青の花片・上【花黒】




花宮は右目から真っ青な花が咲く病気です。進行すると甘いものばかり食べたくなります。花に付いた朝露が薬になります。 http://shindanmaker.com/339665




綺麗だ、と繰り返すこいつの頭はおかしいんだろう。こんな姿の俺を怖がるどころか、好きだとか愛してるだとか身のないかっすかすの甘いだけの言葉ばかりを吐き続ける。それでも悪い気はしない俺は随分絆されてしまっているらしい。あとであの妖怪に笑われるんだろうけど、それはいつものことだから、今更何を言っても始まらないから、俺は、愛おしいほどにいかれたお前を抱き締める。

目が痛くて、起きた。
ずきりずきりと右目の奥の方が強い痛みを訴えた。眼球の中から圧迫されるような今まで感じたこともない痛みだった。
「……? どうかしましたか?」
隣で寝ていた黒子がもぞもぞと布団から顔を出した。時間は分からないが、まだ日は登っていない。閉じたカーテンのわずかな隙間に覗く空は暗い青灰色をしていた。薄暗い室内で痛む右目を押さえながら、もう片方の手で黒子の頭を撫でた。寝付きも寝起きも悪い黒子は、ただ俺が動いたことに反応しただけだろう。うにゃうにゃとなんだか、よく分からないことをうめいて、あっさり毛布にもぐり直した。
予想がついていたとはいえ、早かった。
どうやって、このことを黒子に説明しようか。 いや、いっそ、説明しなくても平気なのだろう。こいつはそういうやつだった。終わっていくものや朽ちていくものに日本人らしく美しさを感じて、ただただきらびやかなものを下品だと一蹴し、完璧なものも好きだけど、どこか歪んだものをおかしなくらいに愛する。少しおかしな美的感覚を持った男なのだ。どうせ、何様だか知らないが、俺のことを気に入ったと笑った時と同じように、はたまた、なんでもない道端の石ころのように、受け入れられてしまうのだろう。
さて、果たしてこの病は黒子のお眼鏡にかなうのだろうか。


「なあ、まこたん」
「次にその名前で呼んだら、あんたの食料奪って逃げますよ」
「なに、恐ろしいこと言うてるん? 場所、ここで合うとるよなぁ」
俺は会社の上司である今吉さんと−−せっかく、高校で別れることができたのに強引に同じ大学に引っ張りこまれ、そこの研究室の教授の勧めで同じ企業に入らされ、気付いたら今吉さんの部下という位置に納まりつつある。死ぬほど嫌だけど。いつか、転職してやる。もう、引きずり下ろすのも面倒くさい−−とあるオアシスの村を訪れていた。手配していたジープに乗り、途中からは案内役のラクダに乗って、砂漠の真ん中にぽつんとある村へ。村の一歩外に出れば、永遠に続いているのではないか疑いたくなるような砂漠が広がっていた。
仕事の内容は大まかに言うと、この村で発生している奇病の調査だった。全く蚊帳の外だったはずなのに、あの妖怪狐目野郎が、俺の同伴を上司命令だ、などと言って義務付けたせいでこんなところにいるのである。俺はこの会社に留まる以上、出世するつもりでいる。最近は、部長あたりにも実力が認められ出した実感がある。会社的にも大事な実地調査らしく断るに断れなかった。
「ほんまにすまんなー。最愛の黒子くんとのラブラブ生活に水さしてもうて」
「いいえ、気にしてませんよ」
「ほんまか! じゃあ、今度も一緒に出張行こうなー」
戯言を垂れ流し続ける妖怪を放って俺は村に入った。入口はここだと案内役が言っていたのだから間違いはないのだろう。入口と呼ぶにはあまりにも荒廃していたが、確かにアーチ状の木材が立っていた。目の細かい砂が吹き付けるせいで、くすんでしまっているが、昔は鮮やかな朱や青だっただろう布が巻きつけられていたりした。
木は青々と茂り、下草も生えていて、久しぶりに青いものを見たせいか目がちかちかとした。湿度を肌に感じたのも久しぶりだった。出張前に叩き込まれたおかげで村人とぎこちなくも会話を交わすことはできた。事情を話したら、あっさりと村長のところまで通してもらえることになった。
身振り手振り、そこらの地面に石で絵を描いたりして、なんとかこれから自分たちがしたいこと、協力して欲しいこと、あなたたちに敵意はない、と伝える。どんなこともはじめが重要だ。第一印象のみで決まる話だってある。
順調に行き過ぎていて怖いが、村長自らが案内を買って出てくれて、俺はその病人がいるところへ連れて行ってもらうことになった。そこらへんで村人と談笑していた今吉さんも一緒に。村の入口から一番離れているのではないだろうか、という場所にぽつんとその小屋は立っていた。村人の家の三倍くらいの大きさはある小屋。場所の割に小屋の中からは明るい笑い声のようなものが聞こえていた。小屋の横に花壇というわけではないようだが、淡い色の花が咲いているところがあった。パステルカラーといううやつだろう。黄色や紫、水色の花々が密集していた。
小屋に入ると、なんだか歓迎された。隔離されてるのだからもっと、暗いのではないかと思っていた。全員に共通していたことは両目、もしくは片目を失明してることだった。
さっそく、その病気の症状と原因解明のために小屋の中にいた5人の診察を始めた。患者は5歳の女の子に18歳の男の子、46歳の男性と女性に67歳の男性だった。これだけで決め付けるのは早いだろうが、年齢や性別は関係なく発病するようだ。誰も痛みを訴えるものはいなかった。どうも、患っている方の目の神経が麻痺しているらしい。患者たちは至って元気いっぱいで、この病自体、村に昔からあるものらしく誰も悲観したりしていなかった。あまり苦しくなく死ねる、と67歳の男性は言っていた。その老人は、言葉は古く訛りも強くて聞きづらかったが、興味深いことをたくさん話してくれた。
驚かされることばかりでもう、びっくり慣れしてしまった。
神経が通っていない以上、自力では開けることができないが、手で開けようとと思えば簡単に開くという瞼の中を覗いたら、眼球が溶けてなくなっていたり、ぱんぱんに腫れたいたりした。その虹彩はまるで白人のように、いや白人よりもアルビノに近いような淡い色をしていた。一人は水色に。一人は緑に。褐色の肌にその瞳は違和感を浮き彫りにさせた。
虹彩の色はまだ、分かる。
理解できないのは溶けだした眼球。
そして、何よりも驚いたのは、

 そこに若葉がぴょこんと生えていたことだった。

驚きすぎて、声も出なかった。なんやなんやー、と間延びした声で近付いてきた今吉さんも珍しく開眼するくらいだった。


ビザが切れるぎりぎりまで滞在した。しかし、大した結果は得られなかった。症状と他人へ移ることは皆無か極めて稀のどちらかであることしか分からなかった。原因や感染経路は分からないままだ。 と言っても症例が少なすぎるのと根拠がないだけであっておおよその目星はついたと言ってもいいだろう。ただ、どうやって報告するかである。ひとまずは伏せておき、口頭だけで伝えることを今吉さんと決めた。
「報告書って今吉さん書いてくれるんですよね?」
「え、まこたん書いてくれへんの?」
「はい? 何言ってるんです? (このクソ糸目妖怪。目あるんですか、落書きなんじゃないですか、その目)俺が書くんですか? いいですよ。そっちの結果、送っといて下さいね」
「さっき、なんか聞こえた気がするんけど、気のせいかな〜? なぁ、花宮?」
ノートパソコンを鞄から出して立ち上げる。上層部はどこからこんな遠くの情報を得たのだろうか。まさか砂漠に赴く日が来るとは思っていなかった。しかも、今吉さんと。気温はとても高かったが、湿度がほとんどなかったので、不快というよりは痛かった。肌がぴりぴりと焼けているよ
うな。念のため、長袖長ズボンで頭には帽子をかぶったがやっぱり焼けてしまって。俺も今吉さんも同じくらいに黒くなってたし、周りは元から褐色の肌なので気が付かなかったが、飛行機に乗っていろいろな国の人間を見て、「あ、黒い」と実感した。
「やっと黒子くんに会えるな、花宮。よかったなー。待っとるでー、彼」
この妖怪うるさい。
俺と黒子はつい最近、同棲をはじめた。いわゆる恋人関係である。くっつくまでは紆余曲折、というのが一番しっくりくる。いや、実際は紆余曲折どころじゃないレベルでひねくれた過程を経たのだけど。傍から見ると、仲が悪く見えるらしい。お互いに世界で一番嫌っていたんじゃなかったのか? と言われた。残念ながら俺が一番嫌いなのはこいつです。隣の座席で寝ているこの妖怪です。ぶっちゃけ、目が細すぎて今も寝てるのか起きてるのか分からないこの腹黒眼鏡です。俺は黒子のことは確かに嫌いだった。努力を信じるタイプの人間だったからだ。努力は報われる、そんな阿呆みたいな言葉にすがって生きている人間だと思っていたから。今となって知ったことだが、それはあながち嘘でもないが真実でもない。俺だから、そんなこと言ったんだろうなって思うのは少し調子に乗りすぎだろうか。あいつは、 
「報われる努力だからするんですよ」
と言った。
「自分のできることとできないことくらい分かりますよ、馬鹿じゃないんだから。確実に結果が出ると分かっているから、ボクは努力するんです。そこまでは、ね」
そんなことを思いながら他人には努力を押し付けてきたあいつは酷い人間だと思う。どこまで「結果の出る努力」だと思って押し付けたのか。高校時代の誠凛バスケ部に関して言えば、黒子の予想を上回っていたであろう。火神なんかは馬鹿なのかと思ったがそんな黒子の性格まで見抜いて心配をしていた。他に気付いている人間はいなかったんじゃないだろうか。(キセキの世代の奴らはそんなことはどうでもいいというように黒子を妄信していた。一度は捨てたのに、また盲目的に信じているようだった。)火神はそんな黒子の歪みに惹かれていたのだから、俺と同じになる。反吐が出そうだ。
俺と黒子は正反対だから嫌い合っていたのではなく、同じだから嫌い合っていて、同時に同族だから惹かれて、ここにいる。おまけに妖怪の言葉を借りるならぶつかり合って丸くなったらしい。嬉しくねえ。あの妖怪の言葉は全て嬉しくねえ。
問題があるとすれば、某恋人は某妖怪と仲が良いということだろう。俺が好き、ということで意気投合したと息を揃えて言っていた。もう知らん。黒子は「嫉妬してくれないんですか」とか言い出すし、今吉さんは今吉さんで「大丈夫やで?黒子くんはまこたん一筋やったよ。そりゃあもう、聞いてるこっちが恥ずかしいくらいには」なんて言う。黒子が惚気ける姿、俺も見たいんだけど。
大して書くこともないから報告書はあっさりと書き上がってしまった。フライト時間はまだまだ長い。時差も大きいし、寝れるうちに寝てしまおう。そんなことを考えたはじめると同時にゆっくりと睡魔が襲ってきた。少し寒いくらいの冷房の中、そこそこに柔らかい毛布の触感が悪くもなかった。


着陸の放送がかかるまでぐっすりと寝てしまった。前の飛行機でも寝ていたのに、よくそんなに眠れたなと自分自身に感心する。疲れていたんだろう。飛行機の乗り換えというのは、結構な体力と気力が必要なものだ。地域が変われば飛行機会社は変わるし、英語にも訛りが出てくる。海外出張慣れしているのならともかく、出張自体が稀な人間にはきつい。
「黒子くんに送っとこ」
「即画像を消去してください」
「誰も画像送ったなんていうとらんけどなぁー?」
「おおかた、俺の寝顔かなんかでしょう。あいつ、そんなもん見慣れてますよ」
溜息をつきながら、今吉さんの手元から携帯電話を奪い取る。似たような機種を遣っているし、携帯電話の操作なんてあまり変わるものではない。ぱぱっと消してそれを返す。一瞬しか見なかったが、自分の寝顔というのは少し新鮮だった。あいつは毎日、こんなもの見て何が楽しいんだか。
「もっとすごい顔も知るっとるんやろなー」
「突然、下ネタってどういうことなんですか。いい歳こいて。気持ち悪い」
面倒くさい男は放って俺は帰路についた。
大きなスーツケースをがらがらとひいて駅の中を歩くのは苛々する。人の波を縫うことは難しいし、周りの人間は避けもしない。急いでいるわけではないから、構わないのだが、他人のペースに合わせるのが嫌だ。どうして一人の時まで、赤の他人に動きを制限されなければいけないのだろう。仕方がない。そう、仕方ないのだ。今更、それだけである。
満員電車の中、今日が平日だと知る。曜日感覚も時間も狂いまくりだ。地下から地上に出たのか、ごおお、というような低い音が消えた。車内の音を全てかき消してしまうあの音は嫌いではない。近くの会話も、隣のヘッドホンからの音漏れもなにもかもが聞こえない。ふと、窓を見ると、ぽつぽつと水滴が張り付いては流れ落ちていた。
雨か。
傘は持っているけれど、面倒くさくてスーツケースの一番下に入れてしまった。出すのは無理だろう。降りる頃にはやんでいたりしないだろうか。雲の様子からしてそれを期待するのはなかなか難しそうだった。濡れて帰ればいいだけである。最寄駅からマンションまで走れば5分とかからない。大したことはないのだが、今の疲れ具合からすれば駅からのその数分すら歩きたくはなかった。タクシー乗る距離ではないし、もちろん歩く他はないのだ。唯一、可能性としては黒子が車を出してくれればいいのだが、あいつが俺のために車を出すはずがないだろう。出してきたら、爆笑する自信がある。
ジーパンの後ろのポケットに入っていた携帯電話がバイブする。妖怪からの連絡か、鬱陶しいな、と思って開けばメールの差出人は黒子だった。
『あとどれくらいで着きますか?』
え、もしかして。
『五分くらい』
『迎えに行きます』
いつもよりも断然、速いレスポンスに驚く。基本的に連絡は半日以上経ってから返ってくる。いや、返ってくることの方が珍しい。大方、放置である。伝わってはいるようだから、見てはいる。俺も筆まめなわけではないし、そもそも黒子に事務的な連絡以外に何を伝えたらいいのか分からない。 それは向こうも同じだろう。むしろ意味もないメールができる方がすごい。不必要なことをなぜ思い付けるのか。会話とは違うのに。
『北口のタクシー乗り場にいる』
『了解』
突然の雨に対応できなかった人間がタクシー乗り場に集まっていた。中には俺と同じように迎えを待っている人間もいるのだろう。狭い屋根の下に無理やり収まる。スーツケースが邪魔だと言いたいのかあからさまに舌打ちをされる。数分でタクシーをかき分け見慣れた自動車が停まる。 窓がスライドされ、久しぶりに見た黒子がこくりとひとつ頷いた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
「どうでしたか、今吉さんとの出張」
いつもなら助手席に座るのだが、今日はトランクも開けている暇がないのでスーツケースごと倒れ込むように後部座席に乗り込んだ。懐かしいうちの匂いがした。日本は無臭だ思うのは俺が日本人だからだろうか。海外ではどこも甘ったるいような、それでいてシナモンや胡椒のような香辛料のような香りがずっと鼻腔を突いていた。屋根の下から出てきた時に濡れてしまった髪や肩。前髪から目の前を雫が落下していくのが見えた。透明なはずの雫は背景の全て映し光を反射して白い。
「どうもこうも……疲れただけだ」
「嫌いだと言いつつ、僕といる時よりも楽しそうですけどね」
「嫉妬かよ。はっ、ほざけ」
「分かってるくせにまた、そんなこと言う」
駅のロータリーをやっとこさ抜けて、少し出てしまえば住宅街だ。大きな駅ではあるが、駅ビル以外に何があるという訳でもない。それっきり黙った黒子の運転する横顔をぼうっと見ていたら、強い睡魔に襲われた。それはもう底の見えない崖から転がり落ちるように、一瞬の落下とその後の停滞。水の底を漂うようにゆらゆらと浮きも沈みもせずに留まっている。重力を感じない浮遊感に身を任せるしかなかった。


「おはようございます。花宮くん」
かけられた毛布をよけてから半身を起こす。見慣れたリビング。空港を出てから、当たり前だが見慣れたものばかりだった。しかし、今ほど帰ってきたな、と実感はしなかった。
ソファを背もたれ代わりにして、俺の腿のあたりに色素が薄く短い髪があった。首を回した黒子の丸い目が上目遣いに俺をとらえた。本を閉じてテーブルに置いてから姿勢を一転させた。  
「……おはよう」
「全く……自分よりも大きい人を運ぶのは大変なんですよ。スーツケースのためにもうひと往復しまたし」
「お前よりも小さい男なんてそうそういな……くもないか」
「そうですよ、そこまで小さくはないです。周りがあまりにも大きかっただけです」
カーペットの上に膝をついて俺の顔を覗き込んだ黒子は俺の手から毛布を取り、てきぱきとたたんだ。自分よりも10cm以上小さい黒子に負われてここまできたのか。地下2階の駐車場から5階のここまで。途中で誰にも見られていないことを祈り、顔を洗うために立ち上がる。
「君を運ぶ間、斜向かいの佐藤さんに会いましたよ。すごく微妙な顔をされました」
たった今祈った分を返して欲しい。無表情で言い放つ黒子に舌打ちをし、ワイシャツのボタンを外す。帰ってきたときは、ネクタイもしていたはずだが、それは黒子が取ったのだろう。袖をまくりながら洗面所のドアを開ける。
端にまとめられた俺の歯ブラシや歯磨き粉(黒子は塩入りで俺は炭入り。歯磨き粉については長い討論の末、和解できず)は薄い埃を被っており、自分がいなかった期間をはっきりと目で見ることができた。色のついたガラスコップの中身を適当にぶちまけて蛇口をひねる。流れる水に手を伸ばし、びしょびしょの指先を舐めた。整備され科学的なものが含まれる飲むことに躊躇もいらない透明な水。何の味もしない。軽くビニールの表面をすすいだ歯磨き粉のチューブはタオルで水気を拭き取り再びコップに立てかける。歯ブラシは念入りに洗う。とはいえ、ブラシの部分にしか念を入れるところはないのだが。顔を洗いに来たはずなのに久しぶりに固くて大きいだけのホテルの歯ブラシではないものが使えるとなると心が踊ってきた。洗ったばかりの歯ブラシに黒い竹炭入りのじゃりっとする歯磨き粉を絞る。
歯ブラシを口に突っ込んだところで黒子から声がかかった。晩ご飯はどうしますか。もちろん答えられない。ここで何も言わなかったとしても黒子は気にしないだろう。勝手に自分が食べたいものを選ぶ。ただし、後日、甘いだけの砂糖の塊を一緒に食べないか、と輝かんばかりの笑顔で誘いに来るだろう。あれでいて構わないと怒るのだ。
黒子と生活するうちにお互いに弱みを握り握られ、という昔よりも緊迫した関係が続いている。弱み、と言うのならば既に二人とも惚れた弱み、が存在するのだが、言ったところで黒子を調子付かせるだけだし妖怪が爆笑するだけだ。意地でも一生言うことはないだろう。死んでも言わない、というやつである。
黒子はもう夕飯の献立を決めてしまっただろうか。何が食べたいか。まず和食だ。和食が食べたい。よもや自分がたかだか1ヶ月でこんなにも醤油の味が恋しくなるとは思っていなかった。醤油、味噌、山葵、そして白米。乗り換えで降りた空港で食べた和食は和食ではなかった。そこの料理人は日本人だったが「やっぱり、腕だけじゃどうにもならないんですよね。お兄さん、日本に恋人いるんでしょ? 彼女に味噌汁作ってもらった方が安くて美味いですよ」と身も蓋もないようなことを言われた。食材は大切なのだ。食材の質の大切さに気が付いた瞬間だった。
さっき歯磨き粉を立てたコップにすすいだ歯ブラシも入れて、一度寝室へ向かう。いい加減に細かい砂が付いているような感覚の拭えない服たちを全部、今すぐにでも洗濯機の放り込みたい。Tシャツとスウェットに着替えて、脱いだ服を抱えた。目の前にはスーツケース。はあ、と息をついて荷解きにかかる。せめて、衣類の整理だけはしてしまおう。乗り換えで降りた空港で1泊した時に最低限のものは洗っておいたのだが、やはり全てもう一度洗濯しておきたい。二つに別れた衣類用のネットをそのまま引きずるように持った。洗濯籠に面倒だからそのまま投げ込んだ。

 
リビングでは、黒子が相変わらず読書をしていた。ひとりなのにソファには座らない。いつもそうだ。
「こうして見ると、やっぱり焼けてますね」
顔も上げずに言った。夕飯は、と聞こうかと思ったがキッチンとダイニングテーブルに目をやれば、黒子があれから何もしていないことは一目瞭然だった。
「夕飯、何作るか決めた?」
「たこのカルパッチョ食べたいです」
「味噌汁」
「日本食が恋しかったですか? かるぱっちょ」
ついさっき人に希望を聞いておいて、きちんと要望を伝えているというのに一切、譲るつもりのない強気な態度。食いたいものがあるなら俺に聞かずに作ればいいものを。黒子の横に座る。俺がいない間にテーブルの上も下も本に侵されていた。確かに黒子はいつも体育座りで本を読むから関係がないのだろうけれど、これでは足が伸ばせない。仕方なく俺も膝を抱える。黒子を睨みつけながら。
「なんですか」
「なんですかじゃない。どうにかしろ」
「明日には密林さんから本棚が届くので少々お待ち下さい」
「また……本棚買ったのか? これは本棚から出した本じゃなくて、新たに買った本なんだな?」
ばつが悪そうに視線を外に向けた。いつだか、どうして本を買っちゃいけないんだ、と言ったことがある。黒子は学生時代から小遣いのほとんどを本につぎ込み、自分の部屋が本ばかりだったらしい。(俺自身もう何年もその様子は見てきている。)部屋を覗く度に増えていく本。棚に収まりきらなくなっていく本。読書をすることはいいことだし、もちろん悪い事ではないのだが、どうしてか親には『また本を買ったの?』と嫌な顔をされたという。その気持ちは分からなくもない。何が悪いという訳ではないのだが、とにかく『え、また?』と疑問に思うのだ。それを不快に思うのもやむを得ないこと、なのだろうか……。俺には分からない。なにはともあれ、本を買いすぎだろう。年間に100冊近いペースで増えている。もっとハイペースで本を買う人だっているなどという反論もなんども聞いたが、うちはうち、よそはよそ、である。
「そんなに買う本がよくあるな」
「図書館に行く暇がなくなってくるとどうも……できるだけ借りるようにはしてるんですけどね」
「あっそ。古いの売ったら?」
「そうですよね。なんだかんだでどの本も好きだから、なかなか踏ん切りがつかないんです」
図書館に行く暇はなくて、本屋に行く暇はあるのか。下手に突っ込むと機嫌を損ねられてしまう。黒子の部屋が書斎という域を超えて、ただの書庫に変わってきている。あの部屋には本を読むようなスペースはない。いつか床が抜けるんじゃないだろうか、と考えたこともあるくらいだ。
「よし。夕飯、作り始めますね。なめこでいいですか? わかめもありますけど」
「は?」
「お味噌汁の具ですよ」
「なめこ」
臙脂の皮できたカバーのかかった本を俺に渡した。ソファには、紺色のエプロンが無造作にかけられていて、それを頭からすっぽりと被った。実は黒子が料理をする時にあまりにも服を汚すものだから、俺が贈ったエプロンだったりする。料理をする時よりも洗い物をする時の方が酷いかな。腹の近くをよく濡らしていた。果たしてエプロンでそれが防げるのかは微妙なところだが、ないよりもましだろう。てっきり、子供扱いするなだとか、そんな言葉が返ってくると思っていたのにあっさり日常に組み込まれてしまって拍子抜けした。
 家事の当番などは特には決めていないのだが、俺の方が家に居る時間が少ないので、基本的に家事全般を黒子がやっている。早く帰れる日はできるだけ連絡を入れて、俺がやるようにしているが圧倒的に黒子の方が多くやっているだろう。ぶっちゃければ、俺の方が収入が多いのでできるだけ釣り合いを取らせたいらしい。細かい、と笑ったら律儀なだけです、と真顔で返された。
ぱらぱら、となんとなく目に付いたページだけを読む。もちろん読んだことのない本だった。新しい本なのかと思えば、随分とページが茶色く日焼けしていた。柔らかい陽とすえたような匂いが不思議と混じる古い紙が香った。ブックカバーを外すとただの真っ青な表紙が見えた。空なのか海なのか。はたまたただの青なのか。グラデーションなのか日焼けのか分からないくらいに白茶けていた。タイトルは英語で書かれていて、短い単語が2つ。とてもありふれているようでもしかしたら実際は、そんなタイトルの本は出ていないのかもしれない。文章はどちらかと言えば堅めだと思ったが、読みづらいというほどでもない。数ページ読み流した程度では、ジャンルは分からない。どうも人が死んでいるようだからミステリーだろうか。黒子の趣味は全く分からない。あまりにも乱読すぎるのだ。小説だけでなく専門書も読む。たまに描きもしないくせに、『入門! 水彩画』だとか『誰でもできる簡単色えんぴつ』だなんてものを読んでいる。イラストレーターだとかフォトショだとか、入ってもいないソフトの解説を読んでどうする気なのだろうか。受かるぞ社労士って、お前は保育士だろうが。伝わるビジネス英語? TOEIC900点代を俺が取らせてやっただろうが。その他にも経済関係のものや、建築関係なども読んでいたのを見かけたことがある。まあ、それでも一番多いのは小説だろう。
「そろそろできるので、お箸とかお願いします」
「ああ。そう言えば、あのカバー買ったのか?」
「はい? ああ、あれですか。もらいものです」
「浮気?」
「別に誰だっていいでしょう。君には関係ありません」
本にカバーをかけ直して立つ。本当に浮気だったらどうしようか、なんて呟く。馬鹿でしょう、と鼻で笑う黒子と背中合わせに俺は食器棚を開けて、茶碗や箸を出す。冷蔵庫からは麦茶を出して。平和だな。すごく平和だ。出張前は忙しくて、ほとんど家には寝に帰っているようなものだった。こうやって黒子とキッチンに立ったのはいつぶりだろうか。
橙の照明に湯気を立てるお味噌汁と白米がきらきらと輝いて見えた。食後にはチョコレートを食べようと心に決める。珍しく素敵な一日だったと言えるんじゃないか。出張前に買い置きしておいたものがまだ残っているはずだ。
「チョコ、まだあるよな?」
「今、それ聞くんですか? ありますよ、当たり前じゃないですか。誰があんな苦くて酸っぱいものを好んで食べるって言うんです?この味覚オンチ」
「うるせえよ。お前よりもチョコに会いたかったよ」



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