい写真自体が減った。

 ボクが笑わなくなったのは、いつだろう。小学校三年生くらいのことだったと思う。やはり、休みがちだった。幼稚園と違って、小学校の友好関係は一朝一夕で成り立っているものではなかった。時々、学校にくる体の弱いボクは友達がいなかった。体育をすれば倒れるし、休み時間もみんなと一緒にドッジボールはできなかった。外で遊ぶことが止められていたのではない。ボクが途中で倒れたら、みんなの遊びは中断される。誰かが付き添って、保健室まで行かなくてはならない。迷惑をかけるだけだからだ。嫌われたくなんてなかった。ボクが病気だということはみんな知っていたから、ボクに近付く時はとても遠慮がちだったし、遊びに誘われることもなかった。授業中に具合が悪くなったりするのは、特に問題ないのだが、体育の時間に倒れると「だったら、はじめからやんなよ」と言われていたことは知っていた。小学生だけではないが、子供の世界で中心にいるやつというのは大体、運動のできる子で、そういう子が体育を嫌いな訳がない。体育の時間を短くされるのは嫌だったのだろう。そういう子が言えば、それはクラスの意見に等しい。まず、相当に運動が苦手な子でもないかぎり、みんな体育は好きだ。
保健室で目を覚まして、保健の先生はえらいね、といつも頭を撫でてくれた。さすがに恥ずかしいからやめてくれ、と言っていたはずだが、一向にやめようとはしなかった。保健の先生は、四十代半ばくらいの優しいおばさんだった。

 「先生、ボク。十五歳で死ぬんです。高校生になれないんですよ」

 なんとなく言った。同情も心配もされたくはなかった。けれど、言ってしまった。なんで、言ったのかは分からない。心のどこかでは同情してほしかったのかもしれない。優しくしてもらいたかったのかもしれない。
その時、先生がどんな反応をしたのかは見ていない。すぐに寝てしまったのだ。みんなと話を合わせたくて、夜更かししてゲームをしたせいだった。どうせ、勉強は通信教育で先に進んでいたし、授業に出る必要はなかったし、休み時間の教室にいたくはなかったから、元から保健室でサボるつもりだった。
 
 学校が嫌いになり、友達はいなくて、読書だけを趣味として相変わらず入退院を繰り返した。ボクが笑わなくなった小学校三年生の頃、症状が悪化して、死の瀬戸際をさまよった。死んでもいいや。こんなに苦しいんだったら、死にたい。だって、どうせ死ぬんだろ。今、死んだって何も変わらない。そんなことを言ったら、両親だって、先生だって悲しむことは分かっていたから、誰にも言ってない。苦しい時もあったが、強い薬の副作用でずっと眠気が収まらず、ずっと、ぼんやりしていたか、寝ていたから、その頃の記憶はない。あまりにもその様子が痛々しかったのだろう、写真も全然撮っていなかった。

 なぜか、ボクは復活して、一度は峠を越えかけたのに戻ってきて、前と同じような入退院を繰り返す生活を送っていた。今までに比べて、体長はすこぶる良かった。それでも、普通の子に比べたら、『体が弱い』ことに変わりはないのだが。保健室でごろごろしている回数は減った。一人でいることにも、誰かに影口をたたかれることにも慣れた。ボクの病気はボクの所為ではないから。逃げにも近い考えだが、嘘ではないのである。いたりいなかったり。いても静かに読書をしているだけ。影の薄さは、ここで習得した。目立たないように、目立たないように。そうやって、人の動きを観察して、動いてきた。意識して行っていたのは初めだけで、すぐに無意識にできるようになった。倒れる前に具合が悪いから、と引き際もわきまえるようになった。毎日は退屈だった。死を待つだけの日々だった。死ぬことは少し、恐かった。でも、死にたくはないけれど、生きたくもなかった。生きている意味を感じられなかった。こんなのは時間の無駄でしかない。さっさと死ねばいい。医療保障の範囲外の医療費も馬鹿になっていないだろうし、こんな無気力な息子を仕方ない、と受け止めなくてはいけない両親が可哀相だった。病院の先生も看護師さんもこんな救い甲斐のない子供のために仕事はしたくないだろう。

 だから、死ねばいいのに。

 自ら死ぬという選択肢はない。そこまで死にたくはないから。
 自殺は無気力よりも人を悲しませる気がした。仕方ない、ことではないから。


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