破線のNOEL【赤この】




息を吐くと、白いもやが目の前に広がった。すぐに消えて、元通りの住宅街が見える。白やベージュの壁々にはセンスといったものは感じられない、統一性なんてものは欠片も見受けることのできない電飾がところせましと張り付いている。壁から垂れ下がる白い電球は連なり、点滅する。玄関横に生えた木に巻きつけれたものも同じだ。ただ、点滅する間隔が異なるし、点滅する色も白や赤、緑、青ととめどなく変わっていく。数軒先の家の壁には、はしごを登るサンタがぴかぴかと光る。あと15mもペダルを漕げば、同じものがあることを知っている。ポピュラーな家庭用イルミネーションのひとつなのだろう。
カーテン越しに漏れ出す淡い光と、主張の激しいイルミネーションが真っ暗に等しい夜道を彩っている。ペダルを踏む、足の指先は、寒さに痛い。そろそろ、その痛みも麻痺して消えるだろう。ハンドルを握る手はもう、感覚なんてない。ブレーキにかけた2本の指は、何かあった時にきちんと作動できるだろうか。
車体を斜めにし、角を曲がる。教会の横を通り過ぎた。掲げられた十字架もその縁を光らせている。そこらの家に比べれば幾ばくか地味ではあるが、本来、一番派手でも問題のない教会、キリスト教を唱えるその場所。十字架の横には光で描かれた、破線のNOELの文字。けれど、Eは消えていて、NO Lとなっていた。たったひとつ消えただけで、なんの意味も持たないただのアルファベットと成り下がる。明日には他3つも消えているのだろうけれど。
世間はクリスマスで、街を出てもそれは変わらない。
乱雑で統率が取れいなくて、あまりにも無造作な光の群を抜けて、恋人に会いにいく俺は、結局のところは世で言う勝ち組なのだろう。
聖なる夜に、愛しいひとに会いにいく。

名前を呼ばれて、そっちを向く。マフラーに顔をうずめて、手袋をはめた手を小さく振っている。俺は会釈で応えて、自転車の鍵を抜いた。こごえた指先では、鍵についての何もかもを感じることができない。この手の中にそれがあるかも視覚を介さねばわからなかった。鈴の鳴る音は、この気温にぴったりで鋭く高い。聴覚からも寒さを与えられる。
「お久しぶりです」
「久しぶり、元気だったか?」
「あ、ハイ。木葉さんこそ、元気ですか?」
「オレは元気ですよ〜。たぶん、赤葦よりも」
元より細い目を、更に細めて笑う。その姿が懐かしい。すぐに笑みを仕舞って、対照的に目を大きく開いた。何をそんなに驚いているんだ。
「お前っ……!? なにその、装備!! 死ぬ気か?」
俺の両手をばっ、と勢い良く掴んだ。薄いフェイクレザーが擦れて、どこか遠くに痛みのようなものを感じる。
「冬なめてんのか?」
勝手に掴んで、勝手に離して。放り出された両手。目の前で、手袋を外したと思えば、俺の手にはめようとする。いいです、やめてください、と意思に反して鈍い動きしかしてくれない手で手袋を押し返す。
「仕方ねえヤツ」
今度は手首を握って、----触れた素の手は熱かった。燃えるように熱い。触れた場所から麻痺した指先に痛みが広がった----自分の顔の高さまで持ち上げる。一歩前へ、俺の方へ寄った。そして、この人は、自分のマフラーの中に俺の手を突っ込ませた。ゆっくりと細い首に手を回す。いつでもこの人の首を絞められる。もちろん、そんなことはしないけれど。
うなじあたりで自分の指が交差する。2本の親指の下には、でっぱりがあり、そこに力を込めた。そこは、くすぐったいだろと声を出したこの人の声と一緒にびりびりびりと震えた。熱が広がり、どくどくと脈打ち始める手のひら。視界には、首をすくめて、ぎゅっと目をつぶる先輩の姿があった。
俺は短く息を吸って吐いた。
「木葉さん、俺と別れてくれませんか?」
別れましょう、ではなく別れてくれませんか、という言葉をあえて選んだ。意味があってではない、なんとなく語感で。これは提案ではなく要求なのだと口にしてから気が付く。付き合うという関係は双方の合意がなければ成り立たないのに、別れるのは片方が決めた段階で成立してしまう。作るよりも壊す方が簡単なんだと、ふと思った。あんなにたくさんの痛みを伴って、ここまでこじつけたのに、じゃあ壊そうかとなった今、痛みなんてどこにもない。
ああ、痛いところはある。触れた手のひら。むしろ、そこにしかない。
薄い皮の下にはいくつもの筋繊維があって、細い血管が隙間なく這わされ、太い血管にはどくどくと、俺の手のひらと同じように脈打つ、あたたかく真っ赤な血液が流れているのだ。この皮を掻っ切って、筋繊維もぶちぶちと破ってしまえば、この人は死んでしまって、辺り一面は真っ赤になって、この人の生から温度と痛みを与えられている手のひらは真っ赤になる。その赤も徐々に徐々に黒くなっていって、最後は公園の固い地面に吸い込まれていって消えてしまうのだろう。
でも、もし、もしだ。雪が降ったらどうなるのだろう。埃のようにふわふわと漂い落ちてきた雪が少しずつ積もって、気が付いたら、俺もこの人も肩や頭に重さのない水を乗せて、そこで俺が喉を切り裂く。溢れ出した赤は、雪を溶かすのだろうか。都会の埃や塵を集めて降ってきた水で薄められしまった、純粋で、きれいだった赤。不純物が混ざった分、黒くなるのは遅くなったりするのだろうか。
俺の馬鹿みたいで、現実味もなんにもない暇つぶしの妄想は三文字の言葉によって思考から霧散する。
「いいよ」
その人の表情はいつもと一緒だった。いつもと言ったって、早一年も前のいつもだ。細い目を、微かに細めて、ほんの僅かに口角をあげて、真顔とも冷笑とも取れない、静かな表情。性格を知れば、決して怒っているわけでも機嫌が悪いわけでもないと分かるけど、何も知らない人からすればとっつきにくい怖い顔。
俺が焦がれるほどに想いを募らせた最たるものだった。
「ありがとうございます」
何に対する言葉なのだろうか。
ついさっき見た、教会の壁のNOELがふと頭をよぎる。俺たちには、初めからEが足りなかったのかもしれない。ひとつのものになれない、個々の意味も何もない音しか持たない記号だったのかもしれない。
つめてーな、とマフラーから俺の手を引き抜いた。マフラーを解いて、俺の首にかけた。少し低い目線が俺を捉える。罪悪感のようなものと、久しぶりに真っ直ぐその目に射抜かれた照れが混じり合って不協和音となる。いまいちすっきりとしない感情が生まれて、思わず目を逸らす。
「別れることは、オレからお前へのクリスマスプレゼントってことで。お前からオレにもなんかあったっていいと思うんだけど」
「……プレゼント?」
「デートしよう。せっかく、最後なんだし」
何がせっかくなんだ。とは思ったけれど、なんだか筋が通っているような気がする。
「いいですよ、どこ行きます」
「アラ、あっさり。どこ行こっか」
見ているだけで寒くなるような----もう十分に、これ以上もなく寒いことは互いに明白だが----白い首筋が露わになる。室内スポーツの性である。俺だって、サッカー部や野球部を見れば圧倒的に白い。
首を傾げて、俺をまっすぐ見る。
中途半端に戻ってきた皮膚感覚に、手足の末端がじくじくと痛み出す。脱脂綿が液体を吸い上げるように、末端から寒さが痛みとなって体の中央へと触手を伸ばす。その触手はあまり細く、しかし多くもあって、それは束となって大きな痛みへと変わっていく。所詮、痛みということには変わらないのだが。
どうしてこんなにも感覚が鈍くなっているのか、わからなかった。気温だけではない。たぶん、ここへ来る前の意気込みがそうさせているのだとは薄々、自身でも気が付いている。しかし、それがあまりにも他人事のように情報として、頭の中を右から左へと、または上から下へと滑り落ちていく。その先がどこにあるのか、そんなことを考えようとして、チガウ、と思考の方向を戻す。
「雪があるところ」
ぽつりとこぼれた言葉は俺にしか分からない、俺の本音だった。自分から話を振って、了承まで得てから、やっぱり別れたくないんだと、言ってしまった。もちろん、目の前の人はそんなことは知らない。俺がこの人の頚動脈を素手で----妄想なので、現実に実行できるかは別問題だ----掻っ切っているところを、脳みその中で映像化していたことも知らないのだ。
この人は俺のことを知らない。知ってもらいたいとは思わない。でも、知ってもらった方がこの人の身のためにはなったのかもしれない。比喩表現抜きで壊れるまで犯したいとか、きらりと光るナイフを生白くて薄っぺらい腹に突き刺してみたいとか、たまに猟奇的なことを考える俺の本性のようなものをこの人は感じ取れていたら、ついさっきまでみたいに俺と付き合おうなんていう考えにいたらなかったかもしれない。
人肌から離れて少し経った俺の両手はじんじんと何がが響いている。波だ。金属の棒に衝撃を与えた時に起こる、小さな震えによる静かで荘厳さを持つ音が現れ、棒自体もびりびりと小さな震えを示す。
それらは全て波。
媒質だとか媒体だとか。そんな波もその始まりまで遡れば、やっぱり力。
世界は力と波でできているような気がする。物理基礎を去年学んだだけの俺は物質的な世界をその二つから構成されていると、ほんの僅かに、いつだったか考えたことがある。力だけでできていると考えてしまうのは余りにも情緒がないし、無骨だなあなんて思ってしまった。というわけで、波もこの世の3分の1くらいを司っていてもいいのではないか。そう結論づけた。
音も光も波で、でも世間でいうところの海で見られる波は波でないらしい。だから、あれは力。
「おまえ、変なこと考えてるだろ」
「考えてますね」
「よし、スケートでもしに行くか」
突然、どこもかしこも痛い。痛いったら痛い。体中のいろいろなところが痛い痛い、と脈打ち響く。周波数とか波長とかが違うのだろう。大きさも細かさも違う波が、響きが発せられる。波の干渉。ぶつかって強くなったり、弱くなったり、それらが交互に訪れたり。
「赤葦? 腹でも痛いか? つーか、寒いんだろ、ぜったい、それ」
「あったかいところに連れていってください」
「わがままだな、相変わらず。そういうところが、」
「好き?」
馬鹿なことを言っていると思った。しかし、ぽろりと口から落っこちてしまったのだ。たったふたつの文字にかかる重力。声は音で、波だというのに、文字には重さがある。力=重さ×9.8。もう少し細かく言えば、×9.80665? どうして、重さに数字をかけると力になるのだろう。力とはなんなのだろうか。命題だ。正確には命題という言葉はいま、起用されるには正しくない言葉であるが、世間で多く使われているのは、この使い方である。数の正義で、数は暴力だ。それを如実に表すのは多数決だろうか、はたまた、最大多数の最大幸福だろうか。
「好きだよ、なあ、好きだ」
あかあし、と呼ぶ声は酷く穏やかで慈愛に満ちていて、あたたかい。俺が愛おしくてたまらない、そう言っているようだ。いや、実際に言っているのだけど。たぶん、この声なら嫌いだとか死ねだとか言われても、全部が全部、好きって言っているようにしか聞こえないだろう。
この人は、俺のことを考えている。どうして、俺が別れを切り出したしたのか、だとか、俺が何を考えているのだろう、だとか。しかし、当の俺は力とか波とか、哲学と物理の真ん中で、どっちかと言えば文学よりの根拠や事実がありそうでいて、結局は想像の産物でしかない屁理屈をこねくり回しているだけだ。
「the greatest happiness of the greatest number」
思考は一歩通行だった。この人の声と言葉を思考に取り入れるには、その前に走っている問題を終わらせなければならない。
最大多数の最大幸福= the greatest happiness of the greatest number。
ほんとかよ、と言いたいくらいに単純で、簡単な、まるで直訳でしかないような英語。
「これはオレとお前の問題で、最大も最小も2だ。ジェレミ・ベンサムにはご退場願おうか?」
余裕綽々。この人を表すにはぴったりな言葉だ。
「お前はいつも変なことを考えていて、物理を公式と自然現象としか捉えられないオレには見えない世界を見ていて、ぶっちゃけると、その世界にオレがいることは、オレに対する侮辱に等しいと思った」
はい、と声を発した。そこに理解は伴っていない。言葉とともに出てきた白い小さな水滴の集合体が消えたとき、理解した。
「でも、それってオレがお前の世界の一端を構成してるんだって思ったら、気持ち悪かった」
「違和感?」
違和感は大切だ、だって、それは警告だから。あの日、そう言った。そして、俺の思考を真似たと付け加えた。俺は、よくわからなかった。
「ああ、そう。違和感。気持ち悪かったのに、オレはお前を好きなの。言っとく。お前はオレが好きだよ」
さあ、運んでくれ。芝居がかった動作、両手を広げて、首をゆっくりと傾げる。言葉と所作が噛み合っていない。そこは自転車を指差すところで、または、愛してるよ、と言うところなのだ。
自転車の鍵を右手に握り込んで、抱きしめる。開いた両手は触れた先から閉じていくおじぎ草の仲間のように、栄養の足しにされてしまう虫の存在を感知した食虫植物のように、そっと閉じる。たかだか、2本しかない腕が俺の身体以外の何かを捉える。
「今日は長いぜ。あきのりサンタは気が長いので、プレゼントの変更はまだまだ受け付けております」
顔は見えない。けれど、にやりと意地の悪い笑みを浮かべている。そんな確信があった。
「あきのりサンタさんは、もう俺の欲しいものが分かっているようなので、木葉さんはとりあえず俺をあったかいところへ連れて行ってください」
「何様だよ……じゃあ、体あっために行く?」
「ケーキも肉もすっ飛ばしてセックスですか。……あっためてください」
「もっと可愛く誘ってくれよ」
やれやれ、とため息がこぼれて、混ざった。



Merry Christmas!!



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