きみと歩くこと。中【兎赤】





携帯電話のアラームを止めて、透明なビニール袋に突っ込む。こんな作業もかれこれ3回目だった。毎日、何をするわけでもなく、ただ朝、日の登りきらない間だけの短い時間を一緒に過ごしていた。明後日には東京に戻ることになっている。今日を含めてあと3回会える。その3という数字の大小はあまりはっきりしてはいなかった。
昨日は飴を持っていった。どんなものに興味があるのかと聞いたところ、「なにもかも分からないので……じゃあ、木兎さんにとって身近な食べ物とか」と言われたので飴を持っていった。ただ単純に身近な食べ物ならば、某バランス栄養食品、某ゼリー飲料と色々とあったが、折角だから綺麗なものが見せたくなって飴を選んだ。なんでこれが食べられるんだ、と問われて、もちろん、「そういうものだから」という説明以外などできるはずもなく、口に押し込んだ。人魚というものが何を食べて、どんな消化器官を持っているのか分からないから、何かあったらすぐに吐き出せよ、と付け加えて。海の中に砂糖に代わるものはないのか、純粋な甘みとでもいうか、甘みだけで構成された色とりどりの物体に感動と困惑が隠しきれなかったようだった。興奮にほんの僅かに頬を紅潮させて、まさに瞳を輝かせていた。飴玉を朝日に透かせながら、片目を眇める姿は、絵になっていた。それが目の前で起っている現実とは到底思えなかった。そして、その情景を忘れることができないまま、1日を過ごした。

「あーかあしくんっ!!」
「おはようございます。今日も元気ですね」
「もっちろん!!」

手馴れたもので、ひょいひょいとテトラポットを下る。それでも、少年は「気をつけてください」と不安そうな声を木兎の背中に向けて発する。

「よいしょっと。今日は何持ってきたと思う?」
「分かりません」
「ちょっとは考えろよ」
「じゃあ、美味しいもの」
「あったりー!!」

ポケットから出てきたビニール袋の中はごちゃごちゃと色々なものが入っていた。少年にとっても、身近ではないなりに見知ったものとなりつつあった。

「なんですか、これ? 食べていいんですよね……?」
「おう。食ってみ」
「……いただきます」

ひんやりと潤った白いてのひらにぽん、と乗せられたのは丸みを帯びた円柱型のマシュマロだ。空いたもう片方の手の指先で、少年はそれを突っつき、不思議そうに首をかしげた。

「変なかんじですね」
「いいから食えってば」

3つまとめて頬張った木兎がマシュマロを咀嚼する姿をじっと見つめる少年。視線をてのひらのマシュマロに移して、数秒、えい、と言わんばかりに口へそれを運んだ。

「……触った時よりもさらに変なかんじですね」
「美味いだろ?」
「ぶっちゃけ、気持ちわるいです」
「まじか!!」
「味は……甘みだけですかね? なんかこう、ぬるっとしてるのがなんとも……」
「あーうんまあ、確かにぬるっとしてる、かな……?」

眉を顰めながら、自分の抱いている思いをどう表現しようかと唸っている少年に木兎は「昨日のが良かった?」と聞いた。もぐもぐと口を動かしながら、ゆっくりと首を縦に振る。

「そっかぁ」
「まずいとかじゃないですし、こんな不思議なものがあるって知ることができてものすごく嬉しいですよ」
「分かってるって。あ、あかあしは人魚姫の話って知ってるの?」
「ひめ?」
「知らないか。俺もうる覚え程度なんだけどね。童話で……」

海の底に人魚の国があって、もちろん、陸には人の住むところがあって、人魚の国にはお姫様の姉妹がいたんだって。何歳かになったら、えーと16だったかな、陸に上がっていいじゃなくて、人魚の国から出ても良かったのね。んで、そのお姫様が誕生日を向かえて、はじめて国を出て、陸を見に行くんだよ。岬だか、砂浜だかでぼーっとしてる王子を見つけるんだよね。お姫様はその王子をもう一目見ようと毎日のように陸の方まで行くようになるの。一目惚れってうやつですね。ある日、その王子が乗ってる船が海上で難破して、それを見つけたお姫様が王子を陸まで運ぶの。んで、なんとか救い出された王子が砂浜で目を覚ましたとき、そこにいた女の人を自分を助けてくれた人だと勘違いして、妃にするんだっけか……? ん? これじゃ、姫さん出てこないな、あれ? まあいっか。それで、王子が助かったことを知ったお姫様は海の底の魔女に会いにいって自分の尾びれを人間の脚にしてくれる薬をもらうんだよ。王子にしてくれる会いにいくために。その薬を飲むともう人魚に戻れなくなって、しかも副作用があって、声が一切出なくなっちゃうんだって。それでも構わない、とお姫様はそれを飲んで王子に会いにいく。どういう展開でそうなったのかはちょっと考えても思い出せないし理解もできないけど、お姫様は王子の傍にいられることになんだよね。声が出ないなりに王子との生活は楽しくて、でも、お后さまと王子のイチャイチャに耐えられなくなってだっけ? やっぱ苦しくなんだよ。ある日、海の近くでぼーっとしてたら、お姉さんたちが「このナイフで心臓を刺せば泡になって消えられる」ってナイフをくれて、それ以外に救われる方法はなくて、最後はお姫様は自分の胸にナイフ突き刺して泡になる、みたいな。

「暗い話ですね」
「だよね。俺もそう思う。っていうか、あかあしにこれ話した意味が分かんなくなるくらいに、今、申し訳ない。なんか、縁起悪い」
「それは気にしなくてもいいんですけど。たぶん、ナイフ刺したって普通に痛いだけだから絶対に刺しませんし。ただ、」
「ただ?」
「今から言おうと思ってたこととなかなかタイミングいいというか……」

少年は遠い朝日に目を向けて、言葉を詰まらせた。木兎は黙って、その横顔を見ていた。

「あの、ですね……オレも人間になれるんですよ」
「はい?」
「1日だけ、これが脚になります。……声は出ません」

水面に尾びれがちらりと顔出した。

「おお……?? あかあし、死ぬ??」
「何を聞いてたんですか」
「結局、どういうことデスカ」
「明日、あ、明日も来てくれますか?」
「え? うん、もちろん来るけど」
「良かった……。明日、オレと一緒に歩いてくれませんか?」

ぽかん、と口を開けて木兎は少年を見た。木兎は眼球の半分に朝日を映して真っ白に光らせている少年の右の瞳に焦点を集中させた。

「歩くの……? 俺とあかあしが?」
「はい」
「昼も?」
「え、朝だけじゃなくてですか? 昼間はさすがにご家族との予定あるんじゃないんですか?」
「そんなもんほっとけ」
「まじですか」

自分でもなんでこんなに落ち着いているのか分からないくらい、ものすごく嬉しかった。木兎は、いつもなら叫んでるところなんだけどなぁ、とぼんやり考えた。少年が海から出てくれるというのだ。自分と。どこへ連れていったら楽しんでくれるだろうか。地元ではないせいで詳しく分からないのが悔やまれた。

「できることは知ってたんですけど、やったこと、1回しかないんですよ。その時も陸に上がったりしてないので……」
「喋れないのにひとりで陸あがるとか危ないだろ!! ダメ!! ゼッタイ!!」
「はは、分かってますよ、心配症ですね。木兎さんは」
「あかあしには言われたくねーし。前は何してたの?」
「人間の姿になると全裸じゃないですか、オレ。陸に上がれなかったっていうのもあるんですよ。まあ、泳ぎづらいなぁってくらいに適当に泳いでました」
「真っ裸でか」
「真っ裸でです」

ふうん、と少しだけその姿を想像してしまい、笑いそうになった。あることを思い付く。4日話してみて、少年について知っていることはほとんどない。何を食べているのかも、どこに住んでいるのかも、もしかしたら定住などしないのかもしれないし、睡眠が必要なのかも知らない。それでも、喜んでくれるだろう。確信はあった。

「俺の服じゃデカすぎ……ってこともないか。持ってくる、明日」
「ありがとうございます。……オレのわがままに付き合ってもらっちゃって」
「こうやって相手してくれてるだけで俺のわがままに付き合わせてるようなもんだって」
「オレ、楽しいんで平気です」
「そっか」

沈黙が訪れる。波の音が聞こえた。絶え間なく続くその音。木兎と少年は真っ直ぐに朝日を見ていた。
むずむずします、と沈黙を破ったのは少年だった。

「歌ってもいいですか?」
「もちろん」

すう、と息を吸い込んで少年はゆっくりと瞬きをした。


空を押し上げて
手を伸ばす君 五月のこと
どうか来てほしい
水際まで来てほしい
つぼみをあげよう
庭のハナミズキ

薄紅色の可愛い君のね
果てない夢がちゃんと終わりますように
君と好きな人が 百年続きますように

夏は暑過ぎて
僕から気持ちは重すぎて
一緒にわたるには
きっと船が沈んじゃう
どうぞゆきなさい
お先にゆきなさい

僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと止まりますように
君と好きな人が 百年続きますように

ひらり蝶々を
追いかけて白い帆を揚げて
母の日になれば
ミズキの葉、贈って下さい
待たなくてもいいよ
知らなくてもいいよ

薄紅色の可愛い君のね
果てない夢がちゃんと終わりますように
君と好きな人が 百年続きますように

僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと止まりますように
君と好きな人が 百年続きますように

君と好きな人が 百年続きますように。


その歌声は限りなく『音』に近いと思った。声よりも遥かに音として認識される。歌う、というよりかは奏でる、という表現が適しているだろうか。

「知ってますか?」
「ハナミズキ」
「花なんですか?」
「白い、花だったかな。地味っていうのは変だけど、飾り気がなくて派手ではない花……って感じ。たしか薄いピンクもあった気がする」

少年は慈しむような穏やかな笑顔で「この歌好きなんです」と言った。よく聞く曲だし、サビくらいなら歌えるだろうとは思うが、意味をはじめて考えたような気がした。改めて歌詞を意識すると、海を連想させる言葉が散りばめられていて、少年の口から紡がれるとやけに重く心にのしかかる。

「なんで俺、こんなに感傷的になるんだ……」
「どうかしました?」
「俺さー、あかあしに会えなくなるの寂しい」
「え……っと、」
「たかが数日なのにな」

木兎は笑顔を曇らせた少年にごめん、と謝った。

「……オレも、木兎さんがはじめてなんですよ。こんな人と話したのは初めてだし、色々なことを知ることができたのも木兎さんのおかげです」
「俺も初めてだよ、こんな気持になるのは」
「こういうこと言ったらずるいと思ってたから、言いたくなかった」

一拍置いて、少年は言った。少年は困ったように笑っていて、その表情はやけに大人びていた。

「あなたしかいないのはオレの方だ」

一息に吐き出した声の最後は、掠れていた。木兎は返答に困ってしまった。今までの口ぶりから、少年の生活がひとりであることはぼんやりと察していたが、いざ、告げられると、その言葉に嬉しさを覚えた自分の不謹慎さに嫌気がさした。同時に漠然とした憐れみを覚える。

「喜んでいいのか、どうしていいのか分かんねえ」
「……喜ぶ必要はないと思いますけど。まあ、気にしないでください」
「俺もっとあかあしのこと、知りたい」
「何もないですよ」

知られたくないのだろう。少年の言葉は厳しくはないが、眼差しは断固として拒んでいる。そこまで嫌がることを敢えて掘り下げようとは思わない。木兎はただの興味本位で少年のことが知りたい訳ではない。好意を抱いたからこそ、少年を知りたいと思うのだ。

「ごめん」
「いえ、あの、隠すようなこともないくらいに空っぽなんです。何も伝えられない」
「そうじゃな……えっとさ、明日、なんか見たいものとか食べたいものある?」
「だから、なんにも分かんないんですってば。木兎さんの好きなものがいいです」
「そういうことは言うくせに、なんも教えてくれないってずるくね?」
「じゃあ、オレの好きなもの教えればいいんですか?」
「言えよ!! 最初から、それ言えよ!!」

少年は、『う』の形に口を開けてから固まった。そして、なんて言うのか分かんないです、と小さく言った。こう、と手で滑らかな半円を描く。

「半透明で丸くてぶにっとした。浮いているというか、流れているというか泳がなくて」
「くらげだ」
「くらげって呼ぶんですか」
「漢字で海の月って書くんだぜ」
「海の月……どっちかっていうと、雲とかじゃないですか?」
「でも、月のが雰囲気ある気がしねえ?」

そういうものですかね、と少し不満そうだが少年はくらげという言葉を聞けて満足そうだった。水族館にでも連れて行ったらさぞかし喜ぶのではないだろうか。

「人間になるのって少し時間かかるんで、明日の朝にはもうしゃべれないと思います。あと、木兎さんが来る頃には脚もあるし、真っ裸だということをお忘れなく」
「おう。好きな色ってある?」
「また、唐突に」
「何色のTシャツ持ってこようかなって」
「あお、ですかね」
「らしい、な。名前はあかあしなのに」

名前? と不思議そうな顔を向けられて、自分の着ていたTシャツの裾を引っ張った。

「赤だろ、これ。あかあしの『あか』って『赤』かなって思ったんだよ」
「そうだったら、いいですね。文字というものがないので、やっぱり、微妙なところなんですけど」
「あかあしのウロコって、暗いところだと濃い赤になるから」
「そうですか?」
「ああ、赤だよ」

泳いだ時に見たから、と答えつつ木兎は伸びをした。




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