青の花片・中【花黒】





うげ、と思わず声を漏らしてしまったのは仕方のないことだと思う。
俺はいつの間にか溜まってきてしまったメールの整理をしていた。これは読んだ、これは返した。マウスを動かしてはクリック、を繰り返してどんどん下から捨てていく。その時、新着メッセージが届いた。
『再来週、また出張な〜』
なんだって。もちろん今吉さんからのメールだ。今回の出張の結果に満足していないのは部長だけでなく俺も同じではあった。今吉さんだけが神妙な顔をしていたがそれもいつものこと。近いうちにもう一度、とは言われていたがまさか、一ヶ月も経たない間に行くことになるとは思いもよらなかった。
出張のことを夕飯時に言ったら、またですか、と向かいに座った黒子は箸を止めることすらなかった。そんなこんなであっさり送り出された俺は今吉さんと再び、飛行機だの列車だのラクダだのに乗った。更に黒くなって帰ってきた俺たちは
「そろそろ青峰くんに匹敵するんじゃないですか?」
という洒落にならない洒落に迎えられた。おかえりなさい、はおまけのように後から小さく付いてきた。
そうして、いつの間にか、俺と今吉さんと黒子で食事に行くことになった。とにかく黒子と今吉さんは仲がいいのだ。とても。黒子が空港に車を駐めていたので、駐車場まで歩く間、なぜか黒子は今吉さんとばかり話をしていた。ヤキモチだとかそういう話ではなくて、とにかく共通の話題があるのが謎でならない。純粋な疑問以外の何でもない。
「あ、花宮、あれ見せんでええの?」
「あとでいいですよ」
前を歩いていた今吉さんは突然振り返って話を振ってきた。当の黒子は一切興味を示さない。コンクリートの上を転がる2つのスーツケースのタイヤが不快なほどにうるさい。しかも音をよく反響する地下駐車場だ。こんな環境で楽しく会話を繰り広げる2人はおかしい。テレパシーでも使っているのではないだろうか。少なくとも、後ろを歩く俺はタイヤの音に遮られてどちらの声も聞き取ることはできない。
「何食べますか?」
車のトランクを開けて、黒子が言った。俺のスーツケースを持ち上げて積み込みながら、その横から今吉さんが自分のを押し込んでいた。
「黒子くん、力持ちなや。これ地味に重いやろ」
「子供って結構重いですから」
なんだろう。暗に俺のことを言っている気がする。黒子は保育士をしているので、そのことを言っているはずなのに二人ともこっちを見ている。だからどうして俺を見る。せやなぁ、と頷く妖怪の言葉に被せるように声を出す。
「俺は魚が食べたい」
「ふむ、お寿司ですかね?」
「あー、寿司ええな」
満場一致ということで黒子は都心の寿司屋に向けて車を走らせた。助手席に俺、後部座席に今吉さんだ。俺の後ろに座った今吉さんは身を乗り出して黒子と会話を続けている。舌を噛んでしまえ。俺は、膝の上にノートパソコンを広げて、適当にニュースを見ていた。
今吉さんの奢りということで、遠慮なく寿司を堪能させてもらおう。黒子も嬉しそうだ。今吉さんは余裕の表情だが、黒子の少食ぶりを思ってのことだろう。後で痛い目を見るだろうな。
食事中、専ら話題は出張のことばかりだった。俺としては、もう砂漠ことなんて忘れてもいいというところなのだが、黒子が興味津々で、あれこれ聞いてくるのだ。
「ラクダの乗り心地とかどうなんです?」
「車と比べたら、車の圧勝だろうな」
「オートバイと比べても、オートバイ圧勝やな」
「あ、大トロ追加で」
かれこれ、3皿目の大トロに手を出そうとする黒子に今吉さんも苦笑している。黒子は板前からくすんだ薄紅色のトロが乗った寿司を受け取った。
「そないなこと聞いてどうするん?」
「ただの好奇心ですよ、気にしないでください」
俺の鯵を何事もなく攫っていったのは黒子の俺への仕返しか。にしても、よく食べるものである。好きなものや美味しいものはよく食べる。当たり前と言えば当たり前なのだが、日頃から、一人前くらいは流石に食べ切るが、一人前でも腹八分目は超えるらしい黒子は、やはり小食であるはずである。旅館などに行くと毎回、お腹いっぱいです、と呻いている。(そのあとに腹ごなしに行った温泉でのぼせるのが恒例となりつつある。)それが好きなものになると一人前程度はぺろりと平らげる。今も、今吉さんよりも俺よりも多く食べている。(黒子は酒を飲んでいない分、俺たちよりも箸の進みが早いのもある。)
「食べ物は? 何を食べていたんですか?」
「割と普通に肉とか野菜。あー、でも、花食わされた時はびびった」
「花宮くんが花食べたんですか。へー」
「いやいや、なんも面白くないやん。どうした黒子くん、酔っとるんか」
まだ酔ってませんよ、と付き合い程度の生小のグラスを軽く持ち上げて今吉さんに見せる。確かに全くもってどこも面白くないのに、黒子は少し嬉しそうに笑っている。ほんのわずかに口角が上がっているというのが適切か。グラスは空だ。流石にこれくらいでは酔わない、ということだろう。黒子があまり酒を好まないので、長い付き合いだが、黒子がどの程度飲めるのかは俺も知らない。本人の口ぶりからして強くはないのだろう。
「せやな。まさか、研究しにいった花食わされるとはワイも思わんかったで」
「美味しかったですか?」
「花に味なんてねえよ」
「ふうん、花びらだけですか?」
「全部やでー。花弁もがくも、茎も葉も全部刻んであった。な、花宮?」
「なんていうか、普通に苦かった。菜の花みたいに」
頭のてっぺんから花咲いたりして。黒子の冗談はふざけているだけにしては皮肉っぽかった。
「黒子くん、それこそ洒落にならんやつやで」
諦めたのか、村までの経路を事細かに話し始めた。黒子は今吉さんの話をうんうん、と相槌を打ちながら聞いている。寿司を食べる手が完璧に止まっていた。話に意識が向いているのだろう。ひとくち(黒子は一貫をひとくちでは食べない)だけ食べて、指に残りを挟んだままの黒子。その腕を掴んで、指から大トロを食べる。咀嚼しながら、醤油が付いていなかったことに気が付いた。
仕返しの仕返しだ。
あ、と間抜けた声を上げて、黒子が俺を見る。しょうがない人ですね、と嗜めるように言って、自分の指の腹をぺろり、と舐めた。
「沁みるわぁ……。独り身に見せつけんといてやぁ」
どこが痛いのか知らないが、胸元をおさえている。にやにやと口元は緩いし、冷やかすのもいい加減にして欲しい。
そんな今吉さんに俺と黒子は、目を見合せ、すぐに逸らした。


久しぶりに定時で帰れそうだな、と荷物をまとめ始めたところだった。狙っているのではないか疑いたくなるようなナイスタイミングで今吉さんからのメールがきた。ここ数日、実験室にこもりきっている今吉さんは同じ案件をかかえている俺にも何をやっているのか教えてくれない。手柄を一人占めしたいだとか、そんな幼稚なことを考える人間ではないので、俺に教えない方が効率がいいと判断するようなことがあったのだろう。同じ部署ではあるが、今回の件以外は全く違うことをしているので、話しをする機会は元から少ない。それに加え今回のひきこもりである。
メールで指定された場所は、実験室ではなく会議室だった。円形のテーブルに6つのイス、ホワイトボードがある。部署から近く俺が一番使う会議室だ。
ドアの曇りガラスは暗い色をしていて、無人かとも思ったがひとまず、ノックをしてみる。ええよー、と聞き慣れた声がした。
「どうしたんですか。こんなところ呼び出したりして」
「ワイもな、メールで済ませようと思うてたんけど……」
机に軽く腰掛けて煙草を吸っていた。また禁煙失敗したらしい。今吉さんが差し出した書類を受け取りつつ、その横を抜けて窓を開けた。
このまま上司に提出するのだろう、ホチキス止めされている紙束をぺらぺらとめくる。はじめの出張の報告も含んでいるせいかなかなか本題に、つまりは今吉さんが見つけたはずの事実にたどり着かない。
「花宮、お前の血液型って……」
煙草を灰皿に押し付けて、ゆっくりと息を吐いてから今吉さんは口を開いた。俺はまだ知っていることしか書かれていないページを早足に送っていく。
「は? ABですけど」
「cisAB型やなかったか?」
「……なんでそれを」
でんわ、と時代を感じるジェスチャーで答えた。親指、人差し指と小指立てて耳元に当てる。確かに急に血液に関することで電話を受けることはしばしばある。仕事中でもよくあることなので、聞かれていたって何もおかしくはない。俺は特に答えることもなく、無機質な文字列と表に視線を戻す。
「その2ページ先見てみ」
「……?」
言われたとおりのページ開き、納得する。
「基本はそこに書いてある通りなんやけど、まあ、結論から言えば、お前、相当な確率で罹っとるな。アレ」
指で自分の右目を指して見せた。
レポートに書かれていたのは、あの村の血液型分布である。カラーの円グラフが大きく載っていた。
ABO式で分けた場合、日本であれば、A型が最も多く分布している。世界的に見るとヨーロッパにはA型、アフリカにはO型、アジアにはB型が多い。たまに聞く話だろうが、ABO型以外にも亜種のようなものが血液には存在する。稀血と呼ばれる血液型がある。Rh-型などが有名な例だろう。(但し、これはABO式血液型ではない)そのRh-型は日本では、0.05%しかいないのだが、スペインのバスク人では85%にも登る。後者に関しては特異な例だが、種族や地域によって血液型が偏る場合は多いのだ。
稀血の中に、cisAB型というものが存在し、俺はそれに当たる。10万人にひとりと言われ、俺は輸血をするような事態にならないように、ととにかく過保護に育てられた過去を持つ。
「村人全員から、血液サンプルもらってやっと出てきた結果がこれや。村人の2割にcisAB型がおる。はっきり確率が高いにもほどがあるし、あのお花咲く病気の患者、5人ともがcisAB型や」
血液の種類と花の関連性は詳しくは分からないが、関係がないとはもはや言うことはできないだろう、そのことが書かれている。
「可能性としていちばん大きいのは花粉やないかな、と思とるけど、確証はない」
「花粉? 花が咲くってことは受粉でもしてるんですかね、体内で」
「そう考えるのが……妥当やな。妥当っちゅー言葉が合うとるか微妙やけど。あの花、食ったやん。雄しべも食ったやろ。んで、血液が空気中の花粉運んどるんやないかな。それも、cisAB型の血液の中でだけその機能を保ってるか、cisAB型にだけ反応して発芽するかってとこやろ」
「仮説もいいとこですね。妄想の範囲だ」
「ワイもそう思うで? 実際、花粉の大きさは植物によってまちまちや。見りゃ分かると思うけど、相当にはちっさい花粉やで。赤血球よりもちょい大きい10μmってとこや」
「……今更、アンタが嘘ついてるとは思ってないですけど、そんなもん、上に報告するんですか?」
レポートを今吉さんに突き返す。もちろん、と薄く笑ってみせた。相変わらず、胡散臭い顔だ。
「思ったよりも冷静やな」
「適当言ってんじゃねーよ。誰が、こんなことで焦るっていうんですか。現実味無さすぎですよ」
「それもそうやな」
興味なさそうに短くなりつつある煙草を灰皿に押し付ける。レポートを机に置いて、俺の手を取った。思わず後退るが、がっちりと腕を掴まれていて、それは叶わなかった。
「黒子くんには説明するんか?」
夕陽の逆光で眼鏡の奥の糸目は見えない。
「あんたが、そういうこと心配するの珍しいですね」
「ワイはお前ほど、人間嫌いちゃうからな。フツーに人様の心配もするし、後輩の色恋も気にするし、友人が恋人に先立たれそうなんやから、どうにかしてやりたくもなる」
なに言ってるんですか、と反論しようとしたのに声が出なかった。今吉さんの真剣な、らしくない言葉に、実感を持ち始める。自分が死へ向かい出したことを。まだ、患っていると分かったわけではない。しかし、罹っていない可能性に全てを賭けられるほど馬鹿でもない。
世の中には奇病難病が知らないだけで五万とある。世界に数人しか罹っていない病だってたくさんある。
「それって……要は黒子の心配ですよね」
「はは、ここで嫉妬とか、お前も大概やなぁ」
ワイに嫉妬しとんのか、黒子くんに嫉妬しとんのか分からんなぁ、などとほざいている妖怪。握っている手に力が入り、骨が圧迫されて痛かった。すぐにその力も緩む。
「折を見て、話します。大丈夫です、自分で片付けます」
いいから手を離せ、気持ち悪い。そう視線で訴える。空いた片手には先端を赤くする煙草があった。今吉さんはまだ残っているその煙草を灰皿に押し潰した。そして、その手をポケットに突っ込んだ。ポケットから出てきたのは小さな注射器だった。
「シャツまくれ」
「手をにぎ……掴んでた意味はなんですか」
「雰囲気」
半袖なので、捲くるというほどでもないが、軽く袖を折った。ゴムの管を巻かれ、クリップでそれを固定する。どこから出てきたのか、アルコールを染み込ませた綿が二の腕を撫でる。ちくり、という小さな痛みなど大したこともない。ただ、今吉さんなんかとひとつの部屋に居て、且つ、採血をされているというあまりにもおかしな状況に吐き気がした。圧倒的な非日常よりも、日常を僅かに逸れた日常寄りの非日常の方が圧倒的に居心地が悪い。違和感が脳を満たす。
透明なガラスを赤く染めていく自分の血液。
「ちゃんと、血は赤なんやな。青でも驚かん自信あったんやけど」
「俺も、今吉さんの血が虹色だったとしても驚かないですよ」
「虹色は驚くわ、流石に。いきものの出していい色ちゃうやろ」
「青い血と言えば、ガミラス星人ですか」
針をゆっくりと抜いた。すぐに小さな正方形の絆創膏が貼られる。てきぱきと注射針を処理し、俺の血液を検査用にボトルに移し替えている。ぱちり、と半透明のプラスチックのふたをはめる。その間、今吉さんはにじいろ……、とぶつぶつ繰り返していた。
「シャボン液とか虹色ちゃう?」
「なら、ハンドソープとかもそうじゃないですか」
「あれはちゃうやろ。白濁しとるやん。白濁とかえっろー」
なんなんだ、この人。高校生か。けたけたと人の血液を照明に透かしながら、笑っている。
「ちょい待ち、ガミラス星人って肌が青いんちゃうん? いや、血液が青いから肌も青いんか……? そんなに肌薄いわけないか」
何を言ってるんだ、この人。袖を直しつつ、腕時計を確認する。今日は早く帰れる、とさっき連絡したら、黒子にお使いを頼まれてしまったのだ。夕飯の買い物とかならば分かるのだが、どうしたのか、こんな中途半端な時期に「日記帳を買ってきて欲しい」なんて。しかも、そのほかの指定はない。文具屋に行くことはあまりないから、今もそうなのかは知らないが、1年間で使い切るものや、10年間使えるものだってあるはずだ。他にも1日あたりに1Pなのか、見開きでの1Pなのか、とか。
そもそも、黒子は日記なんて書いていないはずだ。読んだ本の記録はまめにとっているが、それも感想を書くわけでもない。ただ、読み終えた日付とタイトルだけを羅列していた。無駄にマメな面もあるのだ。
黒子は何事を始めるのも突然で、基本的に思い立ったが吉日タイプなので、それも今更か。もしかしたら、俺には突然に見えるだけで黒子には突然でもなんでもないのかもしれない。
「さっきから、時計ばっか見とるなぁ。ああ、黒子くんとデートとか?」
「こんな年になって、そんなこっぱずかしいことしませんよ。ちょっと、買い物を頼まれていて」
「ほな、早う帰り」
言われなくても帰りますよ。しっし、と犬猫でも追い払うような仕草を見せた今吉さんに礼をして、会議室を後にした。


家に帰って、とりあえず、米は研いで炊飯器にセットしておいた。夕飯を作る気はあったが、如何せん、黒子の帰宅がいつ頃になるかが分からなかった。働き先が幼稚園だ、そこまで遅くなることはないと思う。しかし、ここのところ、長期の出張が続いていたし、元から黒子の方が帰宅が早いことが当たり前だったもので、いつもどのくらいに黒子が帰宅するのかなんてつゆとも知らなかった。
机の上の包装紙に包まれた日記帳を見る。結局、半ば嫌がらせの意味も込めて、10年使えるものにした。まるで百科事典のような、それは少し大袈裟かもしれないが、百科事典のふた周りくらい小さいだけで姿かたちはそっくりなそれは、濃紺の表紙に金のラインが入っている。ぱら、と中も見てきたが、罫線も紺色だった。
ただいまー、と鍵の開けられる音と共に聞こえてきた。未だに敬語を使う黒子だが(とはいえ、会って間もない頃から「花宮くん」と呼んでいた。そこも変わらずだ)、流石に「ただいま帰りました」とは言わないようだ。どちらにせよ、どことない違和感がある。いつも、おかえりなさいと言われる立場だからか。
「おかえり。飯、鮭とメカジキならどっちがいい?」
「メカジキで」
かばんも置かずにリビングへやってきた黒子。キッチンに立った俺を見て、机の上を見て、もう一度、俺を見た。
「それって、」
「お望み通りの日記帳だけど」
「開けてもいいですか?」
答えるまでもない。俺は冷凍庫から、メカジキを取り出す。ぴり、と紙が破かれる音がした。テープを剥がしてくれよ、とそちらをそっと伺う。リュックも背負ったまま、上着も脱がずに絨毯に座り込んでそれを手にしている。黒子の表情はいつもどおりの無表情で、けれど、幾ばくか真剣に見えた。白と黒の破れた包装紙を机に置いて、ゆっくりと表紙を撫でた。そして、開く。普通の動作であるはずなのに、やけに緊張しておるように見えた。
「10年、ですか。随分しっかりしたものを買ってきましたね」
「せっかく買うんだ、良いものがいいだろ。しっかり使えよ」
「なんです、君からのプレゼントなんですか、これ」
「払いたきゃ払え」
いやです、ぼそりと言い、黒子はどこからかボールペンを取り出す。青い表紙を開いて、何かを書き始めた。あれが日記帳である以上、日記なのだろうけれど。ペンのスピードは一度も緩まることなく、紙の上を走り続けていた。
見開きタイプにしたというのに、よくもまあ、そこまで書くことが思いつくものだ。まず、今日は終わっていないだろうに。ああもスラスラ書けるというのは、伊達に文字や言葉に触れてきていないということなのか。
「すぐできるから、飯」
「はい、ありがとうございます。着替えてきますね」
書いている途中に声をかけるのははばかられて、黒子が日記帳閉じた時を見計らった。ボールペンは机の上に転がされたままだったが、日記帳は一緒に引き上げたようだ。やはり、見られるようなところには置いておきたくないのだろう。
フライパン上のメカジキに焼き色を付けながら、鍋に沸いたお湯に味噌を入れる。菜箸で溶かしながら、片手でメカジキをひっくり返した。
「机、もう拭きました?」
ジャージに着替えた黒子が流しで、布巾を洗った。食卓の上を拭き、コップや茶碗を並べた。
「君にしては素敵なものを選んでくれましたね」
「そりゃどうも」
渡された茶碗にもうもうと湯気を立てる米をよそって、渡す。味噌汁も同様の手順で、配膳されていく。
食卓について、一緒に「いただきます」と言う。
「10年ということは、7200Pですよね。えぐいなぁ」
「重厚感すごいよな」
「ええ、本当に。」
これなら鈍器にもなりそう、と微笑みを向けてきた。下手なことをしたら、自分が贈った日記帳で殴り殺されるはめになるようだ。全く笑い話にしかならない。
「僕が死んだら、読んでもいいですよ。って、言わなくても読みますよね、普通」
興味ないね、と答えると首を傾げて嘘つき、と零した。声にはなっていなくて、ほとんど吐息に等しかったが、確実にそう言っていた。人のことをなんだと思っているんだ。
「何年先の話してるんだよ、10年以内に死ぬ予定でもあるのか?」
じぃっと黒子が俺をまっすぐ見る。目が大きい、というと褒め言葉みたいだが、表情の乏しさとこの目の大きさ、そしてどこを見ているのかよく分からない目線が揃うと、圧力を感じてしまう。無言なのも、これまた堪えた。
「どうした?」
「いいえ、なんでも。冷めてしまう前に食べましょう」
メカジキを箸でほぐして、口に運ぶ。小さなひとくち、を繰り返していた。淡々としているが、どこかリズミカルな箸運びに、黒子の嬉しい、という気持ちがはっきりと現れていた。正面で飯食ってるこっちが照れるではないか。
「ほかの色の方が良かったか?」
「例えば?」
「ほかって言っても、あとは赤と黒しかなかったかな」
どうして青を? 質問に質問で返さないで欲しいところだが、青という選択は間違ってはいなかったようだ。とはいえ、どれでも良かった、というのが本心だろう。本当にこだわりがあるのなら、自分で行くか、俺に行かせるにしてもメーカーから何まで指定してくるし、ついでに画像だって見せてくれただろう。俺に任せた段階で、どんなものを買っていったって文句を言うようなことはなかったはずだ。
「この間、読んでた本のタイトルがぱっと浮かんで」
「ああ、あれですか。見返しの遊びに花のイラストありましたしね」
黒子はおもむろにその本のあらすじを話し始めた。主人公はどんな男で、友人のなんとかはどんな男で、ふたりはいつからの知り合いだとか、旅行先ではどんなトラブルに見舞われて……、滔々と語る黒子。ひとことで言えば、推理小説だったようだ。
「もし、読む気があるならトリックは言いませんけど、どうします?」
「読む暇ない」
じゃあ、とトリックも犯人も、動機も全て話してしまった。口下手ということはないが、口数の多くない黒子。しかし、興味あること、好きなことに関しては口数が一気に増す。それ自体は誰でも同じだろうが、普段が普段なので落差が激しく、たまに呆気にとられることも、未だにあった。


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