昨日、蛇を。【森黒】




昨日、蛇を助けたんだ。
話題が尽きそうだったので俺は昨日あった話をした。ミーティングのあとの昼食。先日の練習試合の反省会をした。いつぞやの誠凛との練習試合ほど酷くはなかったが、よく研究され、弱点をもろに突かれた。分かっていたからこそ悔しくて、分かっていてもすぐに直せるものではないのが弱点だ。もどかしさを抱えたままの試合。笠松の不在も大きかった。笠松がいなきゃなにもできないのか、と三年は焦り、その焦りが後輩へ伝わってしまえば後はずるずると負の連鎖。反省会を仕切る笠松の困った顔に自分が惨めになった。それは小堀も同じだろう。

「急になんだよ」

俺が空気を変えようとしていることが分かったのか、言葉の割に好意的な語調で笠松が乗った。

「珍しくないか? 蛇だぞ?」
「小さいアオダイショウくらいならいるんじゃないか?」

黙って弁当を食べ続ける二年と黄瀬は、いつものようにアホみたいに絡んでこない。確かに今回の試合はそれなりに反省点は多かったが、それは同時に学ぶものが多くあるということだ。公式戦ではないのだから、というのも少し違うが、それこそ公式に記録が残らないのだから負けるときは負けてしまえばいい。落ち込むための試合ではないのだ。

「種類とかよく分かんないけど、真っ白……? うーん、ちょっと水色がかってたかな、表面。そんで、目がビー玉みたいに真っ青だったんだよ。ほら、ラムネの栓みたいに」
「ラムネのビー玉は透明じゃね?」

つーか、表面って言うな。ウロコだろ。箸を突き付ける笠松に蛇への愛情のようなものを感じるのは俺だけだろうか。笠松のかにクリームコロッケか、小堀のだし巻き卵(しらす入り)か。どちらを先に狙うか迷いつつ、中村の弁当を見る。両親が忙しい人だとかで毎日、自分で弁当を作っているという中村。彼の弁当に豪華さはないが、凝り性の中村は地味な割りに美味いおかずの数々を海常面子に振舞って(奪われて)きた。今日は豚の生姜焼き丼だと……? 丼の場合、おかずを奪われることはない。丼の具は具でありおかずではないからだ。具を奪われることは死活問題である。
早川も牛丼(吉野家。ちなみに俺は松屋派)だった。
残るは黄瀬だが、黄瀬は大抵が購買のパンを昼食とするので狙うに値しない。少ないバリエーション、三年ともなれば食べ飽きるには十分の時間があった。週に2回以上食べているような気がする焼きそばパンを頬張る黄瀬。また焼きそばパンかよ、と言うこともできないくらいには種類が貧相な購買なのだ。

「で、助けたってなにをしたんだ?」

小堀が話を戻した。俺は弁当の品定めをやめて、俺は昨日の下校途中のことを話すために一口、水筒のお茶を飲んだ。

「ああ、いつもの帰り道での話なんだけど。うちに近いところで小さめの横断歩道を渡るんだ。寒いなーって青になるのを待ってた。隣で特に風もないのにかさかさって落ち葉が音を立てるもんだから綺麗なお姉さんでもきたかなって横見るじゃん。なんにもいないんだよ。下見るとさ、なんか白い紐みたいなのが落ちてた。紐か、と思って放っておいたんだけど、また、音がする。もう一度見ると、今度は目が合って、首を上げてる、っていう表現でいいのか分からないけど、とにかく紐だと思ってたものが首を持ち上げてて、やっと蛇だって認識した。だからといってなにをする訳でもないし、よく考えたら蛇が信号待ちしてるってすごいことに気付いてTwitterしてたら、青になったから信号渡った。渡りきってから、振り返ると、その蛇はまだ横断歩道の真ん中に辿り着かないくらいだったんだ。そこの信号、別に短いわけじゃないんだけどね。とにかく、茂みから大きめの枝を取ってきて、早足で横断歩道引き返して、枝を蛇の前に置いたら、蛇が一拍してからするするっと登って? 巻き付いたからダッシュでその枝折れないように持って渡った。枝を取ってきた茂みに枝ごと蛇を離したら、蛇が信号待ってた時みたいに首を持ち上げてから、下げたんだよ。なんかお辞儀したみたいだなって、手振って帰ってきた」

我ながら滑舌がいいな、と感心しつつレギュラー面子を見渡す。笠松が目線を逸らして考え込む顔をしていた。小堀は、俺を見て笠松を見て、最終的に弁当へ。黄瀬は、近くを通った女の子三人組に手を振っていた。イケメン爆ぜろ。

「先輩……疲れてるんじゃないですか?」
「そうっすよ!!疲れて(る)んすよ!!」
「早川うるせえ、コメ粒飛ばすな」

中村が俺に可哀想な人を見る目を向けた。可愛らしい思考回路ですね、とさらに刺してくる。鋭いのは目線だけにしてほしいものである。中村に同意してきた早川を適当なこと言ってるだろ、と頭を軽くはたく。と、その後すぐに逆隣に座っていた笠松にも叩かれていた。

「森山先輩、蛇みたいだからっスかね」
「黄瀬? どういう意味だよ、それ。誰が爬虫類顔だ」
「自覚あるんじゃないスか」
「爬虫類顔……なるほど」
「納得するなよ、小堀!!」

最後の砦である笠松を見るが、笠松もぽん、と箸を持った手を打った。そもそも爬虫類顔ってどんな顔だよ。あいつら、目大きいじゃないか。だからまさにビー玉みたいなんだよ。俺はどう見たって切れ長で涼しげな、はっきり言って細い方だろ。

「白い蛇、か……どっかの家から逃げ出してきたのかもな。小さかったんだろ?」
「ああ、20センチ……もなかったな。ねえ、笠松、蛇すきなの?」
「おう、好きだよ」
「先輩、もう1回お願いしてもいいっスか?」

スマートフォン片手に準備万端という表情の黄瀬を無視して満面の笑みのデレ松に自分のスマートフォンを見せる。ほれ、と画像を表示すれば笠松が食い入る様に画面を見た。挟まれている早川は黙々と牛丼2個目を消費していた。

「ん、俺、別に詳しくないんだけど、この色は少し不自然じゃないか? でも、人口の色っぽくもないし……」
「そうなのか? 暗かったし、灯りが月だけだったからなんとも言えないんだけど、ウロコが虹色だった。角度によって色が変わった。写真はこっち向いてる時に許可もらった」

許可って……許可……、と何度も『許可』と繰り返しながら笑い始めた中村と黄瀬。黄瀬は笠松を盗撮しようとしていたので小堀に叱られていた。ざまあ。黄瀬に笑われるのは無性にイラッとくるだけで済むのだが、中村に笑われると傷付くのはなぜだろう。中村が眼鏡を取って、ハンカチを目に当てていた。中村、お前の笑いのツボおかしいぞ。

「確か珍しいかもな」

にっと笑った笠松が可愛くて、俺もつられて笑う(本日2度目)。言っておくがホモではない。笠松に可愛いと言うともちろん怒られるしシバかれる。三年になってから、いや、主将を引き継いでからは部活以外でも仏頂面が増えていたので笠松が笑っていると俺も小堀も嬉しいわけだ。そこで、俺等が『笠松が笑ってると嬉しい』なんて言ったらそれこそ気色悪いだろう。小堀はたまに言うけど、あいつが言うと全然ホモっぽく嫌味にも聞こえないのに、どうしてか俺が言うと黄瀬に全力で睨み付けられるからホモオーラ出ちゃってるんだと思う。だから照れ隠しと揶揄と事実を織り交ぜて可愛いと褒めることにしている。同性にも可愛いと思うことはあるさ。かっこいいと思うことの方がもちろん多いけれど。
とっくのとうに食べ終わっていた弁当箱を閉じながら、かにクリームコロッケもだし巻き卵も貰い損ねたことに気付くがもう遅い。ちょうど予鈴が鳴り、解散となる。今日の部活はいつも以上にしごかれるだろうな、とぼんやり考えつつ教室へ向かった。



案の定、練習メニューが少し追加されていた。基礎練は、倍になった。その分、ゲームもシュート練も時間がなかったから減ってしまって、体力的には限界なのに気持ちが不完全燃焼のままだった。最寄駅を降りて、暗い住宅街を歩く。途中、住宅街の真ん中だというのに街灯がほとんどなくなって道の脇が全て林になる。男の自分でも時々怖いくらいだから、女の子なんかは変質者的な意味も含めて相当には怖いのではないか。まあ、ここらへんで変質者が出たという話は聞いたことがないから平気なのだろう。
昨日、蛇に出逢った横断歩道は林の間を通る道路にある。一応、林は自然公園ということになっている。元は神社の敷地だったそうだが、道を作るに当たって、公園として開放したらしい。中には遊具のようなものはないが、都会ではかなり珍しい自然の多さがある。小さな川も流れており、うる覚えだが、ここの神様は水に関する神様だったはずだ。
相変わらず赤の信号を前に足を止める。かさり、と音がした。

「あれ……?」

昨日の蛇だろうか、なんて期待をしつつ横を見ると着物を着た、多分、男性がいた。思わず声を出してしまって恥ずかしい。

「こんばんわ」
「こん……ばんわ」

その男性は、月光に青白く薄く光っているかのように見える白い着物に、濃紺の帯を締めていた。羽織りは帯と同じほとんど黒みたいな濃紺で、薄い水色で小振りな撫子の花が染抜かれている。足元の散りばめられた撫子からゆっくりと視線を上げていくと、それこそ羽織りの撫子と同じ色の髪が見えた。白い肌にビー玉みたいな濃い水色の瞳。表情は能面みたいに微動だにしないが、微笑んでいるようにも困っているようにも見えるという不思議な表情だった。中性的な顔の造作から女性か男性か分からなかったが、発せられた声が女性というには少し低すぎたので男性なのだろう。短髪なのかと思ったら後ろに細い三つ編みが垂れていた。
まるで蛍のように全身がぼんやりと淡く浮かび上がっているようだったが、羽織りがそこをぐっと締めていた。
なにはともあれ、綺麗という言葉以外に形容しようがなく、俺は目を離すことができなかった。

「綺麗な……着物ですね」
「そう言ってもらえると嬉しいです。頂きものなのです。私も気に入っているので今日はこれを選びました」

鈴を転がしたような声。本来ならば女性に使う言葉のだろうが、ぴったりだと思った。声、というよりも音に近いと思った。鉄琴を一度叩くと音が響き弱くなっていくように一つ一つの音が響きを持って耳に届く。

「貴方は、森山さんのところのご子息ですよね」
「あ、はい」

誰かに似ている。雰囲気が、いや、顔もよく見ると誠凛の黒子くんによく似ていた。目の前の彼に比べると黒子くんの方がまだ表情豊かだろうか。昨日の蛇のウロコのように見る度に表情が微かに違うというのも不思議なものだ。

「昨日は有難う御座いました」
「ああ、昨日の白い蛇……」

すとん、と落ちるように納得する。

「ええ。助かりました」

いつもならすらすらと無駄なくらい話せるのに、今はなにも言葉が出てこない。
す、と腕を伸ばした。その手の中には鮮やかな緋色の扇が開いていた。突然、現れた『緋』に目を奪われる。

「ミカミさま……!」
「黒子くん!?」

横断歩道の向こう側に、息を切らした制服姿の黒子くんがいた。今まで一切、入ってこなかった細かな雑音が戻ってくる。夢と紛うような空間に自分はいたような気がする。隣から大きなため息が聞こえてきた。信号は青で、黒子くんが走ってくる。

「あまり出歩かないでください」
「きちんと言ってから出てきましたよ」
「あんな書き置き一つで、なにを」

色違いみたいな二人が目の前で口論を始めた。

「黒子くん……? えっと、これは……?」
「海常の森山さん? こんばんわ。うちのものがお世話になったようで」

ぺこり、と黒子くんが頭をさげる。うちのもの? 何がなんだか分からない。一瞬にして分からないことだらけで、ついさっきまでのことを疑問も持たずに受け入れていた自分がおかしいことに気付く。

「お時間よろしければ、うちに来ませんか?」
「時間は平気だけど、黒子くんの家こっちなの?」
「はい。割と近いと思いますよ。寒いので早く行きませんか?」

誘っておきながら急かして申し訳ありません、と謝りながら黒子くんがミカミさま、と呼んだ彼の腕を取る。まるで双子みたいだな。一歩遅れて付いてくる彼を引っ張っている。こら、寝ないの、と黒子くんが声をかけたものだから俺も驚いて振り返ると、彼はうとうとと目蓋を重そうにしていた。

「え、こっち?」
「はい。この先に神社あるの知りません?」
「知ってる……」
「そこです、うち」

神社が家ということは神主さんの家系なのか。林の中をざかざかと進んでいく黒子くんはどうやら急いでいるようだ。どこもかしこも同じに見える木々の間を落ち葉を踏み鳴らして進む。落ち葉の音があまりにもうるさくて、黒子くんが何か言ったのがうまく聞き取れなかった。黒子くんも、苦笑いをした。彼は今も尚、船漕いでいた。それなりに早足で歩いているというのに器用なものだ。

「ここです。ミカミさまはさっさと戻ってください。こんなとこで寝たら置いていきますからね」
「……それは困ります。さむいです」

さっき彼が出した扇のような真っ赤な鳥居を前に息を飲む。夜の神社って雰囲気あるな。厳か、っていうのはこういうのをいうのか。ぼんやりと暖かい光を灯す燈籠を左右に拝殿を眺める。
脇の社務所へ通され、渡り廊下を進む。この先に黒子くんの家があるのだろう。

「和室だ……」
「珍しいですか?」
「ああ。うちにはないから」

足の短い机の上には白い花が活けられていた。柔らかい座布団に正座をして、お茶を持ってくるという黒子くんを待つ。再び目の前には彼がいた。羽織りは脱いでいて、もうどこもかしこも白くて、まるで雪の精かというくらいだった。よく見ると着物には六角形が敷き詰められているような刺繍がされていた。六甲文、という紋様だった気がする。

「お名前、聞いてもいいですか……?」
「テツヤと同じようにミカミでいいですよ、由孝さん」
「ミカミ、さん?」
「はい」

お盆に三つの湯呑みを乗せて、黒子くんが音もなくふすまを滑らせた。崩して頂いて構いませんよ、とミカミさんが湯呑みを受け取りながら言うので、お言葉に甘えて胡座に脚を組み直す。

「何から話せばいいのか……そもそも、お礼といっても大したことはできないのです」

ミカミさんは、そう言って緑茶を冷まそうと白い湯気の立つ湯呑みへ息を吹きかける。

「えーと、質問してもいいのかな?」

瓜二つの二人に交互に視線を遣る。こくり、と頷く黒子くん。

「こちらの彼は……えっと、なにもの?」

ミカミですってば、と目を細くしてミカミさんが言っているけれど、聞いていることはそういうことではない。黒子くんもそれを分かっていて、ミカミさんの頭をはたく。

「ミカミさまはさっさと寝なさい。彼はこの神社の神様です。水神さまで、よく蛇の姿でうろうろしています。ミカミさま、というのはミズガミさまが崩れてミカミさま。本人が気に入っているのでそう呼んでいます」
「神様……」

聞きたかったことはあらかた話してくれた。なんと聞いていいか分からなかったし、とても助かる。

「はい。まあ、本人の意向で割とラフな付き合いといいますか、親しくさせて頂いています。森山さんはタメでもいいと思いますよ。むしろ、それを望んでいますよ」
「そうです。敬語でなくていいですよ」
「どうして昨日は」
「力尽きて人の姿になれなかったんです」

そうミカミさんが言った途端、黒子くんの説教が始まった。

「だから、あれほど遠くに行くなと言いましたよね? 道路を渡って向こう側に行くなど言語道断。ちびっこが最近は減ったからといって、貴方がフラフラできるほどこの世界は優しくないんですよ。今は冬ですよ。冬眠しないんだったら大人しく英気を養ってください。眠っていない分、力が弱まっていることは自分でも感じているんでしょう? あんまり僕に心配かけさせないでください」

静かに淡々と言っているのに、怖い。本気で怒ってるというのが伝わってくる。それだけ心配しているということか。適度にぬるくなってきた緑茶で体を温めながら、説教を続ける黒子くんと半分寝ながら頷いているミカミさんを見る。

「そうです。お礼。テツヤも客人を前にして私に小言など言っている場合ではないでしょう」
「それは貴方が……! はい……そうですね。最もです」

こちらに向き直った色違いの二人が俺を見る。

「簡単なお願い事だったら叶えられます。これでも神様なので」

ふわり、と誇らしげに微笑んだ。

「う〜ん、願い事と言っても……あ! WCで優勝!」
「駄目です。というかそれで叶っちゃったらどうするつもなんですか、森山さん」
「そうですね。叶えられません。由孝くん、もっと『わぁ、今日、運が良かったな』って思う程度のお願い事を願ってください」

なかなか難しいことを言う。運が良かった、と言ってる段階で願うのは相当に難しい。願ったら運じゃないし、運というのは不意打ちで訪れるから嬉しいものだろう。黒子くんの言う通り、例えこんな風に勝てたとしても嬉しくないんだけど。バレたら笠松に殺されるだろうし、絶対。

「可愛い女の子と出逢いたい……?」

出逢いならば、偶然=運として成り立ちそうな気がする。さりげなく黒子くんがため息をついた。ミカミさんは、うーん、と一つ唸った。顎に手を当てて俯き気味に考え込んでいるようだ。可愛いの基準について考えているのだろうか。動く様子のないミカミさんを見ながら、黒子くんにお茶のおかわりを入れてもらう。

「寝ましたよ、これ」
「やっぱ寝てるのか……」

黒子くんがミカミさんの肩に手をかけて起こそうとするのをやめさせる。しい、と人差し指を口に当てて静かに、と伝えると、さっきとは違うため息が黒子くんから溢れた。肩を竦めて苦笑で応える。
鞄を持ち上げて見せた俺に黒子くんは頷いてそっと立ち上がった。俺もゆっくり廊下へ出る。靴下をはいているのに、まるで素足で氷の上を歩いているような冷たい床。黒子くんはなんてことのない顔で歩いているけれど、まるで刺さるような痛さだった。慣れの差なのか。

「もう帰るね。俺、これでも受験生だしね」
「すみません、何もできなくて。むしろ、引き止めてしまって」
「いいよ、別に」

そんな期待をしていたわけではない。
本当に烏滸がましいですけど、と黒子くんは足を止めた。

「暇な時、だけでいいですから、たまに顔を見せてあげてくれませんか」

渡り廊下から見えた月は相変わらず白い。

「春まで、寝てばかりだから当分は放っておいていいです。ほんの少しでいいので……」

黒子くんの表情が辛そうに見えたのは気の所為なのかは分からない。俺には黒子くんのほとんど無表情に近い微かな変化から感情の機微など読み取ることはできない。月に照らされて一層青白い顔は人間離れしていた。死人のようだ、とかそういう感じではなくて、人ではないミカミさんを見た時と同じような感覚だった。もちろん、黒子くんは人間で俺と同じ高校生だ。そう脳では分かっているのに、どうしてか脳の隅が黒子くんをミカミさんと同化したがっている。

「君とミカミさんは別人だよな?」
「へ……? あ、もちろん。僕は人間でミカミさまは神さまですよ?」
「そうだよね、うん。なんか、まるで白昼夢でも見ているみたいだ。夜だけど」

くす、ととても小さい音の筈なのに周囲が静か過ぎてはっきりと聞こえた黒子くんの笑い声。笑わないでよ、と返そうと思ったのに、なにかがぺとりと頬を撫でたことによって引っ込んでしまった。ひんやり、とした俺の頬よりも少しだけ冷たくて、少しだけ湿度を持ったもの。決して暖かくはないのに、外からの風が遮られただけで包まれた頬に熱を感じる。

「つねってみます?」

黒子くんの手だ。
全部やけに感覚がはっきりしているだけの夢なのではないか、とどこかで考えていたが、黒子くんの手がここは現実で夢でもなんでもないのだと告げていた。
目の前の黒子くんの瞳も髪もどこにでもいる東洋人のそれ。夜の黒さに尚深い色になっている。それが月に白い肌と見事なコントラストになっていた。視覚とそれ以外の感覚が上手く噛み合わない。視界の中は夢のようなのに、小さな針が無数に刺さっているような足の裏の冷たさも、頬に触れる手もはっきりと感じるし、口の中には緑茶の温かさが残っている。耳には風が林の木々を揺らす音が入ってくる。

「つねったら、痛いよ」
「当たり前じゃないですか。どうかしました? 」

目の前を白い手のひらが数回横切った。目の前の黒子くんに上手く焦点が合わなかった。一度二度、瞬きをすれば眼球の上を異物であるコンタクトレンズがゆっくりと中央に降りてくる。

「……ちょっと、寒くて」
「あ。すみません、僕、スリッパ出すの忘れてました。 森山さん、受験生なのに」

どうしよう、とおろおろし始めた黒子くんに大丈夫だよ、と声をかける。もう帰ろうっていうのに今から出されたって俺だって困るし、それを分かっているからこんな風に焦っているのだろう。そう思うと、なんだか可愛い。うちのアホ一年代表は全部顔に書いてあるのでとてつもなく分かり易い。それもまあ、可愛っちゃ可愛いけど、黒子くんみたいにあまり感情を顔に出さない子だからこそ、たまに見せる表情が可愛い、みたいな。ギャップ萌え? 見たことないものが見れるって素敵なことですねっていう話。
黒子くんの手の感触が拭えなくて、ずっとそこに柔らかな熱が留まっているような感覚が続いていた。しかも、可愛いとか考えたのも影響してか急に恥ずかしくなってきた。

「それ以前に、君も俺もWC近いんだから。風邪なんて引いてる暇ないだろ?」
「はい、もちろんです」



もりやま、と急に名前を呼ばれて自分が居眠りしていたことを知る。後ろ向きに椅子に座って俺の頭をはたいてきたのは小堀だった。

「森山、疲れてるのか?」
「うーん、そんなことないはずなんだけど」
「疲れてるようには見えないけど、授業中に居眠りするなんて珍しい」
「いやー、やらかした。爆睡しちゃった。小堀、ノート見せて」

言うと思った、とさっき俺をはたいた緑ノートが差し出された。ぱらぱらとめくると、男にしては綺麗な文字が並んでいる。たまに俺が書いた落書き(ドラえもんとかアンパンマンとか)が端に書いてあって、懐かしいなんて思う。このノートが何冊目か分からないけれど、そのうちの半分以上のノートに俺の落書きが存在していると思うと誇らしいような寂しいような。

「俺、恋したかも」
「お赤飯炊いてもらいなよ」
「なんで」

あの日からふとした時に、頬を触ってしまう。意味もなくさすってみたり、つねってみたり、引っ張ってみたりしている。ミカミさんに綺麗、という感情を抱いた段階で黒子くんにも綺麗だと思っているようなものだと気付いた時には遅かった。あの手が忘れられなかった。あの目が忘れられなかった。

「彼女が欲しいっていうのは、好きな人がいるっていうわけじゃなくて、ようは誰でもいいってことだろ? そういうのってひどいと思うから。振られるかもしれなくても、きちんとそういう人に出会って欲しかったし」
「いい話しながら俺の心抉らないでくれ





森山先輩、おめでとうございます。


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