006.5
くっついてその後
HRを終えて、他の運動部の奴らと一緒にジャージに着替えてから、オレは美術室へ向かった。
もう何度目か分からない訪問だ。いつ行っても、教室の前の方で須藤は絵を描いていた。真剣な表情で、えんぴつをすべらせていく姿はどれだけ見ても飽きなかった。
ただずっと澄ました顔をしているのではないのだ。たまに眉間に皺を寄せて険しい表情をしたり、たぶん、上手く描けたときなのだろう、僅かに目を大きく開いたりするのだ。と言っても、それも最近の話なのだが。オレがそんな些細な変化に気付けるようになったのか、須藤が人前、またはオレの前で描くことに慣れたのかは分からなかった。やっぱり、押し掛けはじめの頃は、須藤が緊張してるのはよく分かったし、やっと他人感がなくなった気がしなくもない。
ていうか、両想いのはずなんだが。
絵なんて、中学の美術の授業以来描いてないし、そもそも授業だって適当にこなしてきたオレには全く想像もできなかった。人に絵を描いているところを見られるっていうのは嫌なものなのか、それともどうでもいいものなのだろうか。
須藤は、こんなにガン見されていても平気なのだろうか。鬱陶しくはないだろうか。はっきり言って、邪魔なのではないだろうか。
それに関しては、いつも考えていた。いろいろと思うところもあるし……。
「あ、白坂」
今まで、君、としか呼ばれたことがなかったから、苗字を呼ばれるだけで、どこかくすぐったいような気持になる。
「今日もひとり?」
「もう、そう聞くの辞めたら? 分かりきってる」
「なんていうか、天気の話するようなもんだよ。気にするなって」
オレからすれば、須藤がひとりじゃないと困る。せっかくふたりきりになれるのだ。そもそも、美術室以外で会ったことが未だにほとんどない。
廊下で声をかけられるようになったことが嬉しい。向こうから気付いてくれることは滅多にないけど、オレが呼んだら応えてくれるのだ。
「何を描いてるんだ?」
石膏が見当たらなかった。いつも美術室のどっかしらでキメ顔しているというのに。そして、須藤の視線を独り占めしているはずだというのに。
「出すの手伝う?」
須藤はいいや、と首を振った。そして、机の下から椅子を出そうとしていたオレに「こっち来て」と自分の隣のを指さした。
「珍しいね」
須藤から場所を指定されたのは初めてだった。
勝手に斜め後ろを定位置にしていた。最近は、須藤が描きたいって言ってくれたので、描きやすいかな、と適当に想像して、ちょっと離れた位置に椅子を設置していたし、この距離はなかなかない。
「せっかくだから、君を描いてみたくて、その」
俯き気味になり小さな声でごにょごにょと続けたが、聞こえなかった。
何が、せっかくなのだろうか。いつも描いてるじゃないか。
リュックを机の脇に置いて、木の椅子を須藤の隣に並べる。
オレが須藤の方へ体ごと向けると、須藤は頷いた。
「はい、ばんざーい」
「ばんざーい……?」
言われるがまま、両手を上げる。パーカーはリュックの中にしまってあった。つまり、長袖Tシャツ1枚だったオレ。須藤のつむじが目の前に見えたと思えば、一瞬にして視界が薄暗くなった。
「さすがに寒いよ……」
いつだか、暑がりだとは言ったことはあったけれど。
あっという間にTシャツを脱がされてしまった。広い割に(しかも、ふたりしかいないのに)ばっちりと暖房の効いた美術室はいつも暖かかった。須藤もワイシャツだけで、セーターやらブレザーやら着てないから、暑がりのオレがTシャツ1枚でもなんらおかしくはなかった。しかし、だ。さすがに上半身裸は、肌寒い。はっきりと寒いと感じないあたりは、やはりオレなのかもしれないけれど。
たまに空気が通るとぞわっとする。
「風邪ひきそう?」
「風邪はひかないと思う」
風邪なんてここ何年もひいていない。真冬に、プール(室内だけど)上がった後、たいして拭きもしないで、そのまま自転車に乗って帰っているオレが、もうあとどんな状況に陥れば風邪をひくというのか。
「まず、どうして脱がしたの」
「描くから。ねえ、触っていい?」
さっき言った通り、ということみたいだ。せっかく、というのはこういうことか。もごもご言ったのはこれか。オレの裸ね。
先日、告白もしたし、答えも聞いた。キスもした。したけど、どうも、こいつが好きなのはオレじゃなくてオレの筋肉だけなんじゃないか疑惑がちょっとばかり大き過ぎる。
描きたいって言ってくれたのも、たまたま目の前にいた「人間」がオレだったからに過ぎないのではないか。オレが、あの場で石膏でない物体だったから、描かれたんじゃないのか。
そりゃ、こっちの片思いだったし、ここまで無理やりにもこじつけて、話す機会があるだけでも十分幸せなんだけど。人間というものは貪欲で一個手に入るともう一個も欲しくなってしまうものなのである。
一番まずいのは、須藤に触られて、オレが普通でいられるかどうか。だって、生だぜ……言い方悪いな、素肌だ、素肌。
何がどう、普通じゃなくなるのかは分からないが、涼しい顔していられるとは思えなかった。
こっちから、手を引っ張ったり、背中叩いたりはしたけど、須藤からっていうのは、これが初めてで、そう思うと、とてつもなく緊張してきた。心臓の鼓動している音がかなり大きく聞こえる。
「い、いよ」
つっかえながらもOKサインを出すと、須藤は神妙な表情で腕を伸ばしてきた。
どっから来るっていうんだ……どっからでも来い!!
「変な顔してるぞ」
須藤の両手がオレの頬に添えられた。
「そ、そうかな?」
「ああ、なんか苦しそう」
「きみって、普通にそういうことするよな」
これが無意識なことはよく分かっている。キスでもしそうな動きだったけれど、そんなことは全くもって考えていないことも知っている。もう、期待なんて抱いてはやらん。
「うーん、そんなつもりはないんだが」
須藤は、なんかこう、似合わない口調で話す。似合わない、というわけではないけれど、堅い言葉遣いだ。
「前、オレが机におでこから突っ込んだ時も、ひとのおでこつつくし」
「それとこれは全然、レベルが違うんじゃないか?」
オレからすれば、一緒なんだよ。好きな人が触ってきたらびびるってものだ。
「こういうこと、」
言ってるんだよな? と言葉の続きは、随分と耳の近くに響いて、すぐ目の前に須藤の黒い虹彩が見えていた。一瞬、ピントが合わなくて、数度の瞬きをし終えた頃には、須藤は離れていた。
「……結局、どういうこと!?」
分かっているようで分かっていない。そう、須藤は分かっていないのだ。額をつつくのと、キスするのが同じ接触であっても意味合いは違うと分かっていながら、オレがきみとキスしたいと思っていることは分かっていない。
もしかして、オレとしたくないのか、オレとキスをしても問題がない関係だっていう自覚がないのか、そもそも、オレとキスするという概念がないのか。忘れているのか。
いや、どちらかというと、覚えていない、という方が近いか。定着していないのだ。
キスしたっていいという感覚が定着していない。石膏とキスするのにオレとはしてくれないというのか。
ちなみに須藤は、この間もヘルメスとキスをしていた。気付いてないみたいだったし、黙って終わるまで見ていたが、長かった。石に嫉妬しているオレが馬鹿なのかどうかは知らないが、嫉妬のひとつやふたつしたくなるというものである。しかし、オレがいたことにようやっと気付いた須藤が「君と間接キスしたんだと思ったら、恥ずかしくなった」なんて、顔を少しだけ赤くして、目をぎゅっとつむって、なんだか不器用な照れ顔をしていて可愛かったので、嫉妬はどこかへ吹き飛んだ。そこで、「オレとの間接キスを求めてヘルメスにキスしたのか」「ヘルメスにキスしてからオレとの間接キスだって気付いたのか」と、そのどちらかによって、オレの嫉妬心は帰ってこなくてはいけないことになる。
オレのライバルがヘルメスであることに変わりはないようだ。
間接キスなんてまどろっこしいことはもう必要ないといつになったら知ってくれるのだろうか。
「どういう、って……言わせないでくれ」
そこで、照れるか。そうか、照れるのか……。
いろいろと問い詰めたいというか、しっかり伝えたいことがあったはずだが、喉元まで出かかった言葉がもう一度、食道を戻っていった。
「いいよ、もう。で、力こぶでも作ればいい?」
「力こぶはいい。でも、あとで見たい」
オレの態度は終始変わっていないと思うけれど、須藤の態度は幾分か柔らかくなったと思う。比べてみれば、とても素直だ。冗談もたまに言うようになった。果たして、どの程度の本音を吐いてくれているのかは定かではないが、その量がぐんと増えたことは確かだった。
一目惚れした須藤は、少々大げさかもしれないが、作りものみたいで綺麗だったし、なんというか、冷たくて人口物みたいなイメージだったのだ。人間よりも石膏に寄ってた、って感じだ。
あまり笑わないし、言葉にも愛想はなかった。たまに廊下で見かけるときも、友達とは一緒にいたが、決してバカ騒ぎなんてしていなかった。死語のような気もするが、クールな感じだな、と思っていたのだ。それが、この間から、すぐ顔を赤くするし、やっぱり下手だが、笑いもする。爆笑するところは見たことはないが、声をあげて笑ったり、ということもあった。
個人的に一番ぐっと来たのは、どんな顔してるか分からないから見ないで、と片手で顔を隠して、そっぽを向いたときだった。
「斜め上見て」
言われた通りに右の首筋を伸ばして、ちらりと視線を投げる。つ、と須藤の指が顎を押した。指先まで、本当に冷たかった。
「鎖骨だ……」
関心でもしているかのような、吐息混じりのつぶやきが聞こえてきた。指で押さえられている以上、その表情は見えなかった。
いい? と問いながら、もう片方の手がオレの肩にかけられた。ひやり、とそこから熱が奪われていくようだった。
肩先から、三本の指が並んで中央へ向けてゆっくりと滑り出した。
鎖骨の始点だか終点だか、体の中央側から、今度は耳の下まで指が登った。
「これが胸鎖乳突筋」
鎖骨のくぼみの上をとんとん、と叩いた。
「これが広頚筋で」
顎のすぐ下、ぼんやりと顎と首の境だな、なんて思うところらへんから顎の先端にかけての筋をぐぐっと二本の指でなぞった。撫で上げられると、鳥肌が立ちそうだった。ぞわり、と背中にくるものがある。
なにがどうなっているのか、よく分からないが、とりあえず、須藤の指がオレの首元を行ったり来たりしているのだろう。くすぐったい、というよりも冷たい。上半身裸でも、結局、寒いとは感じなかった。寒いと思わせるのは、むしろ須藤の指だ。
「これが顎二腹筋、あ、のどぼとけ」
首の真ん中、喉仏をぐるり、と指先が一周した。そこを中心に、上下した須藤の指が僅かに圧をかけた。なにが楽しいのか、喉仏をぐりぐり、と押してくる。苦しくはないが、喉の奥がむず痒いような、もどかしいような感じがあった。
「西洋だと、アダムの林檎って言うんだって」
「なんか聞いたことある」
「アダムが林檎を詰まらせて死んだからって話だけど、白雪姫もそこからきてるのかな。あ、振動伝わってくる……」
須藤がどんな顔をしているのかすごく気になった。
「もっと、触りたいんだけど、苦しい? 駄目そうだったら、手あげて」
「歯医者みたいだな。いいよ、たぶん、平気」
一度、顎を押さえる指も含めて、すべての指が離れた。首を下げて、須藤を見たが、表情は絵を描いていると同じだった。そんなに真剣な顔して、筋肉や骨を撫でられても……。なんとも言えない、複雑な気持ちになった。須藤は本気なのだから、真剣であることが正しいのだが。
それよりも、机の上に広げられた本の方が気になった。
「その本は?」
「今日は白坂来るっていうから、さっき借りてきた」
「なんの本」
「筋肉と骨の本。なんか医学っぽいやつ」
それを片手に筋肉を見ていたのか。須藤だったら、筋肉の名前くらい全部知っててもおかしくなさそうだ。流石に、そんなことはなかったか。筋肉っていくつくらいあるのだろうか。
「上向いて。そっちの方がはっきり見える」
手が首の横に添えられて、たぶん、親指の腹が喉仏の上に乗った。ぐり、と、さっきよりも強く押されると、しゃっくりでも堪えているときのような、半ば不快感にも似たものが喉に訪れた。骨の先端をとんとん、とつついて、皮膚の下で動くような感じ。須藤が、指で骨の形を見ているのだと、オレもちょっとした息苦しさと共に感じた。
「ん……すどう、ちょっと」
「苦しい? ごめんね」
すぐに、ぱっと手が外されて、須藤はオレの顔を覗き込んだ。
「苦しくはないけど、もどかしいかんじ」
「目が潤んでる」
生理的な涙、というやつか。確かに目元に触ると、少し指が濡れた。全然、気づかなかった。
「ほんとだ。……なんかあった?」
須藤が、つい、と目を逸らした。所在無さげに視線が宙へ。
「あー、えっと、なんでもない」
「なんでもなくない」
「……さっきの白坂、ちょっとエロかったなって」
何もかもすっ飛ばして、須藤の口からエロい、とかいう単語が聞けたことが、どうしようもないほどの興奮を抱かせた。オレも立派な男子高校生だから、まあその、それなりの欲求がありまして。もちろん、須藤と会って話せるだけで、満足感はあるし、なんというか、幸せだなと思う。でも、ふと、好きだから、いとおしいからキスしたい、じゃない、抑え切れなさそうな突発的な触りたいとか、そういう衝動に襲われるときがあった。
まあ、今なんだけど。
なんて顔をして、そんなこと言うんだ。身も蓋もないが、そんこと言ってるきみの顔、十分にエロい。そんな安っちい言葉にまとめてしまうのはもったいないが、オレのボキャブラリーにはそれくらいしか表現する言葉がなかった。
「オレにエロいって、冗談言うなってば」
「冗談じゃないから、困ってる」
「オレが困る」
沈黙が訪れた。確かに須藤は困っているようだ。
そういう顔をしていた。
眉を寄せて、くちびるを少し噛んでいる。目は少し伏せられていて、たぶん、オレの腹でも目に入ったのだろう、慌てたように目をつむった。
余裕がない、というのが見て取れた。
もちろん、オレも内心は大パニックなのだが。
「あのさ、いま、どんな気持ち?」
須藤にも、ちょっとそういうことしたいという気持ちがあるのなら、遠慮せず、オレもその旨をきっちりと伝えたいのだが、嫌がることだけはしたくない。そのための確認のはずなのだが、どうもその意図をまったく含んでいない言葉が出てきた。日和った。
「……どんな、というと?」
「キス、したい、とか」
一拍置いて、俺も、と小さいがはっきりとした声が返ってきた。
目を合わせるのは、気恥ずかしくて、それは須藤も同じようで、目を逸らしつつ、お互いに腕を背中に回した。ワイシャツの下の体温を感じながら、先に須藤が首を傾けたので、それに合わせるように逆向きに首を下からすくい上げるように傾げた。
須藤の手がオレの腰あたりに当てられた。自分の手が冷たいのを考慮してなのだろうけれど、本当にそっと添えるだけ、という触れ方はどこかおぼろげで、不安な感じがした。あと、何度も言うけどくすぐったい。
須藤のくちびるは、ヘルメスに比べるとあたたかいし、柔らかい。ふと、ヘルメスをファーストキスにカウントするかどうかという議題が、脳を横切ったが、すぐに追い出して、集中する。
数十秒、大して長いとも思わぬうちに、オレは空いていた方の手で、須藤の顎を支えた。びくり、と体が後ろへ下がったのを、きっちりと押さえた。首の角度を変えて、もう少し深くキスできるようにした。
今まで、ぴたりと閉じられていたくちびるが開いていた。須藤がどんな顔をしていいるのか、今度はそれが怖くて見たくなかった。体を軽く離して、目線を決して上げないで、そっと、須藤の下くちびるを舐めた。そこへ、くちづけて、僅かに開いたくちびるの割れ目へ舌を伸ばしてみる。
つん、と舌の先へ当たるものがあって、すぐにそれが須藤の舌だと気付いた。
嫌じゃなくて良かった。
ほっとしたはずなのに、急に緊張してきた。むしろ、今まで緊張を感じていなかったのがおかしいのだ。それくらい、集中できていたということなのかもしれない。
須藤の舌の裏へ、自分の舌を挿れた。ミント系のすうっとしたものの、余韻のつくりものの甘さ。それが須藤の舌の味だった。
須藤のが、オレの舌の表面を逆立てるように、ざり、と撫でた。そのあと、ぬるりと伸びてきて、上顎を左右に舌の先でつつくようにした。
「……っ」
上顎のくすぐったさが、どこをどうしたのか、痺れとなり足先指先へと走った。ぴりり、と細かい電流のような感じだ。
伸ばされて、固くなった舌先が、上顎の網目をなぞるように縦、横へと動くと、背中へも通ったその痺れに体が震えた。
思わず目を開けると、須藤は目を細めていて、どこか楽しそうに見えた。
負けたような気がして、須藤の舌に自分のを巻き付けるようにすると、ぴちゃり、と粘度を伴った水音が内側から耳へ音が届いた。
聞いたこともない響きだった。突然、いけないことをしてる、という気持ちが湧いてきて、照れくささからくる恥ずかしさ、なんかとは別のものだったが、確かに恥ずかしさだった。家族でテレビ見てるときに、突如始まったベッドシーンに、言いようのない気持ちになる、あれがまとまって込み上げてきた。そんな感じ。
その恥ずかしさが、よけいに気持ちを昂らせたようで、オレは須藤の舌を締めて、緩めて、という繰り返しのピッチを少しあげた。さっき須藤がしたように上顎をなぞるようにしてみたりもした。
くちびるを合わせる角度を変える度に、須藤の不規則で乱れた呼吸音と、それに混じった、オレの名前を呼ぶ声が、血流を速くした。
「しら、さっ……か、も、しぬっ」
須藤が、首を仰け反らせて、逃げた。
唾液の糸が、一瞬だけきらりと光って消えた。
「大丈夫か……?! ごめん、えっと、どこかいたい!?」
大きく息を吸い込んで、肩で息をしていた。体を震えさせているから、何かあったのか、なんかしてしまったんじゃないか、おろおろと、小刻みに震える背中に手をやるか迷っているうちに、須藤が顔を上げた。そして、オレに抱きつくようにもたれかかった。
「は、ははっ、痛いわけな、ふっ、ははは」
笑ってる。須藤が、爆笑に近いくらい笑ってる。
笑う度に、体を跳ねさせていた。素肌にこすれるワイシャツが、あたたかくてぎゅうっと引き寄せた。
「白坂は水泳やってるから、息継ぎが上手いのかな」
長く息を吐き出した。ひとしきり笑って、やっと、落ち着いたようである。
「息継ぎなんて、いつしたかも覚えてねえけど……それどころじゃなかったし」
「それどころじゃなかったから、息継ぎなんてできない、っていうのが俺だ。やっぱり、君は上手いんだよ」
声が後ろから聞こえてくる。
黙って、須藤を抱きしめてると、あたたかくて眠くなってくる。安心した。死ぬ、とか言うから本当に窒息死でもさせちゃうんじゃないかって心配になった。気持ちの起伏が激しすぎて、それだけで疲れてしまいそうだ。
性欲の次は睡眠欲って、本能のままに生きすぎだ。
「急に死にそうとか、こっちが心臓とまりそうだった」
「肺活量ないから」
「違う。息するの下手」
「だろ? 下手なんだ、俺」
「開き直るなよ」
「だって、事実だ」
オレの背中にあった須藤の腕が上へ下へと動き出した。
そういえば、オレ、裸なんだよなぁ。
「肩甲骨。背骨、じゃなくて頚椎。ここらへんに僧帽筋があって、大円筋がここらへん」
ぺたぺたと、冷たいものが触れる。なんかに似てるなと思ったら、湿布を貼った瞬間によく似ていた。冷たくて、ぺたりと張り付く感じがまさにそっくりだ。須藤の手のひらは、少し湿っていて、撫でようとすると引っかかるようだ。
「どっかにぶらさがって欲しい」
「ぶらさがる? 懸垂てきな?」
「そんな感じ。水泳選手の背中か……」
何を感慨深げに言っているのだろうか。
「オレ、薄い方なんだけど、もっとしっかり厚いのが好き?」
高校生としてはそうでもないが、水泳をやってる中だと決して筋肉が付いている方ではない。それなりに逆三角っぽさはあるけど、自分でも細い方だと思う。
答えによっては、これからのオレの筋トレのプログラムが変わってくるかもしれない。
「白坂の、好きだよ」
「きみばっかずるい」
「いや、俺に筋肉なんて、どこにもないし」
そうじゃないんだ。きみの言葉だ、ずるいのは。なんだよ。突然、好きって。びっくりするだろ。
というか、その言葉は触ってもいいということだろうか。
オレはきみに触りたいのであって、きみの筋肉に触りたいわけではないということは、言わなくてもいいか。
「じゃあ、触ってもいいの?」
「え、ああ、いいよ?」
分かってないよな、これ……。
武士は食わねど高楊枝、か、据え膳食わぬは男の恥、どちらだろう。武士ではないが、男ではある。据え膳か。
「もう少し考えてから答えてくれよ……」
「……えっと、あ、そういうこと?」
「ああ、そういうこと」
きっちりとズボンにしまってある、シャツを引っ張り出した。抵抗はないので、とりあえず、OKサインと受け取った。
ワイシャツの下に着ていた、たぶんTシャツの裾も出して、そこから手を入れる。
腰がなんか、こう薄かった。掴めるくらいだ。なんだか、柔らかくもある。肌もさらさらしていて、ずっと撫でいたくなる。
少しずつ、手を上にずらしていく。シャツがそれに合わせて、めくりあがり、白い肌が見えてきた。
腰から、すぐに肋骨の下へたどり着いた。
「須藤の肋骨。上が、外腹斜筋? とかいうやつ」
正しいのか知らないが、どこかで耳にしたことがあるような知識と呼べない程度の情報。うる覚えで言っていることがバレているようで、そうだよ、と苦笑混じりに須藤は言った。
笑うなよ、と指だけをさらに上へと伸ばした。
「……君のさわり方、嫌だ」
「え、ごめんっ!」
急いで、手を抜く。するり、とシャツが戻った。
いくら手が冷たくても、須藤の体はきちんとあたたかった。
オレの手も相当にはあたたかい方なので、須藤に冷たい、とは思わせていないはずだ。
「えっと、嫌、っていうか、」
「オレが悪かった。ありがとう、ダメなときはすぐ言ってくれ。その方が助かるから!」
「嫌じゃないっ、から、続き」
「……う、うん、続ける」
気まずい雰囲気が流れる。
須藤の肌に触ってるという現状もなかなか危なかったが、今度は腰が見えて、これまた危なかった。そこを肋骨だとか、なんとか筋だとか、あくまで須藤と同じ土俵で触ってることにして、自分を誤魔化した。
それなのに、だ。
オレの頑張り、もとい、誤魔化しが無駄になりそうだ。
「顔見えなくて、本当に良かった」
「俺もだ」
自分の顔を見られなくて、彼の顔を見ずに済んだこと。その両方だ。
もう一度、シャツの中へ手を差し込む。正面から脱がしたかったが、Tシャツを着ているのでは、オレも須藤に万歳させなくてはいけない。そうなると、須藤は風邪をひいてしまいそうだ。オレとは違うだろう。シャツのボタン外すくらいなら、平気かなと考えたのだが、今、その情景を思い浮かべて、いい加減にトイレに行かなくてはいけないところまできそうだったので、全力で、今日習った物理の公式を思い浮かべることにした。耐えろ、オレ。
「白坂?」
「え?! なんでもないっ! 須藤って、くすぐったくないの?」
腰のあたりを、指先でくるくると撫でてみる。できるだけ、そうっと。
「頑張ってる」
「なにを」
「笑うの。こらえてる」
やっぱり、くすぐったいのか。たまに、体がぴくり、と動くのを感じていた。これだけ密着していて、分からないことなんてあるのだろうか。そんな錯覚おこしてしまうくらいには近い。
「須藤が爆笑してるところ見たいから、いいよ」
指をばらばらに動かして、くすぐってみる。広範囲を一度にくすぐれるように。
服の上からなら、腰を軽く揉んだ方が効果があっただろう。素肌をくすぐるとなれば、それはあまりにも生々しいというか、あんなものむにむにできない。なんだろうか、オレが恥ずかしくて死ぬ。
「言われると、意地でも笑いたくなくなる」
言いつつも、震えているじゃないか。オレの指も捨てたもんじゃないな。あんまりひとをくすぐったことはなかったが。どちらかというと、くすぐられる方が多かった。
「んんんっ、少しくすぐったいかな」
「強がるなって」
腰から範囲を広げて、腹も含めてくすぐる。親指が、須藤のへそにひっかかった。へそのふちをなぞってみた。
「っうぁ」
「なに、へそ弱いの」
「知らない……」
オレの首筋に顔をうずめていた。こっちが裸なせいで、須藤のちょっとした息遣いというか、言葉と一緒に吐き出される息の温度なんかをダイレクトに感じてしまう。
背中を下へ向かってなぞるように長く吐き出された息に思わず鳥肌が立ちそうになった。
「なあ、白坂」
「なに」
「どっちかはっきりしてくれ」
もうヘタレという称号を甘んじて受けよう。
イチャつくのか、きちんと須藤の部活に協力するのかはっきりしろ、ということだろう。オレが、なあなあで須藤の邪魔をしていることはよく分かっていた。須藤が下心もなしに、人を脱がして触ってくるのが悪い、と責めたくもあるが、それは悪いことではなく、全部、下心に置き換えてしまうオレが100%悪い。分かってるけど、察してくれ……。
「……スケッチでもなんでもしれくれ」
「ありがとう、そういうところ嫌いじゃない」
須藤が体を離した。同時にすうっと引いていくあたたかさに今度こそ、鳥肌が立った。
オレの体には好きだって言ってくれるのに、オレには嫌いじゃないって……。そろそろ、オレの体もオレとして割り切らなければ。むしろ、ここまで鍛えたのはオレだから、すごいのはオレ、みたいな。いちまいち、ピンとこないがまあ、良しとする。
机に伏せられていた本を再び手に取り、オレを後ろに向かせた。
「そもそも、どうして絵を描くのにこんなことが必要なんだ?」
「まあ、俺が君の筋肉をきちんと見たいっていう下心が主だけど、解剖学? っていうのをきちんと学んだ方が上手く描けるもんらしい」
ふうん、と答えつつ、須藤が「下心」という言葉を使ったことにどきっとする。下心は下心でも、全く違うものだった。
「腕後ろに寄せて」
「こう?」
「ああ」
肩をぐっと後ろへ回すようにして、後ろで軽く腕を組んだ。胸を張るようにすると同時に背中の上方に力を入れた。
「こんな感じ?」
「助かる。ここが第七頚椎。僧帽筋、棘下筋、大円筋」
相変わらず聞いたことのない筋肉ばかりだ。第七頚椎って、一番下の首の骨、だよな。随分下にあるものだ。てっきりそこはもう背骨のひとつなのだと思っていた。首を下へ曲げたときに一番出っ張る骨のもうひとつ下の骨である。これはこれで結構出っ張っているが、上の骨(たぶん、第六頚椎ってことになるんだろう)の方が出っ張っていた。
「……肩甲骨の間に指、入れてもいい?」
「ああ、いいよ」
好きにしてくれ、としか言いようがなかった。肩甲骨の間に指って入れてみたいものなのだろうか。いやでも、須藤の肩甲骨なら、やってみてもいいかもしれないという気がしてきた。しかし、どういう心情からくるのかはさっぱり分からなかった。
アイシングするようなときは、その部位が怪我だとかで火照っているし、ぶっちゃけ冷たすぎて痛みしか感じないが、須藤の手は、冷たさが痛みに変わる、その寸前の温度を保っているようだ。本当に冷たい。
はまった、という感覚はなかったが、須藤の指が添えられている感覚はあった。
楽しいのかなぁ……。
「白坂、ありがとう。すごい楽しい!」
「そっか。それはよかった」
嬉しそうな声を出しやがって……。もはや、呆れも通り越して、未知すぎて、思うことがなくなってきた。オレは、須藤が満足してくれたらそれでいい。心の底からそう思う。それ以外、思うことがないとも言えるけど。
なんの筋肉がどこの骨から伸びてて、どこで終わりなんだ、とか、この動きをするためには、この筋肉がなくてはだめなんだ、とたぶん、オレにも分かり易いように説明してくれているのだろう。言ってることは分かる。分かるが、文字だけが頭の中を滑り抜けていった。
「やっぱり、つまらない?」
「いや、一応、運動している者として興味はあるけど……」
首を後ろに回して背中越しに須藤を見た。首のあとに続くように体もひねり、前を向いた。
「見ないと分かんない」
「俺は脱がないぞ。死ぬ」
「やっぱ、体弱かったりする?」
「やっぱ、ってなんだよ。俺は無遅刻無欠席だ」
むっ、と顔をしかめた須藤。
小学校時代に健康優良児の称号を得続けてきたオレと比べれば、須藤の方が確実に体は弱いだろうけど、今は関係ないので黙っておく。怒られそうだし。
頭痛持ち、とかそういうことはありそうなんだけど、どうなんだろう。そもそも、末端冷え性って痛かったり、そういう実害はあるんだろうか。手と足が冷たいだけなら、こんなに世の女性は困っていないはずだ。
「じゃあ、」
「脱がない」
「はは、だよな。分かってるよ。いいよ、風邪引かれる方が困るし」
「だろ?」
言ってくれるなぁ。
オレに好かれてる、ってちゃんと分かってくれてるから出る言葉だ。ちゃんとオレの気持ち伝わってるんだな……。ちょっと泣きそう。
なんて返そうか、迷っていた時間は大して長くなかった筈なのだが、須藤はその一瞬に何を思ったのか、「今のナシ!」と叫んだ。須藤は照れていた。
「いいや、今のアリだって。本当のことだし」
「……いや、ナシで! あーもうっ、いい加減に描くから! ほら!」
「どうしろと」
「えっ?! え、っと、」
「これでいい?」
いつの間にかえんぴつを手に取っていた。両腕をよく分からないがばさばさと動かして、面白いほどに慌てている須藤。
とりあえず、右腕に力を入れて、力こぶを作ってみた。さっき、見たいって言っていたし。
「OKするまで、その姿勢でいてくれる?」
その姿勢を保てるか、ということだろう。頷いて見せた。
すぅっと、真剣な表情になって、美術室にはえんぴつと紙が擦れる音だけになった。いいよ、と1分もしないうちに須藤が言った。そして、片腕だけ曲げて後ろ向いて、万歳して、背中丸めて、後ろで腕組んで、と指示と完了の合図の「いいよ」だけが繰り返された。オレは黙って頷いて、言われたとおりに姿勢を変えた。どれだけ、オレが須藤をじっくり見ていても、そんなことは全く気にならないのか、目が合うこともなかった。
慣れるくらいには描かれてきたと思う。けれど、あの頃とは、少し違う。もう両想いなのだから。だからこそ、寂しいような気がする。関係は変わっても、何も変わっていないという状況を象徴しているようだ。
と、同時に、思い出される。
オレが好きになった須藤はこいつなのだ。
描いている対象以外、何も見えていなくて、半ば睨みつけているようでさえある、堅い表情。ぴんと、張られた背筋と、汚れることも気にしないで動かされる手と。
そして、それがうってかわって、どうしてか熱っぽいような視線でヘルメスを見上げて、キスをする須藤が好きだったのだ。
今のオレは、生身でありながら、ヘルメスやマルスと並んだのだ。いや、最大の敵のヘルメスにオレは一応、勝ったはずだ。……追い付いたくらいかな?
須藤の、あの目線を独り占めできているのだ。そして、須藤の気持ちだって受け取れる位置に来た。もう一方通行じゃない。
そう思うと、思わず身震いするような 、喜びと興奮を混ぜ合わせたような、それでいて、静かなものが心を占領した。
まあ、今は一方通行だけど。須藤は、今、目の前にいるオレのことは、あくまで観察対象としてしか見ていないだろう。なにも思ってないはずだ。
よくよく考えれば、石膏と並べたことで喜んでいるオレは、割とかわいそうだし、好きな相手から、物理的にはオレを見ているけど心境的には(?)オレを見ていない、という状況に興奮を感じているオレも、どこかおかしい気がした。
「いいよ、ありがとう」
もう、こんな時間だ、と須藤がTシャツを手渡してきた。受け取ろうとしたが、その手を引っ込められた。
「須藤?」
「俺が脱がしたんだし、やる。座って」
椅子に座り、立った須藤を見上げた。オレのTシャツを広げて、被せられるようにもぞもぞと手を動かしていた。
「はい、ばんざーい」
「ばんざーい、あ」
「白坂、こどもみたい」
須藤が笑った、というところでオレの視界は暗転。久しぶりの衣類である。
袖には上手く腕が通って、残りは首だ。今の状態では、腹だけ晒されて、とても格好悪いことになっているんじゃないかと思う。
須藤、裾を引っ張ってくれないか……。
言おうにも、どうしてか何も言ってはいけない雰囲気を布一枚隔てた向こうから感じるのだ。そんな気がする。勘違いかもしれないけど。
中途半端にTシャツを着たオレと、そのTシャツに手をかけたままの須藤がぴたりと静止して、互いの間に流れた沈黙はどのくらい続いたのだろうか。一分もないくらいだろうか。ずいぶん長く感じたが。
謎の緊張感がここにはあった。
「なあ、白坂」
Tシャツの外側、けれど耳元で声がした。
「今度な、脱ぐの」
ずぼり、と首が通されて、視界は夕陽でオレンジ色だった。須藤は俯いていたが、残念ながら、今、俺は目線の下なのだ。急いで、上へと視線を遣り、わざとらしく時計を見ていた。
「やっぱ、ナシ、とか言わない?」
「男に二言はない」
さっきはあったじゃねえか、とは思った。須藤もそう思ったみたいだ。大事なことには、と呟くように付け加えた。
「一緒に帰ろう、チャリだろ、きみ」
「白坂、方向同じなのか?」
「大通り、出るよな」
「ああ」
Tシャツの上にジャージを羽織って、リュックを背負う。須藤はエプロンを紐も解かずに外す、というよりまさに脱いで、しかもそれをぐちゃぐちゃっと丸めてかばんに押し込んだ。片手で机も上のえんぴつやらを集めつつ、もう片方の手でジャケットを着ている。
横着してるし、雑だ。
「職員室、付き合えよ」
「いいよ」
いつも途中で帰るので、最後まで付き合ったことはほとんどなかった。職員室に鍵を返して終わりなのか。
壁にかかった鍵を取って、扉を閉めた。須藤が途中で引っ掛けたのをオレが力任せに鍵を回したら、まずそうな音がしたが知らない振りをした。
寒い廊下を並んで歩くのは初めてだった。
(2016/01/29 18:08:56)
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