緑間からバスケを奪った宮地さんの話




それは偶然でしかなく、悪意なんて欠片もなかった。やっと、『チーム』らしく成り立ってきたチームは再び、戻る。いや、前よりも酷いかたちとなる。傷跡をたくさん残して。いっそ、全てがなかったことになるなら、まだ良かったのに。絶対に叶わないことを祈り、自分の傷は軽いのだから、と縋って目を逸らし隠し続ける。ひとつしかないように見えるかもしれないが、同じだけの深い跡がいくつも隠れたまま、秀徳高校のバスケットボール部は崩壊する。




金属がぶつかり合い、大きな不協和音を立てる。

 驚きに目を大きくすれば、同じように見開かれた深みのある緑青の瞳と、暗い飴色の瞳がお互いを捉えた。

 突然、静まりかえった体育館。何があったのか。自分の目で見ていたはずなのに何も分からなかった。記憶がそこだけ抜けてしまったかのようにその何も思い出せない。そんなことを考える間もなく、体が動いた。
 「大丈夫か?! 緑間?!」
 目の前の金属を避け、床に尻をついている緑間に宮地は駆け寄った。
 「……っく、だ、いじょうぶ……とは、言いがた、っいですね」
 緑間は自分の足を見て、息を吐き出すも辛いのか時折、音を詰まらせながら言った。宮地は緑間の靴下、バッシュが明るく濃い赤色に染まっていくのを見た。その赤はゆっくりと明度を落としながら床の上に不思議な硬さを持って広がっていった。軟かさを感じさせる滑らかさな動きに、床についた自分の膝も侵されていく。温かくも冷たくもない何かに吐き気を催しかける。
 沈黙はあっという間に喧騒に変わるが、宮地の耳にはどこか遠く、ただ荒い緑間の息遣いだけがはっきりと聞き取れた。


 今日はここまでにしよう、という大坪の声に一斉に動きを緩めた部員たち。宮地も他の部員と同じようにシュートを打とうとしていた腕を降ろした。脇にボールを抱え、ボールかごまで走る。ちょうど、後輩からボールを受け取って、かごに戻していた木村が声をかけた。顔色悪いぞ、今日は休んだ方がよかったんじゃないか、自分を労わり心配する言葉をいくつも掛けてくれる。
 「俺は至って、普通だし、元気だ」
 言葉の割に険しい表情をしていることに気が付いていないのか、そう言い切る宮地の声からははっきりと拒絶を感じ取り、木村は言葉を途中で切った。宮地は木村に一度頷いて見せて、ベンチに早足で向かった。投げ捨てられたタオルの横にあるスポーツドリンクに手を伸ばす。
 「それ、オレのっすよ。宮地さんのそっち」
 なんの感情も感じられない声で高尾は自分のスポーツドリンクと全く同じ見た目のものを手渡した。なんで、分かんの、と宮地が聞けば、黙って容器の側面を指さした。そこにはデフォルメされた鷹のシールが貼られていた。
 「今日は休むかと思ってましたよ」
 「ふうん」
 「反応うっす! 休まないところは宮地さんらしいっすけど、休むべきっすよ!! やっぱり、宮地さん、自分が思ってる以上に疲れてるから! 鏡見てきた方がいいっすよ!」
 「俺は平気だ」
 「だから、平気じゃないって言ってんの……!!」
 珍しく声を荒らげ、じっと宮地を睨みつけた高尾。その手は強く拳を握っていた。宮地は大きく息を吐き、スポーツドリンクを持っていない方の手を高尾の頭に置いた。
「……悪かった。心配かけちまったみたいで」
 分かったんならいいんすけど、と拗ねたように漏らした。照れ隠しなのか、スポーツドリンクを一気に呷る。そんな高尾の姿が微笑ましくて、薄く笑みをこぼす。しかし、すぐに唇を強く噛んで、俯いた。
「っくそ」
 舌打ちをして、両手で顔を覆った。手の中で唇同様に目をぎゅっと閉じる。だめだ、俺にその資格はない。宮地は部活を辞めるつもりだった。それは当然の責任の取り方だと思っていた。少し考えればそれは最善でもなんでもないことは分かるはずだ。それすらに気付けないことが既に彼の困惑と困憊を表していっていると言っても過言ではないだろう。だから、高尾はさっき、休む休まないという形で声をかけたわけなのだが、やはり、それにも気が付いていない。部活が終わり、部員たちが帰ってから監督に会いに行き、―退部届けなるものが必要なのかどうか分からないが―退部届けを出す。そのために今日は部活に出たのだった。
 「宮地、少しいいか」
 顔から手を外し、声のした方に視線を向ける。急な明るさに目がチカチカしたが、それも一瞬。床に座っている宮地の目の前に大坪が立っていた。でけーなー、と他愛もないことを思い、立ち上がる。モップがけだのなんだのとしている後輩たちを尻目に二人は体育館を出て、部室に入った。
 「なあ、宮地」
 「ん?」
 先輩だから、ということだけで後片付けを放って抜けることは宮地にとって、いや大坪にとっても自分の先輩論のようなものに反するのだが、仕方がないのだ。こうするしか方法がなかったとも言える。

 宮地があのまま体育館にいることは、『よくない』ことなのである。部にとって。昨日のことが事故だということは誰もが知っているが、それでも宮地は加害者である。
 宮地は、自分だけが片づけをせずに体育館を出ていくことも、今までと同じように後輩たちと片づけをすることも、どちらも許されない身なのだ。それを分かっていて、且つ、後から文句などが出せないように動けるのは主将である大坪だった。

 俺、こいつとおんなじチームでバスケできてよかったな。

 ふと、そんなことを思ってしまって、涙腺が緩みそうになる。恥ずかしいが青春と呼ぶにふさわしかったと思う。バスケに捧げた高校生活。ほとんどが大坪と共にいて、何度も救われ励まされた。こんな馬鹿みたいなことで終止符を自分で打つはめになるとは思ってもいなかった。自分のだけならいいのだ、自己責任なのだから。自分よりもはるかに将来有望な後輩からバスケを奪っているかもしれないのに。重い軽い以前に選手に怪我を負わせたことは、部に属する者として許されない。

 何度、同じことを考えただろう。何度も、何度も、自分を責めるだけ責めてはみているが納得なんてできない。この憤りはどこへ向けたらいいのか。八つ当たりすることもできなかった。自分は故意でやったわけではないのだから、確かに事故ではあるのだ。だが、そういう問題ではない。勢いに任せて、物に当たってしまえば良かったのに、とも思うが、直前にそれはただの無駄だと動きを止めてしまう。物を壊しても自分の苛立ちが収まらないことも緑間の怪我が治らないことも分かっているのに、なぜそんなことをする必要があるのか。
 「宮地……。溜めこむなよ」
 「俺は別に」
 「お前は感情の起伏が激しいようで、本当は誰よりも冷静で合理的なところがあるからな」
 お前には敵わないよ、と誰か部員のタオルを脇に避けてベンチに座る。自分の隣を叩いて大坪を呼んだ。大坪は困ったように笑って、黙って腰を下ろした。
 「あとで監督のところに行くんだろう?」
 「なんで、分かんだよ……」
 「いつになく馬鹿だな、お前」
 「はあ? 俺は馬鹿じゃねえよ」
 「知ってるよ。少なくとも、今のお前は馬鹿だけどな」
 「…………否定はしない」
 ふいと、決まりが悪そうに視線を逸らす。扉が半分開いたロッカーに無造作に置かれたエナメルのスポーツバック。積まれた小汚い雑巾が目に入る。
 「なんだ、分かってたのか」
 「なんとなく、俺、何考えてんだろって気はする」
 「昨日の今日だってのに、随分疲れてんな」
 あんまり、自分を苛めてやるんじゃない。真っ直ぐ前を見て、大坪は言った。今、目を合わせたら、なんかダメな気がする、と宮地は一度、ゆっくり目蓋を閉じた。宮地が顔を逸らしたまま黙っていると大坪はまだ続けた。お前は、自分に厳しすぎるよ。だからこそ、ここにいるのかもしれないが。でもな、それもやりすぎれば何の効力もないことくらいわかっているだろう? 今回のことはお前の性格が裏目に出たな。自分に厳しい分、他人に優しくされることくらいは認めたらどうだ? まあ、ただの照れ隠しだってことはよく知ってる。まだ、続ける気らしい大坪に諦めて声をかけた。
 「今日は偉く饒舌だな」
 大坪は宮地と目を合わせて、笑った。
 「今日は照れないんだな」
 「ふざけてんのか」
 「お前の頭は冷えたか?」
 「は?」
 「まあ、いい。監督のとこ、行くんだろ? そろそろ、丁度いい時間じゃないか?」
 「あ、ああ」
あっさりと部室を出ていった大坪の言葉を反芻する。汗臭さと微かに制汗剤の臭いがする部室に一人残される。心の隅では理解していることのような気がする。いいや、嘘だ。理解している。それが正しくて今、自分の成そうとしていることは間違っているのも、全て。だが、蓋をして見なかったことにしている。自己暗示というものは思いの外、効果があるようだった。見たくない見たくない、と目を逸らし続けていれば、それはなかったことになる。
 「結局は主観ってそんなもんだよな」
 初めから分かっている。故意的になかったことにして、そう思い続けている間にあっさり改竄されてしまうなんて、人間は馬鹿だ。自分に甘いようできているんだ、と皮肉る。
 後輩たちが戻ってくる前に着替えてしまおう。自分のロッカーを開ける。中には大したものは入っていないが、常に置いている予備のTシャツやタオルを鞄に投げ込んで、着替え始める。脱いだジャージを袋にしまって、鞄へ。
 空になったロッカー。
 扉の外からがやがや、と声が聞こえ出したので、急いで部室を後にした。


 「失礼します」
 一度、校舎に戻り、教師がまばらに残っている職員室に入る。宮地の声に反応してでてきたのか、中谷が湯気の立ったマグカップを持って、出てきた。顎で職員室の奥をさした。奥にあるのは、相談室とは名ばかりの主に説教に使われている部屋だった。他の教師にも聞こえることはないし、個別で話すべきことだと分かってあの場所を指定しているのだから、大坪と同じように宮地が何を話しにきたのかはわかっているのだろう。
 当然か。小さく溜息を一つ吐いて、『相談室』とかかれたプラスチックのプレートがぶら下がった部屋の扉を開けた。
 「で、なんの用だ?」
 「バスケ部を辞めます」
 向かい合ったソファー。脚の低いテーブル。応接室の名残だと思われるこの部屋。奥のソファーに宮地が座り、宮地の分のコーヒーも持ってきた中谷は扉側のソファーに座った。
 「うん、だろうな。言うと思ったよ」
 「じゃあ、そういうことで」
 「分かってるくせにそれで済ませる気なのか」
 席を立とうと、鞄を肩にかけたところで睨みつけられる。人が出してやったコーヒーに口も付けないんだー、と嫌味っぽく、というか子供じみてすらいることを言った。
 「……すみませんでした」
 一度浮かせた腰を下ろし、白いマグカップに手を伸ばす。
 「どうして、元から分かり切ったことをわざわざ説明しなきゃいけないのか。本人も分かっているし、どうせ、辞められないことなんて分かっているんだろう?」
 「…………そういう問題じゃないんすよ」
 「ああ、あえて形だけでも?」
 嫌味としか受け取れない。じゃあ、どうしろっていうんですか、そう怒鳴り返してやろうかと思う。マグカップを持つ手に熱気がふわりとふれる。白く温かみというものを感じさせない白熱灯の元におぼろげな湯気が立っているのが見えた。
「……監督、もしかして怒ってるんすか?」
 「怒られるようなことしたの?」
 「いや、してないっすけど……」
 まさかこんな態度を取られるとは思っていなかったので、少し困惑している。止められることは分かっていたし、止められたら自分は残るしかないと言うことも承知している。怒っている、というよりかは拗ねているように見えたが、いい年した大人が、しかもこの監督に限ってそんなことはないだろう、とコーヒーをすする。
 「あ、うまい」
 「そうだろう」
 突然、ドヤ顔された。もう、意味が分からない。
 ん?…………なんか、分かった気がする。コーヒーか。これか。
 「うちは『東の王者』と呼ばれるだけの強豪校だということは分かっているよな? 今年はキセキの世代、緑間を獲得したこともあって、他校から随分と警戒もされている。しかし、今年は予選トーナメントで誠凛に負けた。緑間がいても、だ。だからと言って、他校が警戒を緩めてくれはしまいし、そんなことを計算に入れて勝つようなチームなのか、うちは? まだ、わからないが、もし緑間の怪我がWCに間に合わないものだったらどうする? お前はその状況で辞めるのか? それが責任だとか思っているのかもしれないが、お前はこの秀徳高校男子バスケットボール部のレギュラーを勝ち取った身だぞ? 全国区の部なんだよ、ウチは。そこのレギュラーだろ、お前は」
 「…………うっす」
 「緑間のことは事故だ。あんな古いもん出させた俺にも責任の一端はある。あんまり気に病むんじゃない」
 宮地が頷いたのを見て、よし、さっさと帰れと中谷はマグカップを入ってきた時と同じように両手に持って、さきに部屋を出ていった。


 緑間の怪我が軽くないであろうことは誰の目にも明らかだった。だから、すでに中谷は緑間がいない前提でこれからのことを考えている。少なくとも今年のWCには出られないと。
 緑間は今日は部活以前に学校に来ていないようだった。高尾の話だと、検査が割と時間がかかるとのことだった。
あの後、緑間は救急車で近くの総合病院に運ばれた。何も救急車を呼ぶほどではなかったらしいが、初めて見る血液の量だったものだから、誰もが慌ててしまったのだった。病院に付き添ったのは監督の中谷だけである。高尾は今朝、学校に来る前に病院に寄ったらしい。面会時間外にどうやって、と聞いたら、あそこ親戚のお姉さんが看護師やってるから、内緒で入れてもらったんすよ、と笑っていた。高尾の笑顔から察するに、そこまで悪くはないんじゃないだろうか。そうであることを願いたい。そんなことは希望的観測でしかないことは分かっているけれど。高尾には悪いが、あいつの笑顔は信用していない。それが宮地の本音であり、それは高尾とある程度接していれば誰もが抱くものだと思っている。いい意味でも、悪い意味でも。街灯の少ない暗い道、通行人は宮地以外にはいない。よいしょと、鞄を背負い直してゆっくりと歩を進めた。
なんで、俺じゃなかったんだろう。
最終的はそこに戻る。自分は運良く体格がよかっただけで、それ以外には何も持っておらず、ただ努力だけで無理矢理補ってきた。努力することしかできなかったから、努力をしたに過ぎない。緑間には才能があった。努力も自分と同等、それ以上してきたから今の緑間がいると思っているが、でも、やはり、持っているものが違うのだ。僻みもないと言ったら嘘になるが、それでも僻みなんてものよりもプレイヤーとしての憧れと尊敬がある。
俺はあいつのバスケが嫌いじゃない。実際、プレイだけで言ったらダンクをばんばん決めるような派手なプレイの方が好きだが、しっかりとした正確さを持った静かで、思わず見入ってしまうような型破りなプレイもありだと思えてきていた。
 俺はその全てを奪った。

 俺だったら、良かったのに。

 今更、何を言っても後の祭りであり、自分が同じ怪我を負ったら負ったでやはり、誰かしらに心配をかけてしまうだろう。だから、本当は誰も怪我なんてしなければ良かったのに、なんて呟いてみる。言うのはタダだ。タダだが、虚しい。
 「あーもーやだ。死にてえ」
 轢くだの刺すだの、いつも言ってはいるが、それでも死にたいなんて言ったことはない。そんな馬鹿らしい言葉を使ったことはなかった。本当に死ぬつもりなんかないくせに、簡単に死ぬなんて言葉を使うんじゃんねえ、というのが宮地の感想である。他人に対して嫌だと思うことを自分が
 やるほど阿呆ではない。
 何も変わらないじゃないか。あれだけの人間が死にたいと言うのだから、それなりに気が楽になったりあうつのではないか、思ったのだがそんなんことは全くなかった。何も変わらなかった。逆に気が重くなる、ということさえなく、本当に意味がなかったとしかいいよう言いようがない。

 ただいまー、と玄関に靴を脱ぎ捨てて階段を登る。おかえりー、と扉の閉まったリビングから複数の声がした。部屋に入り、上着をハンガーにかけながら、カーテンの閉められていない窓を見た。窓に映った自分の顔があまりにもひどくて思わず笑みがこぼれた。



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