春は終わる【宮高】




春が近いことを示す、穏やかな陽射し。時折、吹く風は少しばかり冷たい。ドキドキと高まる胸を、ぎゅっと押さえる。シャツの上からでも体温が伝わってきた。じっとりと手の平の中に汗がこもりきもちが悪い。
高尾はキャンパスの敷地でも、一番端にあるベンチにひとりで座っていた。
高尾の心中に反して、爽やかで心地の良い天気だった。なにをするにしても、いい日和だろう。そう、告白するのにも。
ふと思い出す。
『俺は平気なんだけど、どうしてか別れた彼女と友達には戻れねえんだよなぁ』
そんなことを昔、宮地がぼやいていた。
その言葉にはあまりにもたくさんの針が付いていて、簡単に高尾の心に小さな傷をたくさん付けた。酒でも入っていたのなら、肩を揺すっていろいろ問い掛けているなり、ぐちぐちと嫌味で言って少しでも気を晴らそうとしていたに違いない。けれど、なんでもない言葉はなんでもない時に吐かれてしまった。高尾もなんでもない対応を取るしかなかった。
せっかく決め込んできた覚悟が記憶で揺らぎそうになる。
これで最後か。
無理やりこじつけた三年間はあっさり終り告げようとしている。どうせ終わるのなら、潔く散ってしまいたい、と思うと同時に、このまま関係を続けていれば、なんだかんだと会うことはできるのではないか、なんていう期待があった。
ただの鬱陶しい後輩として、たまに飲みに誘ってもらって、彼女の話を聞いて、気付いたら結婚式に呼ばれて、子供が生まれて、新居に引っ越していたりして。幸せな宮地にたまに会えるかもしれない可能性がそこにある。
自分の中の思いに蓋をして、好きな人の幸せを祈るのも、『やっぱりアリ』な気がしてきた。
左右に首を振って両頬をぱちん、と叩く。実際にそんなことをして気持ちを切り替える人間なんているのかよ、と漫画見ながら漏らしていたのだが、案外、やってみるとハマってしまった。
少しはすっきりした気がする。ここ逃げたらだめだ。相手は自他共に認める何事にも厳しい人なのだ。告白云々を置いておいても、日和ったら怒られてしまうのだろう。
でも……、と答えは見つからなかった。

「高尾!!」

聞き慣れた声に顔を上げると、真っ直ぐ走ってくる宮地の姿があった。
どうしようどうしようどうしよう。
まだ悩んでいる最中なのに、原因の宮地がもうやってきてしまった。呼び出したのはこちらだし、卒業も近い宮地に時間を取らせるわけにはいかない。
焦る。じっとりと汗が顔を覆う。首筋に汗が流れたのが分かった。

「待たせてわりぃ。どうしたよ? 珍しいじゃん」
「こんにちわ、あの、ですね」

なんだよ、と喧嘩腰の口調は変わらないのに上機嫌そうな表情をしている。何かいいことあったのかな。高尾の横に座って、高尾をじっと見つめる。思わず目を逸らしそうになったけれど、なんとか堪える。
やはり、決められそうになかった。

「あっ!」

中途半端に宮地が遅刻してきたのが悪いのだから、結末も宮地に決めてもらおう。思い付いた方法に自分でもバカだなぁ、と笑い出してしまいそうだった。

「宮地サン、なんかペン持ってない?」
「ボールペンでいいのか? つーか、敬語な」
「あ、スミマセン。 ペン、あざっす」

宮地がリュックから出したどこぞの携帯会社のマークが入ったボールペンの頭をノックして、宮地に背を向ける。怪訝そうな声でおい、と呼ばれたが無視をする。急いで、左の手のひらにハートを書いた。右利きの高尾が何かを手に記すとしたら必然的に左手に書いてしまうのは当然のことだ。しかし、何の事情も知らない宮地が左右、二択での選択を迫られた場合、出る答えは等しく半々だ。

「センパイ、右と左どっちがいいっすか?」

自分の笑顔がひきつっているのを感じながらもできるだけ、にっこりと笑って拳を二つ突き出した。意味がわからない、と顔に書いてある宮地をいいから! と急かす。

「じゃあ、左?」

ぽん、と高尾の左拳に自分の手のひらを乗せた宮地。高尾の手首を返して、握られた指を開く。そして、中からは歪なハートマークが現れる。

「なんだよ、ほんとに意味分からん」

飴でも出てくると思った……、と呟く宮地に「可愛い」と言いかけて、その言葉を飲み込む。
宮地の明るい色の瞳を見つめて、大きく息を吸い込んだ。

「宮地サン!!」
「だから、なんだよ。 いい加減にし、」
「好きです!! オレ、男ですけど、気持ちだけ伝えたかったです!! 三年間お世話になりました。大学まで追っかけてきてすみません、えっと、今日までありがとうございましたっ!?」

高尾は駆け出した。一度も振り返らずに、自分の愛車であるマスタード色のベスパが停めてある駐輪場まで、全力で走った。途中で、悲しみではなく焦燥と興奮からの涙が出そうになったが、強く目をつぶって凌いだ。
いつの間にか家に着いていて、しかも寝ていたらしく、窓の外を見たらからすが鳴いていた。時計の針も半周しているし、空は橙色で、時間の経過にため息をついた。自分の行いに、もはや、ため息すら出てこなかった。
もう、宮地に会うことはないだろう。
あれが最後だと思うと、やはり涙が出そうだった。もっと、ほかに方法があっただろう、と数時間前の自分を責める。冷静に考えても、あれはない。終わってしまったことをぐだぐだ言うのは性にあわないのだが、こればっかりは仕方ない。そう仕方ない。
たかが三年、されど三年。そして、振られても、好きだという思いは消えない。あと五年は宮地を忘れることもできない自分の姿が目に浮かぶ。
今日くらい落ち込んでもいいや。
干しっぱなしの洗濯物も、リュックから出していない空の弁当箱のことも忘れたことにして、なにもかもに知らん顔をして高尾は再び眠りにつくことにした。



寝過ぎでじくじくと痛む頭を押さえながら、うるさく鳴り続ける携帯電話に手を伸ばす。朝から誰だよ……、とディスプレイを見ると午前が終わりかけていて、驚きのあまり一気に目が覚めた。
誰からかかってきたのかも確認しないまま、電話に出る。

「もしもし?」
「おいっ!! 高尾!!」

スピーカーから大音量で自分の名を呼ぶ聞き慣れた声がした。思わず耳から離してしまう。

「え、宮地サン……はい??」
「今から会いに行く。どこにいる」

やけにドスの効いた声だった。どうして、と聞きたいのにそんなことを聞ける雰囲気ではない。いいから黙ってろ、という空気がスピーカーから伝わってくるようだ。

「家ですけど……?」
「待ってろ、すぐ行く」

ツー、ツー、と電子音がした。何かを言い返す暇もなく切られてしまった。『通話終了』と出ている画面を見ながら、数回まばたきをする。
あ、と昨日借りたまま持って帰ってきてしまったボールペンの存在を思い出す。
宮地サンが来た時に返そう。
そう思っていたのに宮地はこなかった。



高尾は相棒のベスパを飛ばしていた。あまりに焦っていたせいでヘルメットをかぶってくるのを忘れてしまった。できるだけ大通りを避けて、住宅街を抜けながら目的地である大学病院に愛車を走らせる。ついこの間もドキドキとうるさく鳴っていた心臓が今日も、うるさかった。脳の奥まで響く、規則正しい音。
愛車を駐輪場に乱暴に停めて、病院のロビーに駆け込んだ。息を切らせながら受け付けの看護師にポケットから出したくしゃくしゃになったメモを押し付けるように渡す。

「すみませんっ! 702号室? のみや、宮地清志は……?!」

高尾の慌てている様に看護師はくすり、と笑って見せた。そして、大丈夫ですよ、とメモのしをを伸ばしてから返した。

「昨日、交通事故で運ばれた宮地さんですよね。大丈夫です、昨晩には目が覚めていますよ。そこのエレベーターで七階まで上がってください。降りて、右手の部屋です」

ありがとうございます、と告げたかったのに頷くことしかできなかった。こくこく、と大きく首を縦に振ってエレベーターを見た。
閉まりかけていたドアの隙間に滑り込む。中にいた数人は驚いていた。パネルの前にいた老年の男性が、「何階ですか?」と聞いた。逸る気持ちも落ち着かない呼吸も押さえつけて、答えようとしたら声が裏返ってしまった。おじいさんは、穏やかに微笑んで7のボタンを押した。
変な風に呼吸をしたからだろうか、今度はしゃっくりが出てきた。各階で人が降りていき、残り数人というところで7階に着いた。エレベーターの駆動音しかしない室内で、ひっくぅ、などと怪しい音を出すのは恥ずかしかったが、考えてみれば、声が裏返るなど恥ずかしいこと続きである。どれだけ自分はテンパっているというのだろうか。
白い壁に嵌め込まれたネームプレートにはマジック書きの『宮地』の文字があった。部屋の番号もきちんと702号室だ。
扉を軽くノックして、いわゆる『みんなのトイレ』のような、どんな身長で使いやすいようになっている長い金属の取っ手に手をかけた。静かに扉は横に滑る。

「高尾……!」
「高尾?」

四人部屋の入口入って左手のベッドに宮地はいた。カーテンはほぼ全開で、半身を起こしていた。薄い水色の作務衣のような寝巻き。ベッド傍らには点滴パックがぶらさがり、そこから伸びた管の先は宮地の腕だ。宮地の頭には包帯が巻かれ、腕やら頬に大きな絆創膏が貼られていた。
扉の方へ首を回した宮地。驚いたような表情をしているのはベッド脇に立っていた緑間だ。宮地は当事者でありながら、特に表情の変わった様子はない。

「宮地サン……!! 事故ってまじすか!? なんともないの?」
「見たまんまだ、大丈夫に見えねえ?」
「あんまり……大丈夫には見えないんすけど……」
「そうか? 車とぶつかってかすり傷だぜ?」

俯きがちではあったが、高尾の方を見て、首を傾げた。皮肉っぽく、片側の口角を上げる仕草をして見せた。いつもよりもゆっくりとした動きに、やはり傷が痛むのだろうかと心配になった。

「高尾……あのだな、」
「緑間、刺されたい?」
「え、チョ、宮地サン、何でそんな理不尽なのww」

緑間は真剣な表情をして、眉間にしわを寄せていた。高尾が扉を開けた瞬間から何かを言いたそうにしているのには気が付いていたが、あまりにも深刻な雰囲気を醸し出していたので、自ら触れるのは躊躇われた。
自分でも驚くほどに落ち着いていると思った。いや、実際は落ち着いてなどいないのだが、無理やり押し込んで、平静を装っているだけなのだろう。少しでも黙ると、体の奥底からどっくん、どっくん、と大きく波打つ音がし始め、背中や額から汗がじっとりと出てきて、気持ちが悪かった。指先に力を込めて、ズボンの上から握る。どこかから力を放出していないと得体のしれないもので体内が満たされていくようで怖かった。

「あ、そうだ。緑間、ちょっと外せ」
「え……あ、はい」

宮地のことをまっすぐと睨みつけてから緑間は渋々といった体で病室を出ていった。高尾は緑間と宮地を交互に見た。緑間と目が合った瞬間、憐れむような、それでいて、怒りの滲み出るような暗く、強い視線を送っていた。

「どうしたんすか? っつーか、なんで緑間?」
「ん? あー、緑間はここで実習中なんだと。昨日、俺の名前見て、駆け付けてくれてさ。今は休憩中らしい」
「へえ、運命っすかね」
「……そうかもな」

宮地がベッドの横を指差したので、そこを見ると、畳まれたパイプ椅子が置いてあった。頷いて、それを広げた。

「あのさ、高尾」
「うん、宮地サン……なに?」

宮地の声のトーンがほんの少し下がった気がした。同時に、息苦しくなった。口の中が乾く。焦りとは違う感情が体を支配する。恐怖だろうか。こんなにもビビっている、と体は素直な反応をしているのに、頭ではしっかり覚悟は決まっていた。
ここで終わりなのだと、はっきりと感じた。
宮地の声以外の音は何も耳に入ってこなくなった。つい先程まで、うるさかった心臓の音も鳴りを潜めている。宮地の呼吸音まで聞こえてきそうだった。

「ごめん、もう会えない」
「そっか……そうですよね、気持ち悪いっすよね……」
「そんっ……いや、そうだな。どうせ、俺も卒業だし、先輩後輩なんてのも、ここまでなんだ。俺はもう、お前と今まで通りにしていく自信がない……」

高尾は宮地をまっすぐ見ることが出来なかった。俯いて、ちらりと目だけを宮地に向ける。宮地は自分の手先を見ているようで、しかし、どこも見ていないような、焦点の定まらない目をしていた。

「未練がましいとは思うんすけど」
「お前はいつもそうだよ」
「宮地サンが全部忘れてくれるっていうなら、オレも何もかも忘れる。だからっ……」
「だめだ。もう、ムリなんだ……」

こんなにも悲痛な声を出す宮地を初めて見た。思わず涙こぼれそうになり、つん、と鼻に迫ってくるものがあった。

「……ごめ、んなさい」

なんとか絞り出した言葉。何も言わず、高尾を見ることもない宮地を横目にパイプ椅子を元あった場所へ戻した。しつれいしました、と小さく告げて扉を開けた。

「真ちゃん……?」

ドアを出たところの壁に寄っかかっていた緑間は妙な威圧感を放っていた。しぃ、と人差し指を口元へ持ってくる動作があまりにもミスマッチでおかしかった。緑間の顔を見たら涙なんてものは引っ込んだ。コイツの前で泣いてなんていられない、そんな意地が作用した。
緑間がエレベーターホールを顎で指すので、頷いて、無言で歩き出した。

「どしたん? わざわざオレを待ってた……?」
「ああ、お前を待ってた」

エレベーターに乗り込む。他の乗客はおらず、二人切りだった。緑間は一向に口を開く気配はなく、しかし、高尾から言うこともなく、エレベーター内には機械の駆動音だけがしていた。

「オレは実習に戻る」
「はぁ?! 話すことあったんじゃねえの?」
「オレから話すことはない。ただ、お前に覚悟があるのなら、まだ諦めて欲しくはないのだよ」
「オレに分かる言葉で話せよ、アホ緑間」
「誰がアホなのだよ!! 人が真面目な話をしているというのに!」

覚悟、ならばあった。そして、その覚悟はもう役目を果たし始めている。高尾が宮地を想ってきた時間をなかったことにしていく覚悟だ。もし許されるのならば、いや、もう宮地に会うことがないのならば、この想いを化石として心の奥底にでも沈めていこうではないか。

「お前は理由を聞いてない。食らいついてくるのだよ」
「だから、何言ってんっ!?」

高尾はガンッ、という大きな音に肩をすくませた。握った拳を壁に叩きつけて緑間は低く声を漏らした。オレには何もできない、と。こんなにも憤っている緑間を見ることはそう多くない。
目的地である1階に着いたと、ドア上方のランプが光った。
一人で何事もなかったような澄ました表情で出ていった緑間の後を追っても、どうしようもないので、とりあえず、首にかけていた面会証を外して、自動ドアをくぐった。
青空の下へ出る。敷地の広い病院なので、視界を遮るものが少ない。緑も多く、病院裏手には、綺麗に整備された庭があるらしい。少し寄ってみようかな。
一瞬とはいえ、宮地が死んだかもしれないなどと考え、自分の告白が些細なことだったように感じられていた。と、同時に、自分の告白が宮地をあのような目に合わせたという意識もあり、事故で告白がうやむやになっていれば良いのに、と自分の都合だけを考えたこと思ってしまった。すぐに自己嫌悪に沈むことになったが。しかし、考えが甘かった。そんなに上手くいくわけもなく、真正面から振られてしまった。言い逃げのようなものだったのに、きちんと返してくれた。何も間違っていないのに、その過程を経ることで、『告白のようなもの』がきちんと『告白』になってしまった。よもや、こんなに自分が意気地なしだったとは知らなかった。今もなお、告白なんてなかったことにして、ただの後輩でいたかったなどと栓もないことを思ってしまう。

「わざわざオレに返事するために会いにきてくれたのかな」

建物の裏手へ回る。石畳と芝生のコントラストが大きく手を振りながら、ぶらぶらと歩いた。近くのベンチに腰を降ろす。奇しくも、昨日と似たような状況だということにふと気付き、自嘲気味な笑がこぼれた。声を出しはしないものの、不審には思われてしまったようで、抱えたリュックに顔を埋めた。
周りには、薄いピンクや水色の入院着に身を包んだ患者と思われる人が、何人かいた。車椅子の人もいたし、点滴が繋がった滑車の付いた台を転がしながら歩いてる人もいた。看護師が付き添っている人、そうでない人とまちまちだ。ただ、患者でも病院関係者でもない人間は今の時点では高尾の他にいなかった。
何分間、そうしていたのか分からないが、いつの間にか寝ていたらしい。リュックの布地が頬にひりひりと痛いし、背骨を丸めすぎて、体を起こしたらぼきぼきと鳴った。高尾を起こしたのは、ジーパンのポケットに入れた携帯電話だった。
開くと、バイト先の店長からだった。急遽、人手が必要だから臨時でシフトに入ってくれないかとのことだった。了承の旨を送り、ため息を吐いた。
帰ろう、と病院を後にした。



「高尾!!」
「っはい!! もしもし、って、緑間!?」
「今すぐに、宮地さんのところに向かうのだよ!!」
「え? なに?! なんなんだよ!!」

深夜バイト明けで、講義も午後からだからと熟睡していた時、突然鳴り出した携帯電話。出てみてば、緑間で、やけに声が大きかった。寝起きには、うるさくてたまらなかった。脳内にガンガンと響いた。
ぶつり、と通話は切られてしまった。おかげさまで目はしっかりと覚めてしまった。布団を畳みながら、お湯を沸かしてコーヒーを入れる。テレビを付けて、袋から出したそのままの食パンをかじった。
もう会えない、と言われているのだ。行くか迷った。病室まで行って、顔も合わせたくないと追い返される可能性だってある。宮地が人前でそんな態度を取るとも思えなかったが、心の中でそんなことを思われるかもしれないと思うと耐えられそうにもない。
宮地が事故に遭って、2週間が経っていた。あれきり、一度も病院には訪れていないし、連絡も取っていない。その間、緑間からも音沙汰無しで、高尾は宮地がどうなっているのかを何も知らなかった。
宮地のことを考えなくても済むようにバイトを増やし、講義とバイトを繰り返して、家には寝に帰るだけという生活を送っていた。
テーブルの端に置いた携帯電話が光る。ぴろろん、とメールを受信した音がする。
『大丈夫だから今すぐに来い』
あいつはオレの何を知っているんだろう。ぼんやりと液晶の文字を二度三度、目線でなぞる。
マグカップを流しに置いて、食パンの入っていた袋をゴミ箱に。洗面所へ行って、顔を洗って歯を磨いた。Tシャツにパーカーを羽織り、スウェットからジーパンに履き替える。玄関に置いてあるヘルメットを持って家を出た。
この間と同じように緑間からの連絡で病院へ向かう。状況は似ているのに、こんなにも違う想いを抱えている。今の方が、随分と余裕があるが、違う種類の恐怖心が頭をもたげていた。



宮地の病室がある7階でエレベーターを降りる。そのフロアのナースステーションを通り過ぎたところで、宮地の弟の祐也がいた。

「よう、高尾。久しぶりだな」
「あ、祐也サン……お久しぶりです」
「今なら、兄キひとりだから」

じゃあな、と入れ違うようにエレベーター乗っていってしまった。病室のドアを開けて、宮地を見る。寝ているのわけではないのだろうけれど、一向に高尾に気が付く気配がない。ただ、誰かが入ってきているのは感じているようだった。

「宮地サン……?」
「……高尾か?」
「はい、高尾ですケド……」
「パイプ椅子あんだろ、座れ」

宮地はベッドの右脇を指したが、実際には左脇に置かれていた。

「ん……右じゃなかったか」
「なんか言いました?」
「いや、なんでもない」
「あ、これ。お見舞いにと思って」
「そこの棚に置いといて」

高尾はようやっと気が付いた。宮地は目が見えていないのかもしれない、と。高尾が持っているのは花束であって、宮地の言う棚には空の花瓶が置いてある。普通なら、適当に活けておいてくらい言いそうなものである。パイプ椅子の場所に関してもそうだし、ドアを開けた時に一瞬、首をドアに方へ向けたにも関わらず、高尾が声をかけるまで何も言わなかった。入ってきたのが高尾だということも分かっていなかったように見えた。
もちろん、思い過ごしかもしれない。しかし、一度『見えないのか?』と思ってしまえば、今まで感じてきたちょっとした違和感の全てに説明がいってしまうのだ。

「宮地サン、もしかして、目が見えない……?」
「……分かるもんか?」
「どうすかね、オレはちょっと変だなってくらいにしか」
「そっか……確かに、目が見えない。いわゆる、失明ってやつだ」

突然どうしたんだ、と思わずにはいられなかった。どうしてそれを自分に言うのだろうか。それを言ってどうしたいのだろうか。事故の原因を辿れば自分かもしれないと自分を責めることしかできなかった高尾に、この言葉は傷を抉るものでしかなかった。

「オレのせいって言いたいんすか?」
「は? なんの話だよ」
「だって、宮地サン、オレに返事しようとして事故に遭ったんでしょ?」
「いやまあ、そうなんだけど」
「じゃあ、やっぱりオレのせいじゃん!!」
「話を聞け!! 轢き殺すぞ?」

宮地に怒鳴られ、高尾は俯いて大人しくパイプ椅子をキィキィと鳴らすことしかできなかった。宮地は高尾を指差して、俺がいいって言うまで黙ってろ、と言った。頷いてから、ああ見えないんだと気付き、ハイと返事をする。

「悪かった……。俺はお前のことを気持ちわりい、とか考えたことねえから。一回だって思ったことはない。お前の気持ちに戸惑わなかった……、ってことはないけど、それは嫌悪感とかそういうところからじゃなくて、いや、確かに、男じゃねえかとか思ったけど、とにかく、普通に嬉しかったよ。誰だって素直に好意を伝えられたら嬉しいもんだろ? んでさ、俺、事故で目が見えなくなっちまって、お前にこれ以上、背負わせたくなくて……こういうこと自分から言っちゃうとすごい格好はつかねえし、お前に結局は心配させるだけになっちまうな……で、お前に俺のことなんて忘れてもらいたかったんだ。今もそうなんだけど。そんなようなことを祐也に話したんだよ。そしたら、あいつ、緑間に話やがってさ。緑間がわざわざ会いに来て『高尾は本気です。あなたが思ってる3万5千倍くらい、あなたを想ってます』って。よし、しゃべってもいいぞ」

改めてしゃべってもいいと言われても、それどころではなく、口をぱくぱくとさせることしか出来なかった。

「緑間のやつ、ちょっとしばいてきます」
「第一声それかよ」
「あいつはオレの何を知ってるんだか知んねえっすけど、この間から意味深なことばっか言うんすよ。あーもう、むかつく」
「俺の話聞いてた?」
「はい、ちゃんと聞いてましたよ」

結論が見えてこない。何を言いたいのかが全く予想が付かなかった。それとも、結論なんてものは何も存在せず、本当にこれだけなのか。

「なあ、3万5千倍の想いってまだ残ってる?」
「なに、言ってるんですか……? オレがどんな気持ちで帰ったか分かってますか?」
「だよな……虫が良すぎるよ。ありがとう、もう会えないっていう言葉は撤回するから、まだ、お前が俺に会いたいと思うんだったら、いつでも会おう。俺も会いにいくから」

会いにいくっていうのも変だな、と笑った宮地。釈然としないけれど、高尾にとって望んでいたひとつの形に収まったことは確かだった。おかしいと思うことがあるとすれば、宮地は視界を失って、どうしてこんなにも落ち着いていられるのだろうか。

「もう、見えないんすか……? オレのことも、みゆみゆも? それこそ、祐也サンだって、木村さんのことも?」
「……ああ、なんにも。強い光とかはぼんやり感じるけどな」
「どうして、そんなに落ち着いてるんすか?」
「お前の前だから」
「あのさ、あんたさ、オレのことなんだと思ってるんだよ?! いい加減にしてくれないすか?!」

さらりと言いのける宮地にもはや怒りがこみ上げてくる。高尾が怒鳴りつけると、同室の患者がおそるおそるといったように仕切り代わりのカーテンから顔をのぞかせる。ここは病院だったということを思い出し、声のトーンを落としてもう一度言う。

「ふざけてるわけじゃないんですよね? オレが知ってる宮地サンはそんな質の悪い冗談言わない」
「冗談じゃねえからだろ」
「いい加減にはっきり言ってくださいよ……! 分かんねえすよ、もう……」

自分の情緒不安定さをひしひしと感じる。宮地の表情が窺い知れないのも、原因のひとつだろうか。

「あーうん、だよな。まず、聞きたいことがある」
「……なんすか」
「まだ、俺のことは好きか?」

高尾には宮地がひどく怯えているように見えたが気のせいか。ついさっき似たようなことを聞かれたはずなのに、また聞く意味はなんなんだ。

「好きですよ、当たり前じゃないすか」
「1年後は好きか」
「は? 1年? こちとらもう3年弱も宮地サンが好きなんですけど」
「待っててくれるか?」

決して高尾を捉えることはな虚ろにゆらゆらと定まらない瞳が高尾の声のする方向を見る。高尾は困惑していた。とにかく、はっきりしないのだ。そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだ。

「俺がこんな状況じゃお前の負担にしかならないから、今は駄目だ。治るんだってよ、俺の目。1年かからない間に治るんだって。だから、俺の目がもう一度見えるようになったら……俺付き合ってくれませんか?」
「え……? ん?」
「絶対じゃねえから、もし1年後、治ってなかったら、高尾、お前は俺のことなんか忘れて欲しい。もちろん、待たなくてもいいぜ」

ゆっくり、宮地の告げた言葉の数々を咀嚼していく。徐々に宮地が何を言ってるのか分かり始める。これはよくできた夢なんじゃないだろうか。頬をつねってみる。

「宮地サン、いま、オレ、どんな顔してると思います?」
「真顔」
「ちがいますよ、真顔ってなんなんすか」
「ひとりの時、お前は笑わない」
「今はひとりじゃないですよ。ちなみに泣きそうです」

宮地は目を瞑って、薄く笑う。ティッシュはそこにあるはず、そう言って指を指す。

「言質は取りました。オレ、待ちます。何年だって」
「それは駄目だ。1年だ。来年の今日まで。はい、指切り」

小指を立てた拳を突き出す。高尾は同じようにして、宮地の小指に自分の小指を絡めた。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。もう成人した男ふたりで、何をやっているんだろう、なんて思いながらも嬉しくて、笑みがこぼれた。口角が上がるのを自分では抑えられなかった。カーテンを手早く閉めた。パイプ椅子から立ち上がり、宮地の胸元に抱きつく。ぐりぐりと額を押し付ける。宮地が痛い痛い、と笑い声混じりで言った。

「宮地サン、約束守るから、さっさと治してくださいね。オレもただで待つつもりないですから、そこはよろしくしてください」
「なにする気だよ。俺もできるだけのことはするさ、自分のことだしな」
「こっち向いて、宮地サン」
「向いてるよ、たぶん」

高尾は顔をあげる。
宮地の閉じたまぶたを縁取るまつ毛が微かに震えた。
消毒液とかアルコールとか、とにかく鼻につく清潔感の代名詞のような香りが漂う。
宮地の肩に手を置いて、キスをした。










宮地さん、おめでとうございました。


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