うろこはサカナの定義であるか




空の青よりも黄色を多く含んだ鮮やかな水色のTシャツに手をかけた。交差した腕が顔の辺りまで上がる。ほら、と後ろを向いて、背中を見せてきた。
でっぱった肩甲骨にくしゃりと乗ったTシャツ。背中は日焼けで黒く、水泳をやっている人間特有の筋肉のつき方をしていた。
「さわっていい?」
「いいよ」
太陽の光は容赦なく降り注ぎ続いていた。白い砂浜も、波もきらきらと輝いていた。いや、太陽そのものも含み、どれも乱暴的なまでの光を放っていた。目を細めることしかできなかった。肌に突き刺さるような光線と温度、そして、それらの鋭さとはうって変わってどんよりとまとわりつく湿気に立ちくらみがした。
手を伸ばす。
背中には、見慣れないものが並んでいた。薄く透きとおっているタイルのようなものが、ところせましと背中の皮膚の上を覆っていた。太陽の光があたると、それは青にも赤にも紫にも黄色にも見えた。虹色だった。首を傾げていけば、同じ速度で色が変わっていく。万華鏡と同じだ。万華鏡は回す速度でしか模様は変わらない。
じっと、ただTシャツをめくり上げていた。見えるのはうなじと背だけであって、その表情は窺い知ることはできないが、きっとどんな表情もなく、真顔でいるのだろうと思った。
「つめたいね」
決して流れに逆らうことはなく、三本の指の腹で、上からそうっと撫でていく。かさかさ、と乾燥した触感だった。薄く薄く伸ばしたガラスはあまりにも軽くて、まるで紙のようだった。ただし、紙ほどの軟らかさはない。
果たして指へと伝わる冷たさはどこから来るのだろう。軽いタイルのようなものーーうろこ、と呼んで差し支えないだろうーーは、素材は置いておくとして、その厚みは冷たさを維持することはできないだろう。では、うろこの下の皮膚だろうか。日焼けで黒いのに、まだ赤みを帯びてて、いかにも熱を持っていそうだ。そして、痛そうだった。
「ずるいね」
「なにが?」
「とぼけないでよ」
顔を近付けて、じいっとうろこの一枚一枚を観察する。それは、透明で、白っぽい細い筋が何本も走っていた。まるで葉脈のようだった。何枚もが重なっているところは、もはや白かった。
陽に翳したら、さぞかしきれいなのだろう。
ふと、そんなことを思った。
思うと同時に手は動いていた。我ながら驚いた。思うより先に口を開く程度であれば可愛い欠点として済まされるが、思うより先に手が伸びるようなことはあってはいけないだろう。そんな癖も経験もなかった。しかし、ゆっくりとうろこの表面をなぞるように触れていただけの指に力が込められて、うろこの端を掴んだのだ。
そして、ぶちり。
うろこを一枚引き抜いてしまったのである。
「いてっ」
「ごめん」
いいよ、とは言ってくれなかった。
黒いものに混じったたった一本の白髪を引っこ抜くのとは勝手が違った。確かに肉がちぎれる音が指先を伝わって聞こえてきた。あまりにも生々しい感覚に、一瞬、吐き気にも似たような感覚が襲った。
直径が三センチメートルにも満たない角の丸いいびつな五角形だった。色はなく、透明で、白い筋が幾何学的な模様を見せていた。目の前まで手を運び、見つめる。手の角度を変え、その輝きを無心で楽しんだのち、腕を大きく海に向かって掲げた。片目を瞑り、眩しいだけの光へかざした。
白い筋があって、レンズのように向こう側全てをそのまま写すわけではなかった。
「サカナがヒトと泳ぐのはずるいんじゃないかな」
「それが生えているとサカナ?」
ぼんやりと空と海の色を見せていたうろこ。
うろこが生えていることはサカナだということだろうか。いいや、とかげだってへびだってうろこは生えているだろう。こんなにも硬質ではないが。
「ちがう」
「じゃあ、これはなに」
「どうして聞くの。どうして知っていると思うの」
なぜ、どうしてと問われているのだろう。問いたいのはこちらだ。どうして、ヒトにうろこが生えているのだ。あなたはヒトではないのか、ヒトにうろこが生えたらサカナなのか。
どうして、あなたはそんなにも速く走るのだ。速く泳ぎ、誰よりも速く走るのか。
サカナならば、水からあがれば死んでしまえばいいのに。酸素が見つからなくて、苦しさで朦朧としたまま、水の中の抵抗と温度を思って意識を手放してしまえばいいのに。
どうして、息をするのか。
「いいよ、答えが知りたいんじゃなくてきみの思っていることが聞きたいから。なにか言ってよ」 
なんでも、いいよ。
うろこを毟った、そこから赤いものがひと筋流れていた。まごうことなく、それは血液である。ああ、血は赤いのだ。当たり前だ、あなたの頬は血色がよい。
「あなたはサカナではないの?」
「サカナならエラがあると思わないかい?」
「あなたはヒトではないの?」
「何があればヒトでサカナなのかを明示してくれなければ、分からないよ。何がサカナでヒトなのか知らないのだから」
こちらとて、そんなことは知らない。ただし、うろこの生えたヒトはいないし、二足歩行をするサカナはいない。いないかどうかは、地球のすべてを見てきたわけではないから、言い切ることはできないけれど。
二足歩行が人類の定義だろうか。うろこが生えていることが魚類の定義だろうか。
「言い方を変えよう」
赤い筋は細くなりながらも重力に従いつつ、白い砂浜を目指して進んでいく。びっしりと生えたうろこのわずかな凹凸を乗り越えて、跡を残しながら黒く熱い皮膚と透き通った冷たいガラスの上をなぞっていく。
うろこは、たんぱく質なのだろうか。
「きみはどうして欲しい」
どうして欲しい、思わず繰り返した。間抜けだっただろう。そうだよ、と少し遠い声が応えた。
「ヒトとして走るか、サカナとして泳ぐか、どちらかでいて欲しい」
笑った。
真面目に答えを出したはずなのに、あはははは、と大きな声で笑った。しかし、一切揺らぐことのない背筋とほんの少したりとて跳ねない肩がおかしかった。気持ち悪かった。目の前にいるのは人形か何かであって、この笑い声は別の何かから発せられているようだった。
自分の思考のなかに「人形」という言葉を見つけて、思う。あなたをヒトとして認識しているのだと。しかし、やはり認める気持ちはどこにもないので、ヒトの形をしたサカナであれば、人形と呼んでもいいだろうか。いいとしよう。
「サカナに負けたんだ」
「まだサカナじゃない」
「きみがサカナと呼んだんだ、これが生えているから、と」
「あなたはヒトでもサカナでもない」
「呼吸もできない空気の中で走ったサカナに、空気の中でしか生きることのできないきみは負けたんだよ」
ぱたり、と赤いものが散った。白い砂の間に消えていく。目を奪われた。
視線の先には自分とあなたの素足、自分のつま先とあなたのかかと。
はっと顔を上げた時には、もう首に熱い指がかかっていた。鮮やかな水色の布地が皮膚もうろこも覆い隠し、手汗をかいたてのひらが、気道を圧迫していた。ぬるり、と手のひらは首の上を滑った。
いま、目の前で息をしているあなたは、ヒトだ。息をしている。
「きみが死んで欲しいとさえ言ってくれれば、どこぞから飛び降りて死んだのに」
サカナもヒトも高いところから落ちれば死ぬよ、トリじゃないんだから。
何度も握りしめたことのある、見つめたことのある、細いのに骨っぽい指が、ぐいぐいと皮膚に食い込んでいるのが分かった。どうして、そんな顔をしているのだ。やはり、空気中の酸素は取り込めないのだろうか、苦しそうだ。サカナなのか、あなたは。
ふわり、と身体が軽くなるような感覚が訪れる。



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