いちご中毒

 






黄瀬の鼻に甘く澱んだ造りものの苺が香る。酸味をどこかに置いてきてしまった偽モノ。砂糖と色素で彩られたやわらかいくだものを啄んだ。美味しい、と賛美する間も惜しい。舐め上げて、歯を立てて、すぐに焦れったくなってかぶりつくのはいつも黄瀬だった。久しぶりに前にした苺は蜜もかけていないのに潤った輝きを見せて誘惑する。そんなものを目前にして我慢なんてできるわけがないじゃないか。
分かっているのかいないのか。黄瀬自身、かなり高身長の部類に入るのに更にーー数cmとはいえ190に乗るか乗らないかは大きな差であるーー高い身長を有しているにも関わらず獣の目をする黄瀬にきょとんと首を傾げる宮地。黄瀬があざといなぁ、と漏らせば笑って応える。それはお前だろ、と。


一人暮らしの黄瀬の部屋は白を基調とした家具でまとめられていた。リビングにはソファーとテーブル、散らばった雑誌にテレビ、ノートパソコン。床やテーブルの上の雑誌だけが色を持っていて、今は窓から差し込む光に全てが橙に染まっていた。
リュックがどさり、と重さを主張しつつフローリングに置かれる。ダッフルコートの金のボタンはやはり橙を帯びていた。宮地が大きな手でボタンを外していく様をあぐらをかいてじっと見つめる。
「黄瀬は脱がないのか?」
リュックの上にコートを投げて、ソファーに腰をおろした。黄瀬も一度頷いて、制服のジャケットを脱いだ。美味しかったな、ちょっと恥ずかしかったけど、頬をかきながらリモコンに手を伸ばす。宮地が言いながら、その横顔をやはり、橙に染めていた。冬は日が暮れるのがはやい。いつの間にか半分も姿を仕舞ってしまった夕陽が目に入る。テレビは、ぐるぐるとチャンネルを切り替えても夕方のニュースともバラエティーとも取れない同じような番組ばかりが流れていた。
「なんもやってねーな、て、おい、ちょっ」
えい、とリモコンを操作していた宮地を押し倒した。呆気なくソファに倒れ込む。パーカーの前をはだけさせ、勢いでめくれたTシャツの下から高校の頃と変わらない締まった筋肉がちらりと覗く。リモコンが宮地の手を離れてカーペットの上に静かに落ちた。
「もう、待てないっスよ。何日ぶりだと思ってるんスか」
舌なめずりをすれば、ほんの僅かに甘さが残っていた。
宮地は覆い被さるようにした黄瀬に息を呑む。夕陽に影を作る黄瀬の面立ちに魅入った。黄瀬は口角を持ち上げて、隠し切れない飢えを滲ませた不敵な笑みを浮かべた。ただでさえ大きい瞳が更に丸く見開かれる。些細な反応すべてが黄瀬をひたすらに煽るばかりだ。揺らめく琥珀に口付けを落とそうと距離を縮める。閉じられた目蓋。音を立てて薄い皮を軽く吸う。宮地がびくり、と体を強ばらせたのが分かった。目蓋の緩やかな凹凸に合わせて黄瀬が赤い舌を這わせる。先端だけでくるくると円を描いてみたり、つついてみたり。
「……っ黄瀬」
首筋にか細い声と熱い吐息が触れた。ぞわりと背筋が波立つ。力なく黄瀬の肩を押していただけの宮地の手に力が入る。黄瀬は指先が食い込んだ肩にまで熱を感じた。
「こんなんで感じてるんスか?」
宮地は一拍置いてから、首を横に振ってそっと目を開けた。黄瀬と違い自由のきく片方の手で黄瀬の目を覆い隠す。
「じゃあ、どうしたらいいんスか? 俺は待て、って言われれば待てなくはないけど?」
黄瀬は否定されたことにも、自分と違って宮地が余裕たっぷりなことにも苛ついていた。待つつもりなんて毛頭ない。どうしてほしい? と耳元で囁けば、唇を噛んでだんまりを決め込む。そんな姿も愛おしい。しかし、そんな宮地をゆっくり楽しめるだけの余裕が黄瀬にはないのだ。冬の冷気に晒されていた手はまだひんやりとしていて、どこを撫でても宮地から小さな声が上がった。Tシャツ越しの体温や筋肉のへこみを手のひらで感じながら、ため息をついた。
「ねえ、ダメなの……?」
「ダメ……じゃないけど、」
ソファーからはみ出た足の先に石油ストーブの熱い風が当たっていた。宮地の手のひらで隠された視界は暗い。それでも目の前を漂う嘘臭いいちごの匂いに宮地を感じる。
「まだそのリップ使ってるんスね」
「うっせ!!」
思わず声を張り上げた宮地の手が緩んだ。暗闇が橙に一瞬にして切り替わる。あ、と声にならない音を漏らし、無防備に口を開いた。そんな好機を黄瀬が逃すはずもない。宮地が首を捻って避ける暇さえ与えずにかぶりつくようにキスをした。触れた唇は甘いリップクリームのせいでやわらかく吸い付くように密着させられれ、微かな吐息さえ漏らさない境界へとなり果てる。ぎゅうっ、と目をつぶって震えるまつげを眺めてから、黄瀬も目を閉じた。角度を変え、ただやわらかい皮膚を合わせるだけの行為が数度繰り返された。テレビからの雑音と、たまに零れるちゅ、というリップ音。お互いの呼吸だけがやけに鮮明に耳に残った。黄瀬の背中に回されていた宮地の腕が突然、その背を叩いた。手加減なしに思い切り叩かれ、仕方無しに顔を離した。酸欠気味で頬を薄らと紅潮させ、その琥珀を潤ませた宮地。目を開けておけばよかったな、なんて思いながら、なんスか、そう問おうとした瞬間、視界の明度が落ち、黄瀬の鼻先を何かが掠った。さきほどまでと変わらない、ほぼゼロに等しい距離まで接近していた。 後頭部、サラサラとした明るい色の髪の間に宮地の指が差し込まれ、勢い良く引き寄せられたのだった。とっさのことで焦点をうまく合わせられないうちに、黄瀬は口内に異物が侵入したのを感じた。狭いふたつの空間がひとつに繋ぎ合わされ、結局大して広くはない熱い部屋の中でふたりの舌は絡み合っては解けを繰り返す。ついさっきまでのキスとは違い角度を変えようとすればぴちゃり、という水音が室内に霧散する。口腔から体内を通って脳に篭るようなそれらの音はあまりにうるさくて、そのほかの雑音すべてを消した。宮地の舌の先端が黄瀬の口蓋の薄い網目をなぞるようにする。
「……っん、ふ、ぁっ……きせ、ん」
ほんの少しの隙間から宮地は黄瀬を呼んだ。すかさずにそれを塞いで、言葉ではなく行為で応える。偽物のいちごを纏わりつかせた宮地の舌を根元から絞るように締め付け、ねじる。やわらかいくせに肉厚で、歯を歯を立て噛みちぎってみたいと思う。ぼんやりと薄い酸素といちごに酔いながら、たまに零れた唾液を指の腹で拭った。
「いつの間に、アメなんて、舐めてたん、すか?」
「さっき、だよ」
はぁ、と呼吸を整えながら宮地は目を逸らす。今更恥ずかしがる必要もないだろうに。くすり、と思わず笑いが溢れる。ついさっきまで、周りの目を気にして照れながらも美味しい美味しいとパフェを食べていたのに、いつの間にやらさんかくのいちごみるくなんて食べてしまっている。どれだけ苺が好きなのだろうか。
「笑ったな!? いちごみるく美味いんだからな!」
コート、と目線で指す。ソファーの下へ腕を伸ばして、脇に置かれたそれを拾い上げる。
「ポッケにいちごみるく入ってっから、ほれ」
大きく口を開ける。こちとら、片腕しかねえんだけど。黄瀬はもう一度、コートを下ろす。持ち上げながらではポケットを探ることはできない。ポケットの中で、かしゃ、と軽い音が指先に引っかかる。
持ち上げて見せれば、こくりと頷きが返ってきた。片方の端を口で引っ張り、転がり落ちそうになった淡いピンクのそれ。あ、とふたりの声が重なる。
宮地の腹、素肌の上をころんころん、と転がった。黄瀬は今度こそ声を出してしまった。
「ははっ、なんか、間抜けすぎてっ、毒気抜かれたっス……!」
「間抜けとか、言うなっ、ちょ、笑うと落ちる……! 」
「宮地さん、腹! 止めて!」
「え、むりっもう、食え!! んで、寄越せ」
黄瀬は背を丸めて、下でいちごみるくをすくい上げる。
「ほい、どーぞっス」
歯の間に挟んで見せる。あと少しでも力が入ってしまったら、粉々に砕けてしまうだろう。宮地の手が再び、黄瀬の後頭部へ。
舌をべえっと前へ伸ばす。黄瀬は一度、口の中で角のなめらかなさんかくを転がす。そして、舌先へ乗せて、宮地の舌へ。重力に伴い、舌を伝って宮地の口内へ消えていった。
「ん、やっぱ、甘い」
わずかに目を細めて、穏やかに微笑んだ宮地。ちゅ、と黄瀬の下くちびるを吸った。くちびるをそっと開け、赤い舌を覗かせた。宮地の無意識の舌なめずりに、ぞわりと何かが背を伝う。
「いちごみるくの美味しさ味合わせてやる」
その目はとても好戦的だった。すぐに焦点が合わなくなり、それはぼんやりとした琥珀色としか捉えられなくなる。宮地のくちびるが触れ、すぐに熱い口内がひとつの空間となる。
甘いなぁ、黄瀬はゆっくりと目を閉じた。


いちごの日!!









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