きみと歩くこと。

 







部活が休みなのはいつ?
毎年、聞かれるこの質問。
答えはこれまた、毎年同じ。
「お盆だけ」
そうして、毎年、お盆の間だけどこかへ連れていかれる。
今年はどうやら海のようだった。


木兎は、コンビニの袋に自分の服一式を詰めた。財布と携帯電話とポケットがパンパンだが、気にしない。昨日のうちにざっと町を見て回ってはみたが、少年が何で喜んでくれるかは分からないところだが、多分、喜ぶ前に何もかもが初めて見るもので驚いてばかりになるだろうと予測していた。

「あーかあし!!」

少年からの返事がなくて、あれ? とテトラポットの淵から下を見る。口をパクパクとさせて少年は木兎に控え目に手を振った。その手が、朝日に決してきらきらと輝かない。どこか無機質な、それでいて、綺麗なものを失ったのだと知る。

「おはよ。耳は聞こえるんだよな?」

頷く少年。木兎は、テトラポッドを降りて、ヒレではなく膝を抱えていた少年をまじまじと見た。全裸である。改めて見ると、全裸である。今までと一切変わらない態度に、「ああ、いつも全裸なんだな」などと思う。

「立って。これ、服な。着方分かるよな?」
「うお?! まじで全裸だ……」

木兎、言葉に少し首を傾げて見せた。差し出されたビニール袋の中を覗きながら、どこか頼りなさげだが、少年は中からTシャツを出した。腕にビニール袋をかけて、Tシャツを広げて眺めている。

「あかあし、まず、パンツだわ。さすがに朝とはいえ、それはまずい。パンツこれな」

こくこく、と首を縦に振りつつ、Tシャツは木兎に渡す。木兎のボクサーパンツに足を通してあっさり履いた。どうだ、と言わんばかりに胸を張る。

「おっけ。次はTシャツ着て。んで、その次はこれね。ズボン。あと、底に入ってるのがビーサン」

少年は木兎の言った通りの順に服を着用して、岩の上でビーチサンダルを履いた。脚の指をにぎにぎと開いて閉じてを繰り返している。爪先を凝視している少年が、はたしてこのテトラポットを登れるのか心配になった。

「お前、ここ登れる?」

少年は、木兎に背を向けていともたやすくそれを登って見せる。テトラポットの頂点で、木兎を見て、微笑んだ。木兎もすぐに後を追った。
たまに車が通るだけの道路も波の音が聞こえてきた。いつもよりも遅く出てきたとはいえ、まだ6時になったかどうか、というところだった。土産通りが開くまでゆうに2時間はある。観光地の朝が早いのが幸いである。
覚束無い足取りの少年の手を引きつつ、どうしようかなぁ、と呟く。わざわざ道路まで出てきたものの、少年お目当ての車はなかなか通らないので砂浜に戻った。白い砂が、朝の光に眩しい。

「時間有り余るくらいにあるんだけど、あかあし喋れねえし、どうする?」

眉を寄せてから、首を傾げる。どうしてオレに聞くのか、とでもいったところだろうか。

「んーじゃあ、俺がひたすらなんか話すか。何聞きたい? あ、聞きたくないって言うのはナシな」
「改めて話すことなんかないわな。どうしよ」

少年が木兎の肩をつついた。少年はオーバーハンドパスの手付きをして、スパイクのモーションをして見せた。あっ、と木兎は声を漏らした。

「部活の話か!!」
「この間の合宿の話するか〜」

木兎は合宿の話に始まり、練習試合や公式戦であったことを事細かに話した。チームメイトはこんなで、学校の設備はどんなで、この間テレビで見た日本代表はどんな戦いぶりを見せたのか。そして、自分はどの選手のどんなプレーに感動して、今はその技を練習中なのだと。少年に息つく暇も与えずに語った。少年は頷くことしか叶わず、そして、木兎がそれを体験した時に覚えた感情をひしひしと感じていた。特別、話すことが上手なわけではなかったが、木兎の語りは聞き手を引き込むだけの力があった。もしかしたら、それは木兎にとって大きな存在であるバレーボールの話題だからかもしれない。それでも、少年は木兎の目を通して、体験を通してバレーボールの魅力を知りつつあった。

「今日のあかあしは表情が豊かだな」

首を傾げつつ、薄ら頬を赤らめた。自分の喉を指さしてから、両手でばつの形を作る。声が出ないから、という意味か。
木兎は少年の頬をぷに、とつついた。困ったように眉を寄せて、木兎の手を外す。ごめんごめん、と謝った。

「喉が乾いたな。まー、こんだけ喋れば当たり前か」

これ見てみ、と腕時計を示す。言われた通りに時計を見て、再び首を傾げた。

「そろそろ店が開くかな。普通は10時くらいに開くもんなんだけど、こういう観光地は朝早く出る人が多いから、早く開くんだよ」
「そろそろ行ってみようか」

木兎は立ち上がり、尻を軽くはたいてから少年に手を差し伸べた。何度目だろうかと、ふと思う。少年のしっとりと湿った、吸い付くようななめらかな手に触れながら、あと何回同じように手を取ることができのか。そんなことを。

「すぐそこに自販機あるから、なんか飲もう」

繋いだ手を引っ張りながら、ずんずんと歩を進める。コンクリートの階段は心配だったので、隣に並んで一緒にゆっくり登った。ぺたんぺたんとビーチサンダルが鳴るのがおかしいのか、少年は自分のかかとを見ていた。危ないから前見て、と木兎が促すと頷きながら、今度は木兎のかかとを見た。

「あかあしって水飲むの?」

階段を登って、道路を渡ったところに自動販売機がぽつりと設置されていた。木兎はポケットに手を突っ込んでむき出しの小銭を掴み出した。

「買ってみる?」

自動販売機の周りを一周してから釈然としない顔で木兎の手を見ていた少年に木兎は小銭を渡した。銀色のコインを入れる部分を指で示す。少年は100円玉と10円玉を手のひらに広げて、これまたじっくりと眺めていた。木兎の指示通りに小銭を投入し、光り出したスイッチと木兎の顔を交互に見た。小銭投入口と同じように指を指して、そこを少年が押す。その際、手が触れ合った。

「あ、ごめん」

首を振った少年。がしゃん、と音を立てて落ちてきたペットボトルに目を丸くしていた。木兎がかがんで、プラスチックのフタの下からペットボトルを取り出して少年に渡す。ペットボトルは見たことがあるのか、キャップを捻った。そのまま、それを木兎に差し出す。

「飲んでよかったのに。ま、いいや」

木兎がペットボトルの水を飲み、半分ほどの量になった。

「魚って水飲まないよな……あかあしってエラ呼吸? ん、肺呼吸??」

木兎の手からペットボトルを取り、おそるおそるといったように口を付ける。少しして、ごくり、と少年の喉が上下した。ペットボトルを両手でしっかりと持った。そして、無表情のまま、ペットボトルの狭い口をじっと見つめている。

「どした?」

少年の顔をのぞき込んだ木兎。少年は口をぱくぱくとさせてから、自分の口を指差した。

「ういいああんいえう? うん? あ、不思議な感じです!!」

ぐっ、と親指を立てて肯定を示した。フタ締めたペットボトルを木兎に渡す。木兎は、もういいの? と残りが少ないことを確認しつつ、少年に聞いた。太陽に掲げるようにして下から見上げれば、ゆらゆらと水面が、光が揺れるのが見えた。

「海の中から見る景色と似てる?」
「そっか、あんまりなのか」

首を傾げる少年に木兎は少し残念そうだったが、すぐに笑顔になり、少年の手を再び取った。歩を進める木兎に対して、少年は半ば引きずられるようにされつつも、何かを見つける度に木兎の腕を引っ張って、その足を止めさせた。

「そんなにいろいろ珍しいもんってあんだね」

感心したという風に言う木兎に少年は「やれやれ」とでも言うかのように肩をすくめた。
海沿いの車道から何本か入ったところに、市場が開かれていた。朝市である。

「あっちが、魚とか野菜とか。こっから先はお土産もん」

このために通行止めされた十字路の真ん中に立って、指を差す。人は決して多くはなかったが、時間を考えれば十分にいた。見て回っている誰もが旅行客なのか、と気付き、木兎は「結構いるなぁ」と呟いた。少年は、その呟きにまばたきひとつで応え、土産ものが売っている通りへ目を向けた。

「やっぱ、そっち?」
「あ、おい、ちょっと待てって」

今度は少年が木兎を引っ張って歩きだした。表情の乏しい印象はこのような状況になってもあまり変わっていなかったが、今ばかりは、楽しそうなのがよく伝わってきた。
地面にシートを敷いて、その上に並べられたいろいろなもの、机に並べられたもの。アクセサリーから、食器、家具、衣類、何から何までも指さしては首を傾げて「これは何か?」と少年は問う。
店を広げている人は、何も知らず声を発さない少年に一瞬、不思議そうな顔をするが、きっと同情心でも働くのだろう。少年への説明に詰まっている木兎の代わりに色々な話をしてくれた。

「もう水族館開く」

道に立った看板の地図で場所を確認して、朝市が開かれている大通りを曲がった。少し裏道に入るだけで、急に静かになった。

「水族館は知ってる?」

少年は首を横へ振る。

「魚とか、海とか川の生き物がいっぱいいて、名前とか生態の解説が読める場所。俺が全部読むから、なんでも」
「くらげもいると思う」

くらげ、という小さなつぶやきが聞こえたような気がした。少年が、わずかに口を動かしたのを見て、勝手に脳みそが音声をつけた。
そういえば、と思う。

「あかあしはさ、なんでくらげが好きなの?」
「やっぱ、食べるかんじ?」

頷いて、ゆっくり首を傾げた。何か言いたいことがあるようだ。しかし、ジェスチャーだけでは伝えきれないと思ったのだろう。中途半端に胸の前まで持ち上げた腕が意味もなく宙にくるり、と円を描いた。

「あした、聞くよ」

少年の顔がはにかんだ。
照れたようにかすかに笑って、けれど寄せた眉からは、明日の約束が唐突に結ばれてしまったことに対する申し訳なさのようなものを抱いているのが伝わってきた。
ぞくぞくした。
知りたいという好奇心と、その好奇心を満たすつて、である木兎を拘束してしまっていることに対する申し訳なさ。その間で揺れているからの表情なのだと分かることができた。
なんでも教えてあげたい、何かしてあげたい、自分のもてる全てで、少年を驚かせてみたかったし、喜ばせてあげたいと感じる。
自己犠牲や献身とはきっと違う。しかし、かなり近いものではあるだろう。こんな気持ちは初めてで、自分でも理解が追い付かなかった。
ただ、自分が教えたことで少年の表情が少しでも変わるのが、楽しくて嬉しくて、どうしようもないのだ。
そんな気持ちを伝えても、少年は、やはり木兎に謝るのだろう。

「行こう、きっとあかあしが知りたいことが分かる」

入場券を買って、少年の手を引っ張って館内へ入る。外の暑さと明るさが一瞬にして遮断され、視界はぼんやりと薄暗くなり、水色に染まる。ひんやりと、よく効いた冷房の風が、肌の上を滑った。
入口でもらったパンフレットに書かれたルートの通りに、ゆっくりと歩を進めていくつもりが、朝市を巡っていた時と全く同じで、少年が気になるものの方へ木兎を引っ張って回った。水槽のガラスにぎりぎりまで近付いて、目の前をふい、と横切った魚を指差して木兎に名前を尋ねてきては、木兎はすいそうの横や上にあるパネルと照らし合わせて答えていた。見たことあるの? と聞くと頷いたり、首を振ったり。
ほとんど全てのパネルを端から端まで読み上げて、適宜分からなさそうな言葉をなんとか伝わるように噛み砕いて説明した。
少年が一番喜んだのは、水族館を訪れる客の大半は、実際は大して興味が無いのでは、と思っていた「近海の魚たち」と銘打たれた水槽だった。日本の近海の魚なんて、沖縄にでもいかない限り食用になるならないかという地味な魚ばかりだ。それでも、少年にとって一番身近であり、気になる魚がいる水槽だった。

「あかあしがいる場所ってこんななんだな」

少年は頷かなった。じっと木兎を見つめた。
水槽の色を受けて、ゆらゆらと青い光が白い頬に模様を作っていて、瞳にも青いものが映り込んでいた。
水の中にいるみたいだ、と木兎は思った。しかし、少年はそう思っていない。だから木兎の言葉になんの反応も返さないのだ。
これは自分の住んでいる場所ではない、ということか。果たして、それはどういう意味なのだろう。

「次のスペース、くらげのコーナーだって」

何も言葉をかけることは出来なくて、少しの間、沈黙に包まれたまま見つめ合っていた。
木兎はただ、少年に魅入っていただけだが。
頷く少年の手首を掴んだ。

「見たことある?」

壁に埋め込まれた大小様々の丸い水槽の中をゆったりと回っているくらげをぼんやりと並んで眺めていた。
ほとんどの種類のくらげは見たことがない、という。今までと同じように、全てのパネルを読んだ。日本にいるくらげも多くいたが、地域が異なったり、深海に生息していたりと、きっと同じ海でも少年とは縁のない場所にいるくらげなのだ。
大きな壁一面のミズクラゲの水槽を見た時に、酷く驚いていた。どうして、と問えば、小さな円を描き、大きな円を描き、驚いた表情を作り直して見せてくれた。

「たくさんいてびっくりした」

少しだけ、人差し指と親指でそれを表す。
不正解のようだ。

「丸い!」

首を横へ、ぶんぶんと振った。

「あ、大きい!!」

ぱっと、目を大きく見開いて、ゆっくり頷いた。

開館からあまり時間が経っていないからなのか、館内にいる客はまばらだった。一応、観光地だろうに、とぼんやり思いながらも、少年と静かに水族館を回れることは幸いだった。

「ちょーっと、すとっぷ!!喉乾かない?」

ブースの角に自動販売機があった。少年にポケットから出した硬貨を握らせて、自動販売機のラインナップを全て読み上げる。

「なんでもいいぜ、勘で押してみ」

硬貨を入れて、自動販売機の目の前に経った。木兎がほら、と笑って見せると、水色と黄色のロゴが爽やかな炭酸飲料を選んで、押した。

「炭酸って、飲むの初めてだよな?」
「炭酸ってうーん、水に二酸化炭素を溶かしたもので、しゅわしゅわするやつなんだけど……。ま、飲んでみろって」

少年がペットボトルのふたを捻り、しゅわっ、と何かが吹き出したことに驚いたようで、目を丸くしていた。
平気だから、ととりあえず飲ませる。
ごくり、と喉がなり、ペットボトルから口を離した少年の顔をのぞき込む。

「えっ、あれ?! なんで、泣いてんの?! 炭酸ダメだった!?」

目には涙が溜まっていた。少年の表情を少々険しく思えた。

「い、痛い?? 平気? え、え、俺、どうしたら」

慌てて少年の背中をさすったり、目から溢れた涙を指で拭ったりとせわしなく動く木兎。その腕を少年がしっかりと握った。

「へいきです……? 大丈夫なの? 本当に?」
「泣いてるのに?」

ペットボトルを木兎に渡し、少年は両のてのひらで涙を拭き取った。にかっ、とらしくない笑顔をして見せた。いかにも作り笑いだったし、赤さが残るまぶたが、平気だということばを信じさせないでいたが、本人がそう言うのなら、と残りの炭酸飲料を一気に飲み干した。
空になったペットボトルを分別してゴミ箱に捨てながら、炭酸の強さが鼻の奥にきて、じわっと少しだけ涙が出た。

「残りのところ見に行こうか」

少年が、再び木兎の腕を引いた。
イルカショーもアシカショーも見て、小さな水族館を全て堪能し切ったふたりは、むわりと塩辛い風の吹く外へ出た。太陽の光と焼けたアスファルトからの照り返しに上からも下からも熱線を受けながら、どちらともなく、足はいつもの海岸へ向かっていた。
やけに段の高い階段を下って、砂浜に降りる。木兎がビーチサンダルを脱いで、片手にまとめたのを見て、少年も同じようにした。

「砂、暑くねえ?」

裸足の片足を砂に付けた瞬間、少年がぴょん、と飛び上がった。もっと早く言ってくれ、と言わんばかりに睨んだ。
木兎は、思わず声を上げるほどに笑ってしまって、睨む目線の強さが増した。
少年は、一度脱いだサンダルを履き直して、サンダルと足の間に入る細かな砂に顔をしかめながら、木兎の隣を歩いていた。

「海はいっちゃおうぜ」

小さな子供が水を掛け合ったりしている、水際で少年にサンダルを脱がせた。
薄く伸ばされた海水が色を変えた砂の上を撫でていた。
波に足の下の砂が攫われるのが面白いのか、すぐに消される自分の足跡を振り返ってばかりいた。
少年の脱いだサンダルを右手に、自分のは左手にぶら下げて、黙って歩き続けていた。
ついに砂浜の終着点、ここからは岩場になる。急な階段を登って、道路に出た。狭い歩道。腰ほどの高さのコンクリートの壁がずっと続く。

「この下だ」

コンクリートに登って、すぐ下を見る。積み上げられたテトラポット群。

「今日はここまでにする?」

木兎はもう少し、少年とぼーっとしているつもりだったが、半日以上連れ回して、少年には疲れが出ているようにしか見えなかった。
待ってください、そう言った。もちろん、聞こえないけれど。
少年が木兎のTシャツの裾を掴んだ。

「明日も来るから、ちゃんと」
「何持ってくる?」

ふるふる、と俯いて横に首を振る。

「明日、帰るんだ」

ぎゅっと、裾を握る手に力が込もった。
少年の肩を、抱き締めたいと思ったが、辞めた。
少年が手を離すまで、じっとそのつむじを見ていた。

「また明日」

コンクリートの上は見晴らしがよく、ぎらぎらと銀色に輝いていた。そんな強い光を放つ海よりも、ゆらゆらと揺れる朝の不思議な色をした海が好きだった。


何も持たないで歩く砂浜。ビーチサンダルのゴムと皮膚の間に細やかな砂が挟まって痛い。数日前と同じ歌声が聞こえてきて、木兎は歩く速度をあげる。

「あかあし」
「おはようございます」
「その歌、知ってる」
「オレも知ってます」

テトラポットの上から見下ろすと、少年と目が合った。木兎がにかっと笑いかけると、少年も笑みで応えた。
少年は持ち運べるような小さなラジオを傍らに置いて、そこから流れる音楽に合わせて歌っていた。

「それがラジオか!!」
「あ、そうです。大事な情報源です」
「俺も歌っちゃおうかな」
「一緒に歌いますか」

海水に沈んだ、平らな岩に躊躇なく腰掛ける。水の冷たさに一気に鳥肌が立った。

「そういえば、ずいぶん、早いですね」
「目が覚めたから」
「そうですか」
「やっぱ、あかあしの声が聞きたい。昨日聞けてないから」
「今度は一緒に歌ってくださいよ」
「ああ、何曲でも付き合う」

なんていいタイミングなのだろう。木兎が初めて少年の歌声を聞いたとき、歌っていた曲のタイトルが読み上げられる。
少年は、深く息を吸って目を閉じた。その静かな動作や表情、それなのに、歌う声は軽快だった。明るい曲の似合わない顔だと言ったら怒るだろうか。木兎は、大人しく歌声に耳を傾けた。


早く逢って言いたい あなたとの色んな事
刻みつけたい位 忘れたくないんだと
早く逢って抱きたい 全ての始まりがあなたとで
本当に良かったと心から思ってる

唇かんで指で触ってあなたとのキス確かめてたら
雨が止んで星がこぼれて小さな部屋に迷い込んだ

テトラポット登っててっぺん先睨んで宇宙に靴飛ばそう
あなたがあたしの頬にほおずりすると
二人の時間は止まる
好きよボーイフレンド

「形あるもの」みたい 感じてるあなたへの想いに
體が震える程あたしぐっときてるから

哀れな昨日おだやかな今地球儀は今日も回るけれど
只明日もあなたの事を限りなく想って歌うだろう

まつげの先に刺さった陽射しの上
大きな雲の中突き進もう
あなたがあたしの耳を熱くさせたら
このまま二人は行ける
好きよボーイフレンド

唇かんで指で触ってあなたとのキス確かめてたら
雨が止んで星がこぼれて小さな部屋に迷い迂んだ

テトラポット登っててっぺん先睨んで宇宙に靴飛ばそう
あなたがあたしの頬にほおずりすると
二人の時間は止まる
好きよボーイフレンド


「本当にその喉から出てるとは思えない声だよなぁ」

少年が薄く微笑んだ。木兎も満面の笑みを返す。
ラジオからはパーソナリティがコメントを挟みながらリスナーからのメッセージを読んでいた。その声はさざ波と混ざり合い、よく聞こえなかった。
昨日の話がしたい、と昨日までは思っていた。聞きたいことが沢山あった。声が出ないから、と飲み込んだすべてのことばを聞きたかった。
しかし、少年の歌声を聞いて、その表情を見たら、もういいか、と思えた。聞きたかった、その気持ちは消えていない。けれど、満足できたのだ。少年の歌声を聞いたから。
木兎がほんの一瞬、遠くの朝日へ目を向けた。ぽちゃん、と水音がした。きらり、と眩しく光るものが数m先に見えて、木兎は大声を出した。別れの言葉と感謝の言葉と、再会の約束をまだ昇り切らない朝日に向けて。返事はなかった。
腕時計のデジタルな数字は『4:43』を示していた。まだ早い。ようやっと夜の終わりが見えてきて、空の端の紫も薄くなってきた頃だ。
木兎の手のひらには、夢を証明するかけらが残されている。
少年の楽器みたいな歌声と波の音を耳の奥で、記憶として再生しながら、揺れる海を見ながら、帰路を歩き始めた。





△▽


春、新入生の季節である。梟谷高校の男子バレーボール部も例外ではない。入学式から1週間、仮入部期間が始まった。その初日、集まった新1年生が自己紹介をさせられていた。HRで遅れて部活にやってきた木兎は急いで部員の集まりの中に加わった。
そしてその時、聞こえてきた声に自分の耳を疑った。

「□□中学から来ました。1年C組2番、赤葦京治です。中学ではセッターをやっていました。よろしくお願いします」

周りは緊張しているというのに、そんな様子は一切見せず、どこかふてぶてしさを感じさせる少年は赤葦と名乗った。ゆっくりと自分の先輩になるであろう2、3年をぐるりと見回した。木兎と目が合うとわずかに口角を上げて、微笑んだように見えた。
木兎は声にならない何かが喉からせり上がってくるのを感じた。






「赤葦、いつかでいい。俺と海に行こう。まだ日の登りきらないような、そんな時間に散歩をしよう」



(交わらない世界のひとつにこんな終わりがあってもいいなっていうおまけ)

津軽海峡冬景色/石川さゆり
ハネウマライダー/ポルノグラフィティ
ハナミズキ/一青窈
ボーイフレンド/aiko