朝凪
 











『朝凪(あさなぎ)――夏の晴れた日の朝、海岸地方で起こりやすい無風現象。海面と内陸に温度差が生じるために昼は海面から陸地に向かって潮風が吹き、夜は逆に陸から海に向かって陸風が服がその交代時には海面と内陸の温度差がほとんどなくなり、風がなくなる。これを凪といい、朝の場合が朝凪。(引用元・合本 俳句歳時記 第三版)』



    朝凪といへども浪は寄せてをり  平井照敏



 空の端がやっと明るくなり始めた。青いような赤いようなどちらとも取れない色を夜に滲ませながらゆっくりと侵食していく。薄くかかる雲に色が一層淡く鈍いものになる。その様子に先日、古典の授業で習った枕草子を思い出す。一つ反論するとすれば、綺麗じゃない空なんてないのにな、と黄瀬は半袖の腕をさすった。こんな季節だというのに、肌寒かった。気温の割に湿度が高いからなのか、中途半端に汗のせいで体が冷えていた。
「おーい、黄瀬」

 後ろから呼ぶ声に黄瀬は振り返った。

 「みやじさんっ!!」

 駅の改札から出てきた宮地にこれでもかというほどに大きく手を振った。宮地は呆れたように笑いながら黄瀬の横までやってくる。

 「随分、早い時間に呼び出してくれたな」

 「あ、もしかして怒ってる?」

 「怒ってねーよ」

 黄瀬がほんの少し見上げると宮地はくしゃりとその明るい色の髪を撫でた。久しぶりの感覚になんだかこみ上げるものがあった。胸がいっぱいって今みたいなことを言うんだろうな。軽く目を閉じれば、少し間を置いてただ唇の表面を撫でるだけのようなキスが降ってくる。二、三度繰り返し、もう終わりなのかな、とうっすら目を開ける。

 「恥ずかしいだろ、馬鹿」

 宮地の大きな手のひらで目を隠される。微かに湿っていて、でもひんやりと冷たい手が気持ちよかった。

 「相変わずっスね」

 真っ暗な視界。なんとなく、不安になって手を伸ばす。すぐに宮地の体に触れた。抱きついたら暑いと怒られることは経験済みなので、そのTシャツの裾をそっと掴んだ。

 「……そういう可愛いことしないでくんねーかな」

 「ねえ、オレからもしていい?」

 宮地の腕を外しながら微笑んだ。宮地から肯定の言葉はなく、ただ目蓋が閉じられた。黄瀬は宮地の首に手を回し、ほんの少しかかとをあげる。ついこの間まで新鮮だったこの感覚が当たり前になりだしている。柔らかい髪の間に指を入れると、眉を寄せるその仕草が可愛い。オレも目を閉じていると信じているんだろうか。絶対に開けんなよ!! と何度も念を押されているけれど、いつも目を開けてキスをする。一秒だって見逃したくない、大げさでなくそう思うのだから仕方がない。
そろそろ今日の目的地へ向かわないと朝練に遅刻してしまう。
仕上げ、というように宮地の唇をぺろりと舐めあげて体を離す。

 「っっなにすんだよ!?」

 「うみ。うみ、行こう」

 潮風に傷んだ家の間からきらきらと反射している部分を指さす。いつの間にか、紫も青も橙も混ざりあって、白い空。どこか寂しい印象のある色を映した海。
 宮地が手を伸ばしてきたので、また撫でてもらえるのかな、なんて思ったらでこぴんをされてしまった。指の長い宮地のでこぴんは痛い。しかも、容赦なくかまされた。とても痛い。

 「ったく、カッコつけたことすんなよ」

 「オレ、モデルなんスけどぉ〜。この顔が金になるんスよ」

 「俺には関係ねえし?」






 スクールバックを肩に背負って、宮地を振り返る。ポケットに手を突っ込んで宮地は笑った。見ろよ、と顎で示す。

 「あ、波ない」

 砂浜を駆けると、細かい砂が散った。目の前に広がる海には波はなく、潮の匂いはするのに海辺特有のべたつくような重さのある風がなかった。湿った空気がそこに停滞し漂っていた。

 「朝凪、って言うんだぜ」

 「凪……って風のことじゃないんスか?」

 「風がないことを言うんだよ」

 ローファーを脱いで、ズボンをまくる。スクールバックを靴の横に放るように置く。砂まみれになんぞ、と宮地が声をかける。

 「宮地さんも入ろ」

 「石田純一かよ……靴下はどうした」

 「ぽっけにあるっス!!」

 スニーカーのかかとに手をかけて、宮地も靴を脱いだ。裸足で水に触れるか触れないかの際に沿って歩いている黄瀬。時折、足を止めてはしゃがむ、を繰り返していた。


 「なにしてんだよ」

 「こっち、きて」

 「?」

 手招きする黄瀬の元へ早足で近付く。雲はどこかへ流れていってしまい、ほぼ明けきった空は白さも朱さもどこかへやってしまい、夏らしい青さに変わっていた。たかが数10分の間にどれだけの色を見ただろう。

 「これ、拾ったっス!!」

 「ガキか」

 白い貝殻をここぞ、とばかりに見せつける。呆れるどころか、興味なさそうに頷かれる。二人は縦に並んで、波の作る曲線をなぞる。黄瀬の足跡を避けるでも被せる訳でもなく、ちょっとどこを歩くかも考えたが、宮地は、結局横に並んだ。隣の方が落ち着く。 その様子に黄瀬がドヤ顔で宮地を見た。
  
 「んだよ」

 「宮地さん、可愛いなぁって」

 「黙れ、埋めんぞ」






 「うわー、足べたべたするっス」

 「そこの便所の水道で洗ってくれば?」

 「え。いやっス……」





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